第六話 自分で選ぶ花
◆
昼を過ぎた頃、一行は次の町へ入った。
門をくぐったリリアは、思わず馬上から辺りを見回した。
「……花?」
町中が花であふれていた。
赤や白、青、黄、紫。
細く裂いた布を幾重にも重ねた花々が、家々の軒先から吊るされている。
木を削って作った花。
色糸で刺繍された花。
乾燥させた小さな花を束ねた飾り。
通りの上には色とりどりの布が渡され、冬の風を受けて揺れていた。
「綺麗……」
思わず声が漏れた。
前を行くファリダが振り返る。
「ここでも祭りの準備が始まっていますね」
「年始めの祭りですか?」
「ええ。あと半月ほどですから。このくらいの時期になると、どこの町も少しずつ飾り始めます」
リリアは頭上を見上げた。
赤い布花が風に揺れている。
「黒百合の祭りではないんですよね?」
「違いますよ」
ファリダが笑った。
「新しい年を迎える祭りです」
「そうなんですね」
「黒百合に関わる行事もありますが、それだけではありません。家族で祝ったり、友人と贈り物をしたり。大きな町では何日も宴が続きます」
「何日も?」
「ええ」
リリアはもう一度、通りを見る。
黒百合の国。
いつの間にか、そんなふうに考え始めていたのかもしれない。
冬を越し、新しい年を待ち、飾りを作り、家族や友人と祝う。
そういう普通の暮らしがここにもある。
「リリアさん」
ヴィクトルが横から声をかけた。
「馬を預けるそうです」
「あ、はい」
リリアは慌てて手綱を引いた。
◆
宿へ馬と荷馬車を預けたあと、一行は旅に必要な物を買い足すため、市場へ向かった。
人がとにかく多い。
これまで通ってきた町より、ずっと賑やかだった。
飛び交うヤシャラ語は、ほとんど聞き取れないが、知っている言葉が時折混じる。
前方で、シリルが露店の男へ何かを尋ねる。
返ってきたヤシャラ語は速い。
店主が笑う。
シリルも何かを返した。
さらに笑い声が上がる。
リリアは少し不思議な気持ちで、その背中を眺めていた。
「どうしました?」
ファリダが尋ねる。
「いえ……」
リリアはシリルを見る。
「シリルが、いつもと少し違って見えて」
「違いますか?」
「うまく言えませんけど」
ローダン語を話している時とは、声の調子が違う。
身振りも、言葉を返す間も。
ヤシャラ語の方が身体に馴染んでいるように見える瞬間がある。
シリルが戻ってきた。
「この先の道、祭り前で混んでるらしい」
「そうなんですか?」
「ああ。明日は東の街道を避けた方がいいってさ」
「ずいぶん楽しそうに話していましたね」
「そうか?」
「笑っていました」
「店のおっさんが、祭り前なのに嫁さんと喧嘩したって愚痴ってた」
「……道の話だけではなかったんですね」
「向こうが勝手に話したんだよ」
リリアは笑った。
まだまだ、自分の知らないシリルがいる。
◆
市場の中央には、特に人の集まっている露店があった。
小さな布花が、色ごとに籠へ分けて並べられている。
「これは何ですか?」
リリアが尋ねる。
「年始めの花です」
ファリダが答えた。
「祭りまでの間、自分で選んだ花を身につける風習が、この辺りにはあるんです」
「自分で選ぶ?」
「ええ。新しい年へ持っていきたい願いを、一つ選ぶんですよ」
リリアは籠を覗き込んだ。
色によって花の形も少しずつ違う。
「色に意味があるんですか?」
「ありますよ。ただし、前に見た戸口の彫刻とは意味が違います」
リリアは以前の町で見た扉を思い出した。
「青が旅人の無事。赤が家内安全。黄色が商売繁盛……でしたよね?」
「よく覚えていましたね」
「綺麗だったので」
「ええ。あれは家や店の戸口に使う色の意味です。こちらは年始めに身につける花ですから、意味合いが変わります」
「同じ色なのに?」
「色の意味は一つではありません。使う場所や風習によっても違いますし、土地によって変わることもあります」
「難しいですね……」
「最初から全部覚えなくていいんですよ」
ファリダが笑った。
「この町の年始めの花なら――」
一つずつ籠を示す。
「白は、大切な人の平穏」
「大切な人……」
「赤は勇気。青は知恵。黄色は実り。そして紫は、再会です」
「再会?」
「失った人や物、場所。もう一度出会いたいものへの願いですね」
リリアの視線が、淡い紫の花へ落ちた。
母を知る人。
失った記憶。
三年前より前の自分。
そしてアン様。
その隣には、黒い花があった。
黒百合を模している。
「黒は?」
「守護です」
リリアは黒い花を見つめた。
店の女主人も、リリアの黒髪に気づいたらしい。
何かを言いながら、黒い花を一つ取った。
笑顔で差し出してくる。
「私に?」
シリルが訳す。
「黒がよく似合うだろうって」
「あ……」
ただ、似合うと思って勧めてくれたのだろう。
リリアは黒い花を見て、綺麗だと思った。
けれど、すぐには手を伸ばさなかった。
視線を隣へ移す。
淡い紫。
「……私は、これにします」
リリアは紫の花を取った。
女主人が何かを尋ねる。
「再会を選ぶのかって」
シリルが訳した。
「はい」
リリアは頷いた。
それだけは、覚えているヤシャラ語で答えた。
女主人の顔がほころぶ。
何かを短く言った。
「今のは?」
「『いい花を選んだ』って」
リリアは掌の花を見る。
淡い紫の花びらを、親指でそっと撫でた。
◆
「ヴィクトルさんは?」
リリアが尋ねた。
「私もですか?」
ヴィクトルは並んだ花を見る。
しばらく迷ったあと、白い花を手に取った。
「白……」
リリアは花を見る。
「大切な人の平穏、でしたよね?」
「……そうですね」
「どなたのためですか?」
ヴィクトルが止まった。
「え?」
「大切な人の平穏を願う花なんですよね?」
「ええ」
「だから、どなたなのかなって」
何気なく尋ねると、ヴィクトルは答えに困ったような顔をした。
「……旅の仲間です」
「私たち?」
「はい」
リリアはファリダとシリルを見る。
「では、四人みんなのためですね」
「……そうですね」
「?」
歯切れの悪さにリリアが首を傾げていると、横からシリルが吹き出した。
「何ですか?」
「いや、別に」
そう言って、シリルはもう別の籠を見ている。
「シリルは何色にするんですか?」
「俺?」
「はい」
シリルは少し考えて、青い花を取った。
「青?」
「知恵」
「シリルに?」
「おまえ、最近ちょっと俺に遠慮なくなってないか?」
「そんなことありません」
「今のどこが遠慮してるんだよ」
「必要なものを選んだのかと思っただけです」
「それが遠慮ないって言ってんだよ」
リリアは笑った。
ファリダは赤い花を取る。
「ファリダさんは勇気ですか?」
「ええ」
「ファリダさんにも必要なんですね」
「必要ですよ」
ファリダは赤い花を指先で回した。
「勇気が要らなくなる人なんて、いませんから」
「……そうですね」
リリアは自分の紫の花を、外套へ大切に留めた。
◆
市場を抜けようとした時だった。
前方から、子どもの声が上がった。
十歳ほどの少年が、小さな手押し車を押している。
荷台には祭り用の布花を詰めた籠が、いくつも積まれていた。
石畳の段差へ車輪が引っかかる。
「あっ」
手押し車が大きく傾いた。
籠が落ち、色とりどりの花が、道いっぱいに散った。
そこへ風が吹く。
布花が舞い上がった。
少年が慌てて追いかける。
リリアは考えるより先に駆け出した。
近くに落ちた花を拾う。
周囲にいた町の人たちも手を貸し始めた。
風に飛ばされた黄色い花が、道の端を転がっていく。
リリアが追いかけた。
あと少しと、手を伸ばす。
その直前、横から伸びた手が花を掴んだ。
ヴィクトルだった。
「はい」
「あ……ありがとうございます」
花を受け取る。
その時、ヴィクトルの外套に、さっきの白い花が留められているのが見えた。
リリアは一瞬、それを見つめた。
「どうしました?」
「いえ」
首を振る。
「何でもありません」
◆
散らばった花をすべて拾い終える頃には、少年の泣きそうだった顔も明るくなっていた。
少年が何度も頭を下げる。
そして、短いヤシャラ語を口にした。
リリアにも分かった。
ありがとう。
リリアは覚えた言葉で答える。
少年が目を丸くした。
次の瞬間、笑った。
「……?」
発音を間違えたのだろうか。
リリアはシリルを見る。
シリルも笑っている。
「何ですか?」
「いや」
「間違っていました?」
「間違ってはいない。ちょっと丁寧すぎる」
「教えてくれたのはシリルでしょう」
「俺は普通に教えたって」
「では、どう言えばいいんですか?」
シリルが、もっと短い言い方を教える。
リリアは少年へ向き直った。
言い直す。
少年が嬉しそうに同じ言葉を返した。
◆
宿へ戻る途中、小さな装身具の露店の前で、ファリダが足を止めた。
「少し見ていきましょうか?」
「何か必要なんですか?」
「必要なものではありません」
「では……?」
「見るだけでもいいでしょう」
卓の上には、小さな腕輪や髪飾りが並んでいる。
リリアも覗き込んだ。
銀色の小さな鈴があった。
花の形をしている。
手に取る。
ちり。
澄んだ音がした。
「……可愛い」
口にしてから、リリアは少し驚いた。
役に立つか。
旅に必要か。
値段に見合うか。
そう考えるより先に、ただ、可愛いと思った。
ファリダは何も言わず、隣に立っている。
「これ……」
リリアは鈴を見る。
「旅には必要ありませんよね?」
「そうですね」
「……」
「でも」
ファリダが続ける。
「可愛いのでしょう?」
リリアは鈴を見る。
「……はい」
「なら、それで十分では?」
リリアはもう一度、鈴を見る。
小さな銀の花。
指先で揺らす。
ちり。
「……買います」
「はい」
今度は迷わなかった。
◆
夜、宿の部屋で、リリアは机の上に三つのものを並べた。
黒百合の髪飾り。
淡い紫の布花。
銀色の花鈴。
黒百合の髪飾りは、綺麗だと思って選んだ。
紫の花は、失ったものともう一度出会いたいと思って選んだ。
銀の鈴は、ただ、可愛いと思ったから。
「……」
リリアは鈴を持ち上げた。
ちり。
小さな音。
それだけで、微笑みが浮かぶ。
「可愛い」
今は誰もいない。
だから、もう一度言った。
「……可愛い」
扉が叩かれた。
リリアは慌てて鈴を置く。
「はい」
「リリアさん。私です」
ヴィクトルだった。
扉を開ける。
「どうしました?」
「明日の出発ですが、街道が混むそうなので、少し早く出ることになりました」
「分かりました」
「朝食の前に荷物をまとめておいてください」
「はい」
ヴィクトルが頷く。
「では、おやすみなさい」
「あ……ヴィクトルさん」
「はい?」
呼び止めてから、何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなった。
視線が、ヴィクトルの外套へ落ちる。
白い布花が、まだ胸元に留められている。
「その花」
「これですか?」
「はい」
「何か?」
「……いえ」
旅の仲間のため、そう言ってくれた。
「ありがとうございます」
ヴィクトルが笑った。
「おやすみなさい、ヴィクトルさん」
「おやすみなさい」
扉を閉める。
リリアは机へ戻った。
銀の鈴へ触れる。
ちり。
小さな音がした。
窓の外では、祭りを待つ色とりどりの花が、冬の風に揺れていた。




