第四話 花に願う人々
◆
翌朝、目覚めると、焼いたパンと香辛料の匂いが漂ってきた。
中庭には朝日が差し込み、石床の上へ細長い影を落としている。
リリアは階段を下りながら、そっと髪へ触れた。
昨日買った黒百合の髪飾り。
黒い花弁と中央の小さな紫の石。
思ったより目立つ。
外そうか。
朝、鏡の前で一瞬迷った。
けれど、結局そのままにした。
「おはようございます」
ファリダが振り返った。
その視線が、すぐに髪飾りへと向く。
「つけたんですね」
「……変ですか?」
「いいえ」
ファリダは微笑んだ。
「よく似合っています」
「ありがとうございます」
ほっとして、椅子へ座る。
向かいではシリルがすでに朝食を食べ始めている。
ちらりとこちらを見て、パンをちぎる。
「結局つけたのか」
「はい」
「昨日、ずっと悩んでたもんな」
リリアは顔を上げた。
「見ていたんですか?」
「分かりやすかったからな」
「……そう……ですか」
ファリダが口元を押さえた。
リリアは知らないふりをして、籠からパンを取る。
ちょうどその時、隣の椅子が引かれた。
ヴィクトルだった。
「おはようございます」
その視線が、リリアの髪の辺りで一度止まった。
が、何も言わない。
リリアは、パンを一口ちぎる。
そして横目でヴィクトルを見た。
「……ヴィクトルさん」
「はい?」
髪へ手をやりかけて、途中で止めた。
「いえ。何でもありません」
「そうですか」
またパンをちぎる。
少し大きくちぎりすぎた。
向かいでシリルが俯いた。
肩が動いている。
「シリル」
「何だよ」
「今、笑いましたよね」
「笑ってない」
「笑ってます」
「気のせいだ」
リリアが睨んでいると、隣から声がした。
「髪飾り」
振り向く。
ヴィクトルがリリアの髪を見ていた。
「昨日、買ったものですよね」
「……はい」
「よく似合っています」
「……ありがとうございます」
リリアはパンへ目を落とした。
しばらく、顔を上げられなかった。
◆
朝食を終え、一行は町を出る前に市場へ寄った。
乾燥肉、水、飼葉、薬草。
旅に必要なものを買い足す。
リリアはファリダの隣を歩きながら、聞こえてくるヤシャラ語へ耳を澄ませていた。
昨日より、ほんの少しだけ意味の分かる言葉が増えてきた。
値段。
水。
馬。
ありがとう。
露店の前で、老女が店主へ声をかけている。
何かを頼んでいるようだ。
リリアには分からない。
「シリル」
「何だ?」
「あの方、何を言っているんですか?」
後ろを歩いていたシリルが答える。
「花油を二つ。片方は祭り用だって」
「祭り?」
ファリダが振り返った。
「年始めの祭りの準備でしょう」
「もう始まっているんですか?」
「町によっては、ひと月前から準備します」
「そんなに前から?」
「一年で一番大きなお祭りですから」
リリアの目が輝いた。
「どんなお祭りなんですか?」
「それは、あとのお楽しみにしておきましょうか」
「教えてくれないんですか?」
「知らない方が、楽しいですよ」
「ファリダさんまで意地悪です」
「シリルと一緒にしないでください」
「何で俺なんだよ」
そんな話をしながら歩いていた時だった。
前方で、人の流れが止まった。
市場の端に小さな石造りの祠がある。
昨日は気づかなかった。
屋根は低く、入口の左右には黒い花の彫刻が施されている。
黒百合の彫刻。
祠の前へ、一人ずつ進んでいく。
花を置く者。
香を焚く者。
胸へ手を置き、短く祈る者。
リリアは足を止めた。
「あれは……?」
「黒百合の祠です」
ファリダが答えた。
「黒百合の?」
「この町では、旅の無事や家族の健康を願う場所として使われています」
人々が、ごく普通に前を通り、ごく普通に祈っている。
昨日見た黒百合の刺繍や髪飾りより、さらに胸へくるものがあった。
「黒百合に……願うんですか?」
「黒百合そのものに、というより」
ファリダが続ける。
「守る花に、願いを預ける。そんな感覚でしょうか」
「守る花……預ける」
その言葉を、リリアは繰り返した。
◆
祠の前の列に、一人の若い女性が並んでいた。
二十代くらいだろうか。
胸に小さな布包みを抱えている。
横には、女性の息子らしい五歳ほどの男の子。
その女性の視線が、リリア達一行をとらえた。
まず、リリアの黒い髪を見る。
次に、その髪に挿された黒百合へ目を移した。
何かを尋ねる。
「……?」
リリアがシリルを見る。
シリルはすぐには訳さなかった。
女性がもう一度、今度はゆっくりと言った。
ファリダが答える。
「何と言っているんですか?」
「昨日、この町へ黒百合の巫女が来たと聞いたそうです」
「私のことを?」
「おそらく。確かめたかったのでしょう」
女性がもう一度言う。
声が震えている。
今度はファリダが答えた。
女性の目から涙がこぼれる。
「妹さんが病気だそうです」
「妹さん?」
「ええ。長く熱が下がらないと」
女性は抱えていた布包みを開いた。
中には、小さな白い花。
そして黒い糸で結ばれた札。
「それを祠へ?」
「はい」
女性がまた何かを言う。
今度はシリルが訳した。
「黒百合が守ってくれるように、って」
リリアの胸がざわついた。
女性がリリアを見て、何かを尋ねた。
短い言葉。
リリアにも、一部だけ聞き取れた。
花。
手。
願い。
「……私に?」
リリアがファリダを見る。
ファリダの表情が硬くなっていた。
「この札に触れてほしい、と」
リリアは息を止めた。
「どうしてですか?」
「あなたを黒百合だと思っているからです」
女性は祈るように両手を差し出した。
その上に、白い花と札。
リリアは動けなかった。
◆
「断っても構いません」
ファリダが言った。
女性には分からないローダン語だった。
リリアは札を見た。
触れるだけ。
それだけ。
違う。
自分へ。
黒百合へ。
何かを求められている。
「触ったら、妹さんが治るんですか?」
「いいえ」
ファリダは即答した。
「そんな保証はありません」
「この方は、それを知っているんですか?」
「おそらく」
シリルが答えた。
「祈りみたいなもんだ。黒百合が触った札だから必ず病気が治る、なんて教えじゃない」
「でも、この方は期待していますよね」
誰もすぐには答えなかった。
女性の顔を見れば分かる。
必ず治るとは思っていない。
けれど何かに縋りたい。
その何かとして、目の前にいるリリアを見ている。
胸が苦しくなった。
「リリアさん」
ヴィクトルの声だった。
すぐ横に立っている。
「無理に応える必要はありません」
「……はい」
「断っても、悪いことではありません」
リリアは女性を見る。
泣いている。
隣の男の子が、心配そうに女性の服を掴んでいる。
断りたくない。
でも。
どうすればいいのだろう。
「ファリダさん」
「はい」
「この国の黒百合は、こういうことをするものなんですか?」
ファリダはすぐには答えなかった。
「人によります」
「人?」
「黒百合の巫女も、一人一人違います」
リリアはファリダを見る。
「役目として祈りを受けた人もいます。断った人もいます」
「断っても?」
「当然です」
「怒られないんですか?」
「誰に?」
その問いに、リリアは答えられなかった。
誰に。
家に。
主人に。
祀院に。
皇帝に。
そんな言葉が頭をよぎった。
ファリダは言った。
「黒百合である前に、一人の人間です」
リリアは頷いた。
◆
しばらくして、リリアは女性の前へ一歩出た。
覚えているヤシャラ語を探すが、難しい。
ファリダを見る。
「『治せるとは約束できません』は?」
ファリダがゆっくりと教える。
長い。
一度では言えない。
もう一度。
さらにもう一度。
リリアは小さく練習した。
それから女性を見る。
たどたどしいヤシャラ語で言った。
「治せるとは、約束できません」
女性の目が揺れた。
リリアは続ける。
「でも」
ここからは知らない。
シリルを見る。
「『良くなるように願います』は?」
シリルが教える。
リリアは繰り返した。
「良くなるように、願います」
そして、札へ手を伸ばした。
触れる。
何も起きない。
黒百合も熱を持たない。
ただ、女性の肩から、力が抜けた。
涙を流しながら、何度も頭を下げる。
リリアは戸惑った。
「そんなに……」
女性は男の子の手を引き、祠の前へ進んで行った。
リリアはその背中を見つめる。
「よかったんでしょうか」
誰に尋ねたわけでもなかった。
「あなたが決めたのなら」
ファリダが答えた。
「それでいいと思います」
「でも、妹さんが治らなかったら」
「それは、あなたの責任ではありません」
即答だった。
リリアは黙った。
その言葉は、すんなりとは胸へ入ってはこなかった。
◆
町を出たあと、街道には人が少なくなった。
しばらくは、誰も何も話さなかった。
リリアは栗毛の首筋を撫でる。
「ヴィクトルさん」
「はい?」
「さっきのこと、どう思いますか?」
ヴィクトルは少し考えた。
「札に触れたことですか?」
「はい」
「リリアさんがしたかったのでしょう?」
「……断りたくなかったです」
「なら、それでいいと思います」
「ファリダさんと同じことを言いますね」
「そうですか?」
「はい」
しばらく、蹄の音だけが街道に続いた。
「でも」
ヴィクトルが続けた。
「毎回応える必要はないと思います」
「毎回?」
「今日のような人が、これから何人も現れるかもしれません」
リリアは黙った。
考えていなかった。
「病気を治してほしい人。家族を守ってほしい人。戦いに勝たせてほしい人」
「……はい」
「それを全部引き受けたら」
ヴィクトルがリリアを見る。
「リリアさんがいなくなります」
リリアの指が止まった。
「私が?」
「黒百合に願う人ばかり見て、自分が何を望んでいるか分からなくなるという意味です」
リリアは前を向いた。
自分が何を望むか。
昔は、そんなことを考える必要はなかった。
役に立つこと。
迷惑をかけないこと。
命じられた通りにすること。
それでよかった。
でも今は。
「難しいですね」
「何がです?」
「嫌だから断るのも、自分で決めることです」
「ええ」
「助けたいから応えるのも、自分で決めることですよね」
「そうですね」
「どちらが正しいんでしょう」
ヴィクトルは少し笑った。
「それを、これから決めていくのではありませんか」
リリアはヴィクトルを見る。
「また、難しいことを言いますね」
「すみません」
「謝らなくてもいいです」
リリアは微笑んだ。
◆
夕方、一行は町から離れた小さな街道宿へ着いた。
リリアは部屋へ入ると、外套を脱ぎ、鏡を見る。
黒百合の髪飾りが見えた。
昨日は、ただ綺麗だと思った。
今日は、違って見える。
人を守る花だからこそ、そこへ願いや期待が集まってくる。
それもまた、自分の意思とは別に、黒百合という名が先に歩いていくことなのかもしれない。
リリアは髪飾りへ触れた。
外そうとは思わない。
けれど、昨日ほど簡単には笑えなかった。
リリアは鏡の中の自分を見る。
「私は……」
そっと呟く。
その先の言葉は、まだ見つからなかった。




