第七話 皇都への道
◆
翌朝、空が白み始める前に、一行は町を出た。
東の街道が混み始めると聞き、いつもより早い出発になった。
吐く息が白い。
リリアは栗毛の背で、まだ薄暗い道の先を見つめていた。
外套の胸元には、昨日選んだ淡い紫の布花がある。
再会。
失った人や物、場所。
もう一度出会いたいものへの願い。
その少し下には、小さな銀の花鈴もある。
馬が歩くたび、
ちり。
ちり。
かすかな音がする。
「寒くありませんか?」
横からヴィクトルの声がした。
「大丈夫です」
答えてから、リリアはヴィクトルの外套を見る。
白い布花。
今日も胸元にある。
前方では、ファリダとシリルがヤシャラ語で何かを話している。
道。
町。
東。
そんな単語がいくつか聞き取れた。
「昨日より聞き取れる気がします」
リリアが言った。
「早いですね」
「単語だけですけど」
「それでも十分ですよ」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「私も、負けませんから」
「まだ競っていたんですか?」
「もちろんです」
リリアは思わず笑った。
「では、今日も三つ覚えましょう」
「四つにしませんか?」
「急に増やすんですか?」
「皇都へ着くまでに少しでも覚えたいので」
皇都。
その言葉に、リリアの笑みが消えた。
ヴィクトルも気づいたらしい。
けれど、何も言わなかった。
◆
日が昇るにつれ、街道の様子が変わっていった。
道幅が広く、石畳も、これまでより整っている。
一定の間隔で石標が立ち、その脇には馬へ水を飲ませるための石槽まで置かれていた。
行き交う人々も多い。
大きな荷車。
商人の一団。
色鮮やかな衣を着た旅人。
家族連れ。
荷を積んだ驢馬。
何頭もの駱駝を連れた商隊までいる。
年始めの祭りへ向かうのだろう。
外套や荷物には、昨日の町で見たものとは形の違う花飾りがついていた。
「昨日までと、道が違いますね」
リリアが言った。
「皇都へ続く街道に入りましたから」
ファリダが答えた。
「皇都……」
「このまま順調なら、今日中に外縁の宿場へ入れます」
「もう近いんですか?」
「ええ。明日には皇都へ入れるでしょう」
「明日……」
思っていたより早い。
リリアは手綱を握り直した。
ヤシャラへ来ることを決めた時から、分かってはいた。
皇都へ行く。
皇宮へ行く。
皇帝と会う。
それでも、遠い場所の話だった時と、明日そこへ着くと聞くのとでは訳が違う。
「緊張しますか?」
ファリダが尋ねた。
「……少し」
「今からでも休みます?」
「いいえ」
リリアは首を横に振った。
◆
昼を過ぎた頃だった。
前方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。
一頭ではない。
規則正しく重なる音。
街道を歩いていた人々が、次々と道の端へ寄っていく。
ファリダの表情が変わった。
「止まってください」
短い声だった。
リリアは栗毛を止めた。
ヴィクトルもすぐ右側へ馬を寄せる。
シリルは前方を見た。
「王宮の騎馬だな」
「分かるんですか?」
「旗」
リリアも目を凝らした。
街道の先から、騎馬の一団が近づいてくる。
十騎ほど。
先頭の騎手が掲げる細長い旗には、金糸で花と鳥のような紋様が縫われていた。
「皇帝陛下の?」
「皇宮の使者です」
ファリダが答えた。
リリアの胸が強く鳴った。
騎馬隊は速度を落とした。
そのまま、一行の少し手前で止まる。
先頭の男が馬を降りた。
三十代ほどだろうか。
濃紺の長衣の上に革の胸当てをつけ、腰には湾刀を下げている。
男はまずファリダを見た。
ヤシャラ語で何かを言う。
ファリダが答える。
速い。
リリアにはほとんど聞き取れない。
けれど、途中で一つだけ聞き取れた。
ナディル。
無意識に手綱を握る指へ力が入った。
「リリアさん」
ヴィクトルの声がした。
「大丈夫ですか?」
「はい」
そう答えてから、リリアはファリダを見た。
会話はまだ続いている。
「……でも」
「はい?」
「何を話しているのか分からないのは……」
ファリダがこちらを振り返った。
「リリアさん」
「はい」
「皇帝陛下からです」
リリアの背筋が伸びる。
「ここから皇都まで、皇宮の護衛をつける用意があるそうです」
「護衛……」
騎馬の男たちを見る。
「陛下の命令ですか?」
「いいえ」
ファリダはすぐに答えた。
「あなたが望むなら、です」
「断っても?」
「もちろんです」
リリアは黙って、騎馬隊を見た。
彼らに囲まれて皇都へ入る自分を想像した。
安全なのだろう。
道も空けてもらえる。
何かあった時にも守ってもらえる。
けれど。
「……断ります」
ファリダの表情は変わらなかった。
「理由を聞いても?」
「護衛していただくことが嫌なのではありません」
リリアは言葉を選んだ。
「でも、この方たちに囲まれて皇都へ入ったら……」
一度、騎馬隊を見る。
「私は、皇帝陛下に連れてこられたように見えませんか?」
「そう見る者はいるでしょうね」
「私は、自分で来ました」
「はい」
「それを……なくしたくありません」
自分でも、うまく説明できているか分からない。
それでもファリダは頷いた。
「分かりました」
ファリダが隊長へヤシャラ語で伝える。
男はリリアを見る。
怒った様子はない。
何かを尋ねた。
「何と言っているんですか?」
「皇都までの案内も必要ないか、と」
リリアは考えた。
全部断る必要はない。
「道案内は……お願いできますか?」
「ええ」
「でも、囲まれるのは嫌です」
ファリダが訳す。
男は一瞬目を見開いた。
そして、ほんの少し笑った。
右手を胸へ置き、リリアへ頭を下げる。
短く何かを言った。
「今のは分かります」
リリアが言った。
「良い旅を、ですよね?」
男の笑みが少し深くなる。
「ええ」
ファリダも笑った。
「合っています」
リリアは覚えたヤシャラ語で礼を返した。
◆
二騎だけが少し離れた前方を進む。
残りは別の道へ向かった。
リリアはその背中を見送った。
「よかったのか?」
シリルが横へ来た。
「何がですか?」
「十人も護衛がいれば楽だったぞ」
「シリルは、私が断ると思っていたでしょう」
「まあな」
「だったら、聞かないでください」
「でも、道案内は頼んだな」
「必要だと思ったので」
シリルが笑う。
「何ですか?」
「いや」
「またそれですか」
「ちょっと変わったなと思って」
リリアは眉を寄せた。
「どこが?」
「前なら、全部断るか、全部任せるかだった」
リリアは答えられなかった。
少し考える。
「……必要なものだけ、お願いしてもいいんですよね」
「ああ」
「ファリダさんにも、そう教わりました」
「じゃあ、できてる」
シリルはそれだけ言って、前へ戻っていった。
リリアはその背中を見る。
それから、小さく笑った。
◆
王宮の騎馬隊と合流してから、しばらく進んだ頃、先頭の隊長が馬を緩めた。
シリルへ何かを言う。
シリルもヤシャラ語で答えた。
短いやり取りだった。
けれど、隊長の目が、鋭くなったのをリリアは見た。
シリルはいつも通りだった。
隊長はそれ以上は何も言わず、前へ戻っていく。
「シリル」
「何だ?」
「今、何を聞かれたんですか?」
「皇宮まで来るのかって」
「何て答えたんです?」
「行くって」
「それだけ?」
「それだけ」
リリアはシリルを見る。
本当に、それだけなのだろうか。
ただ、皇宮の男のシリルを見る目が、ファリダやヴィクトルを見る時とは少し違って見えた。
リリアはそれ以上は聞かなかった。
◆
午後、街道の緩やかな坂道の両側には低い樹木が並び、その向こうに乾いた丘が続いている。
やがて、先頭を進んでいた騎馬の男が振り返り、何かを言った。
「もうすぐ見えます」
ファリダが訳す。
「何が?」
「皇都です」
リリアの胸が鳴った。
坂を上る。
あと少し。
栗毛の蹄が石を踏む。
そして、視界が開いた。
「……」
リリアは息を呑んだ。
遥か下方、広い平地に巨大な都市が広がっていた。
長い城壁、白や淡い褐色の建物。
青や赤の屋根。
いくつもの塔。
その間を、銀色の線が走っている。
「川……?」
「水路です」
ファリダが答えた。
都市の外を流れる大きな川から水を引き、皇都の中へ巡らせているのだという。
乾いた土地の中。
水路に沿って緑が広がっている。
冬だというのに、庭園には濃い緑が残っていた。
そして、都市の一番奥。
小高い場所に、大きな建物群がある。
白い石壁。
深い青の屋根。
空へ伸びる細い塔。
塔と塔の間には、年始めの祭りのためだろうか。
長い色布が風に翻っている。
「あれが……」
「皇宮です」
ファリダが言った。
リリアは見つめた。
皇帝がいる場所。
セイランが仕えている場所。
母も、あの都を歩いたことがあるのだろうか。
あの空を見たことがあるのだろうか。
胸元の紫の花へ触れる。
再会。
誰と何と、自分は再び出会おうとしているのだろうか。
「リリアさん」
ヴィクトルが隣へ馬を寄せた。
「はい」
「緊張していますね」
リリアは少し考えた。
「……しています。怖くないと言ったら、嘘になります」
皇宮を見る。
「でも」
迷いはなかった。
「行きたいです」
ヴィクトルはリリアを見た。
「では、行きましょう」
「はい」
少し間を置いて、リリアは尋ねた。
「ヴィクトルさん」
「はい?」
「一緒に来てくれますか?」
ヴィクトルの青灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
それから、
「もちろんです」
いつもの丁寧な声だった。
リリアは小さく笑った。
「ありがとうございます」
風が吹く。
胸元の銀の花鈴が鳴った。
ちり。
その隣で、ヴィクトルの白い花も、風に揺れていた。
◆
同じ頃、皇都の皇宮。
高い窓から差し込む夕日が、執務室の床を赤く染めていた。
ナディルは机の上の書状から顔を上げた。
扉の前に、一人の侍従が立っている。
「陛下」
「何だ」
「西街道より報告が入りました」
ナディルの手が止まった。
「リリア殿の一行が、皇都西方へ到達したとのことです」
「そうか」
「護衛の申し出は辞退されました」
ナディルは驚かなかった。
「道案内のみ、受けられたそうです」
ナディルの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「なるほど」
「再度、お迎えを出しますか?」
「必要ない」
返事は早かった。
「しかし――」
「自分で来ると言った」
ナディルは椅子の背へ身体を預けた。
「ならば、自分で来させろ」
「承知いたしました」
侍従が頭を下げる。
しかし、退出はしない。
「まだ何かあるのか」
「祀院にも、情報が入るものと思われます」
ナディルの表情から笑みが消えた。
「入るだろうな」
「よろしいのですか」
「隠せば、余計な憶測を生む」
ナディルは立ち上がった。
窓へ向かう。
眼下には、年始めの祭りを控えた皇都が広がっていた。
通りには色とりどりの布。
広場には花を模した飾り。
遠くから鐘の音が聞こえる。
「十七年前」
ナディルが呟いた。
「ミレナは、この国を去った」
侍従は何も言わない。
ナディルは夕暮れの皇都を見下ろした。
「そして今、その娘が自分の意思で戻ってくる」
冬の風が窓を鳴らした。
「静かな年始めには、ならないな」
皇都の空を、祭りの花布が大きく翻った。




