第五話 花を歌う声
◆
朝、宿を出る頃には、夜の冷え込みがまだ石畳に残っていた。
吐く息が白い。
リリアは栗毛の首筋を撫でてから、鞍へ手を掛けた。
馬の鼻息が近くで聞こえた瞬間、別の光景が胸を掠めた。
甲高い嘶き。
跳ね上がる蹄。
土の上へ投げ出された、小さな身体。
――アン様。
右腕が焼けるように熱くなり、黒いものが視界を覆う。
そこで記憶は途切れた。
リリアは手綱を握り直した。
「リリアさん」
声に振り返る。
ヴィクトルが、自分の馬のそばに立っていた。
右手が胸元から離れるところだった。
「……どうしました?」
「いえ」
ヴィクトルは自分の胸へ目を落とした。
もしかして。
リリアは彼を見つめながら、聞こうか迷った。
「足首は大丈夫ですか?」
ヴィクトルが先に尋ねた。
「はい。もう痛みはありません」
「違和感があったら、すぐに言ってください」
「はい」
頷いてから、リリアはヴィクトルの右肩へ目を向けた。
「ヴィクトルさんこそ、右腕は?」
「もう大丈夫です」
「本当ですか?」
「……ほとんど」
「ほとんど?」
ヴィクトルが困ったように眉を下げた。
「強く動かすと、突っ張る程度です」
「無理はしないでください」
「はい」
素直な返事だった。
後ろから声が飛んでくる。
「おまえら、同じこと言い合ってないか?」
シリルだった。
荷馬車の御者台から、呆れた顔でこちらを見ている。
「同じこと?」
「痛かったら言え。無理するな。休め」
「大切なことです」
「だったら、自分の時も守れよ」
「……気をつけます」
「ほら、それだ」
「何ですか?」
「自分のことになると急に弱い」
「そんなことはありません」
「ある」
「ありません」
ファリダが馬上から振り返った。
「そろそろ出発しますよ」
「はい」
リリアは栗毛へ跨がった。
胸の奥には、先ほどの記憶がまだ薄く残っている。
それでも、馬が歩き始めると、身体は自然にその揺れへ馴染んでいった。
◆
昼前には、街道は低い丘陵地へ入っていた。
赤茶色の土に、冬枯れした草。
銀色の葉をつけた低木の間を縫うように、石敷きの道が続いている。
リリアは周囲の声へ耳を澄ませながら馬を進ませた。
水。
馬。
宿。
ありがとう。
道。
簡単な挨拶。
知っている言葉を見つけるたび、知らない国が近くなる。
昨夜もファリダとシリルから、新しい単語を教えてもらった。
ヴィクトルも一緒だった。
いつの間にか、どちらが先に覚えるか競うようになっていた。
「何を笑っているんですか?」
横から声がする。
ヴィクトルが馬を寄せていた。
「昨日のことを思い出していました」
「ヤシャラ語の?」
「はい」
「今日は負けませんよ」
リリアは目を瞬いた。
「勝負だったんですか?」
「リリアさんが先に三つ覚えたので」
「数えていたんですか?」
「当然です」
「……負けず嫌いなんですね」
「そうかもしれません」
リリアが笑った、その時だった。
風に乗って、音が聞こえてきた。
細い笛。
弦を爪弾く響き。
そこへ男の歌声が重なる。
「歌……」
ゆるやかな旋律だった。
どこか切なく、それでいて暗くはない。
遠く離れた誰かへ、声を届けようとするような歌。
「近くに茶屋がありますね」
ファリダが言った。
シリルは歌へ耳を傾けていた。
「懐かしい歌だな」
「知っているんですか?」
「ああ」
「どんな歌です?」
「黒百合の巫女の歌だ」
リリアの指が手綱の上で止まった。
「祈りの歌ですか?」
「いや」
シリルは前を向いたまま答えた。
「恋の歌」
「……恋?」
思わず聞き返した。
◆
歌は、街道沿いの小さな茶屋から聞こえてきた。
軒下にはいくつかの卓が並び、その端で三人の楽師が演奏している。
若い男が笛を吹き、隣の女性が弦楽器を奏でている。
歌っているのは、白いものの混じった髪を後ろで束ねた年配の男だった。
旅人たちは湯気の立つ茶を飲みながら、その歌へ耳を傾けている。
馬を休ませることになり、リリアたちも空いた卓へ座った。
やがて歌い手の声が高くなり、同じ旋律が繰り返された。
言葉は、ほとんど分からない。
それでも、一つだけ聞き取れた。
――花。
「ファリダさん」
「はい?」
「今のところは、何と言っているんですか?」
ファリダが歌へ耳を傾ける。
「古い言葉が混じっています。ローダン語にするなら――」
歌声に合わせるように、ゆっくり訳した。
「黒百合よ、夜の果てにも咲いておくれ」
弦が鳴る。
「銀の剣よ、その花のそばにいて」
笛の音が重なった。
「冠も名も届かぬ遠い場所でも」
そして、最後の一節。
「あなたを想う、この心だけは消えない」
リリアは楽師たちを見つめた。
「……恋の歌ですね」
「だから、そう言っただろ」
シリルが茶を飲む。
「思っていたより……」
そこで言葉に詰まる。
「何です?」
ヴィクトルが尋ねた。
「恋の歌でした」
「それは、恋の歌ですから」
「そうなんですけど……」
うまく説明できない。
黒百合という言葉と、誰かを想う歌が、リリアの中ではまだうまく結びつかなかった。
「本当に黒百合の巫女の歌なんですか?」
「ええ」
ファリダが答える。
「古い歌です」
「どんな人の歌なんですか?」
「黒百合の巫女と、一人の皇子の物語です」
「皇子?」
「ラシードという名の、ヤシャラの第二皇子です」
リリアはその名を胸の中で繰り返した。
「本当にいた人なんですか?」
「ええ。百年以上前の人物です。のちに帝位へ就き、鉄冠帝と呼ばれました」
「黒百合の巫女も?」
「記録に残っています」
ファリダはそこで言葉を切った。
「ただし、二人が本当に恋仲だったのかまでは分かりません」
リリアは再び歌声へ耳を傾けた。
「昔の記録には、黒百合の巫女がラシード皇子を守ったことも残っています」
「守った……」
「そこから、いくつもの物語が生まれたのでしょう」
シリルが茶を飲みながら言った。
「土地によって話も違う」
「違うんですか?」
「ああ」
シリルは歌へ耳を傾けたまま答えた。
「ヴェルディアにも、似た歌がある」
「ヴェルディア……」
母の足跡が残る土地。
「ローダンにも同じ歌が?」
「元が同じかどうかまでは知らん」
シリルは肩をすくめた。
「ただ、向こうじゃ黒百合の巫女とローダンの騎士の悲恋として歌われてる」
「騎士……」
「皇子は出てこない」
「どんなお話なんですか?」
「詳しくは知らん」
シリルは首を振った。
「俺も歌そのものを聞いたことはないからな」
「そうなんですか」
ファリダが言った。
「国境を越えた物語は、その土地の言葉や暮らしに合わせて姿を変えることがあります。同じ古い物語から生まれたのかもしれませんし、似た別の物語が重なったのかもしれません」
リリアはもう一度、歌声へ耳を傾けた。
黒百合の巫女が誰かを好きになる。
誰かが、黒百合の巫女を好きになる。
そんな物語が、百年以上も歌われてきた。
◆
「黒百合の話は、こういう恋の歌だけなんですか?」
リリアが尋ねる。
「いいえ」
ファリダが答えた。
「英雄譚もありますし、子どもの昔話もあります」
「子どもの?」
「夜道で迷った子どもを、黒百合の巫女が家まで送っていく話があります」
「怖い話ですか?」
「どうしてそうなるんです」
ファリダが笑った。
「普通の昔話ですよ」
「黒百合の力は出てこないんですか?」
「最後に一輪だけ咲かせます」
「何のために?」
「泣いている子どもを笑わせるために」
リリアは思わずファリダを見た。
「それだけ?」
「それだけです。もっとも、昔話ですから、本当に黒百合にそんな使い方ができるのかは分かりませんよ」
黒百合の力で、子どもを笑わせる。
そんな発想はなかった。
「変な顔してるぞ」
シリルが言った。
「どんな顔ですか?」
「信じられないって顔」
「……そう見えます?」
「ああ」
ヴィクトルが楽師たちを見ながら言った。
「私も意外でした」
「ヴィクトルさんも?」
「ええ。これまで聞いてきた黒百合の話とは、ずいぶん違いますから」
ヴィクトルは歌声へ耳を傾ける。
「でも、知らなかった話があると分かることは、悪くないと思います」
「私も、そう思います」
◆
やがて歌が終わった。
旅人たちが手を叩き、楽師へ声を掛ける。
年配の歌い手が頭を下げた。
そして顔を上げた時、その視線がリリアのところで止まった。
男の視線が、リリアの黒髪から淡い紫の髪紐へ、その横に挿した黒百合の髪飾りへ移る。
それから、リリアの顔を見つめた。
何かを確かめようとしているようだった。
やがて、こちらへ声を掛ける。
リリアには聞き取れない。
シリルが答えた。
短いやり取りのあと、男が近づいてくる。
ファリダがリリアとの間合いを確かめた。
ヴィクトルも席を立つ。
歌い手は一定の距離を残して止まり、胸へ手を置いた。
挨拶なら分かる。
リリアも同じように胸へ手を置き、覚えたヤシャラ語で返す。
男の顔が柔らいだ。
続いて、髪飾りを指して何かを尋ねる。
「シリル」
「その飾りをどこで買ったのか、だ」
それなら答えられる。
リリアは昨日立ち寄った町の名を、ヤシャラ語で告げた。
男が頷く。
だが、すぐには離れなかった。
黒百合の髪飾りから、今度はリリアの顔へ視線を移す。
そして。
「……ミレナ」
リリアの呼吸が浅くなった。
「今、ミレナと言いましたよね?」
「ああ」
シリルの顔からも笑みが消えていた。
男がさらに話す。
シリルは途中で訳さず、最後まで聞いた。
「何と言っているんですか?」
「十七年ほど前、この辺りの年始めの祭りで、ミレナを見たことがあるって」
「母を?」
「ああ。知り合いだったわけじゃない。こいつも祭りで歌っていて、ミレナを見かけたらしい」
ファリダがヤシャラ語で確認する。
男が頷いた。
「ミレナ様も、黒い花を髪に飾っていたそうです」
リリアは自分の髪へ手を伸ばした。
昨日、露店で自分が選んだ花。
「こんなふうに?」
「形までは覚えていないそうです」
「母も……」
歌い手がまた何かを話す。
ファリダが聞き返した。
「どうしたんですか?」
リリアが尋ねる。
「ミレナ様も、祭りで歌ったことがあるそうです」
「母が?」
「ええ」
「どんな歌を?」
ファリダが尋ねる。
男が答えた。
「……この歌だそうです」
リリアは先ほどまで楽師たちが演奏していた場所を見た。
「黒百合の巫女と、ラシード皇子の?」
「ええ」
「母が、この恋の歌を……」
胸の奥がざわめいた。
「母は、この歌が好きだったんでしょうか」
ファリダが尋ねる。
歌い手は首を横に振った。
「そこまでは知らないそうです」
「そうですか……」
「ただ、ミレナ様ご自身が選んで歌ったそうです」
なぜ母は、この歌を選んだのだろう。
百年以上前の黒百合の巫女と皇子の恋の歌を。
◆
「もう一度、聞かせてもらえますか?」
リリアはファリダを見た。
「この歌を」
ファリダが歌い手へ伝える。
男はリリアを見つめ、それから頷いた。
弦が鳴る。
先ほどより、ゆっくりとした前奏だった。
笛が重なる。
そして歌声。
リリアは目を閉じた。
旋律を追っているうちに、不思議な感覚が生まれた。
次の音を知っている。
初めて聞いたはずなのに。
――黒百合よ、夜の果てにも咲いておくれ。
――銀の剣よ、その花のそばにいて。
弦が高くなる。
その瞬間、景色が変わった。
小さな窓。
差し込む、柔らかな光。
幼い自分は椅子に座っている。
背後に誰かがいた。
女の人。
顔は見えない。
優しい手が、黒い髪を梳いている。
その人も歌っていた。
今とよく似た旋律。
けれど――。
言葉が違う。
――黒百合は東へ。
――騎士は西へ。
――離れた道にも、花は……
そこから先は聞き取れない。
女の声が、歌から言葉へ変わった。
――ヴェルディアではね、この歌を聞いた娘たちは、黒い髪に憧れるのよ。
別の声がした。
幼い女の子。
――私も黒い髪がよかった。
誰。
そう思った瞬間、光景が揺らいだ。
リリアは息を呑んだ。
弦の音が戻ってくる。
笛の響きに歌い手の声。
目を開けると、茶屋の軒先があった。
すぐ近くで、椅子の脚が石床を擦った。
ヴィクトルが胸元へ手を当て、こちらを見ている。
目が合った。
ヴィクトルの唇が動きかける。
リリアは小さく首を振った。
まだ、聞いていたい。
ヴィクトルは何も言わなかった。
歌は続いていた。
母が、自分で選んで歌ったという歌。
リリアはもう一度、楽師たちへ目を向けた。
分からない言葉が流れていく。
今は、その一つ一つを聞いていたかった。
やがて歌声が低くなり、最後に弦が一度鳴った。
音が消える。
一拍遅れて、茶屋の客たちから拍手が起こった。
リリアも手を叩いた。
けれど、耳の奥にはまだ二つの旋律が重なっていた。
今ここで聞いた歌。
そして、失った記憶の中で誰かが歌っていた、よく似た歌。
「リリアさん」
ヴィクトルが、今度は声にした。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
答えてから、リリアは彼の胸元へ目を向けた。
「ヴィクトルさんは?」
「大丈夫です」
「さっき……何か感じたんですか?」
ヴィクトルは頷いた。
「急に、こちらへ引かれたような感じがしました」
「やっぱり……」
縁が反応したのだろう。
ファリダがリリアの様子を見てから尋ねた。
「何か思い出したのですか?」
「はい」
「ミレナ様を?」
「分かりません」
リリアは首を横に振った。
「女の人が、私の髪を梳いていました」
「顔は?」
「見えませんでした」
誰だったのだろう。
名前も、顔も出てこない。
「その方が、この歌を?」
「似ていました。でも……歌詞が違ったと思います」
シリルが尋ねる。
「どう違った?」
「黒百合は東へ、騎士は西へ……そう歌っていました」
シリルの表情が変わった。
「騎士?」
「はい」
「じゃあ、さっき話したヴェルディアの歌かもしれないな」
ファリダも頷く。
「その可能性はありますね」
リリアは髪へ触れた。
「その人は、ヴェルディアでは、この歌を聞いた娘たちが黒い髪に憧れると言っていました」
「他には?」
「女の子の声がしました」
「誰だ?」
「分かりません。でも、黒い髪がよかったって」
誰の手だったのか。
誰の声だったのか。
どこで聞いた歌だったのか。
分からない。
「無理に追わなくていい」
シリルが言った。
「……はい」
リリアは頷いた。
それからヴィクトルを見る。
「本当に、大丈夫ですか?」
「はい。今は何も感じません」
その答えに、リリアは息をついた。
◆
しばらくして、リリアは歌い手へ目を戻した。
「この歌……何という名前なんですか?」
ファリダが歌い手へ尋ねる。
返ってきた言葉を訳した。
「『黒百合と銀の剣』」
「黒百合と銀の剣……」
リリアはその名を口にした。
「ヴェルディアの歌も、同じ名前なんですか?」
シリルは首を横に振った。
「そこまでは知らん」
「歌詞も?」
「俺が知ってるのは、黒百合の巫女とローダンの騎士を歌った悲恋ってことだけだ」
「私が昔聞いたのが、その歌なのかどうかも……」
「今の記憶だけじゃ分からない」
「そうですね」
同じ物語から生まれた歌なのか。
別々の物語が、どこかで重なったのか。
「ファリダさん」
「はい」
「この歌を覚えたいです」
「歌詞を?」
「はい」
「古い言葉も入っていますよ」
「それでも知りたいです」
リリアは歌い手を見る。
「母が自分で選んで歌ったのなら、どんな言葉を歌ったのか、知りたいです」
ファリダが頷いた。
「分かりました」
横からヴィクトルも言う。
「私も手伝います」
「ヴィクトルさんも覚えるんですか?」
「発音の練習くらいなら」
リリアは考えてから言った。
「では、一緒に歌いましょう」
「歌いません」
即答だった。
リリアは目を瞬いた。
シリルが吹き出す。
「歌えよ」
「あなたは黙っていてください」
「何でだよ。練習だろ」
「発音の練習です」
「同じようなもんだ」
「違います」
リリアは堪えきれず笑った。
「すみません」
「リリアさんまで笑わないでください」
「だって……」
また笑ってしまう。
胸を塞いでいた記憶への怖さが、その間は遠ざかった。
◆
茶屋を出る前、リリアは歌い手へもう一度礼を言った。
歌い手は胸へ手を置き、短い言葉を返した。
今度は一つ聞き取れた。
花。
「シリル」
「『花が道を覚えている』」
「花が、道を?」
「古い言い回しだ」
ファリダが歌い手へ意味を確かめる。
「失われたものでも、その跡を辿っていけば、いつか元の場所へつながる――そういう意味に近いそうです」
リリアは黒百合の髪飾りへ触れた。
母が、この辺りの年始めの祭りで歌っていた。
そして、よく似た歌を、自分も失った記憶の中で聞いていた。
けれど、髪を梳いてくれた女性が誰なのかは分からない。
リリアは歌い手へ頭を下げ、馬のもとへ戻った。
街道の先には、冬の空が広がっている。
鞍へ跨がると、風の向こうから旋律が追いかけてくるような気がした。
――黒百合と銀の剣。
母が、自分で選んだ歌。
その歌を、もっと知りたい。




