第三話 花を隠さない国
◆
国境の町へ入って最初にリリアが気づいたのは、花の多さだった。
冬だというのに、町のあちこちに花がある。
ローダンに比べて、温暖な気候が幸いしているのだろう。
もちろん、生花だけではない。
家の扉に刻まれた花。
軒先から吊るされた布で織られた花。
陶器の縁に描かれた花。
馬具の金具にまで、小さな花弁の模様が彫られている。
赤や青、黄色に紫といった色鮮やかな花々。
リリアは栗毛の上から、忙しく左右を見回していた。
「珍しいですか?」
先を行くファリダが尋ねた。
「はい。こんなに花の模様がある町は初めてです」
「ヤシャラでは、花がよく使われます」
「何か意味があるんですか?」
「ありますよ。土地によっても、家によっても違います」
ファリダが道沿いの家を示す。
扉には、青い五枚花弁の花が刻まれていた。
「あれは旅人の無事を願う花です」
「旅人の?」
「昔、この辺りは街道宿が多かったので」
次の家には、赤い花。
「あれは?」
「家内安全」
「では、あれは?」
「豊作です」
リリアは次々と目を移した。
「あの黄色い花は?」
「商売繁盛」
「本当に全部意味があるんですね」
「全部ではありません。ただ好きだから飾る人もいます」
後ろからシリルが言った。
「花なんて、いちいち意味考えて飾るもんでもないだろ」
「シリルは夢がありませんね」
「何でだよ」
「今の言い方です」
リリアは笑った。
その時、道の向こうに黒いものが見えた。
布屋の軒先に、色とりどりの布に混じって、一枚黒い布が下がっている。
その中央に、紫の糸で大きな百合が刺繍されていた。
リリアは手綱を引いた。
栗毛が足を止める。
「リリアさん?」
ヴィクトルもすぐに馬を止めた。
リリアは答えなかった。
黒い百合。
見間違えるはずがない。
「……あれ」
ファリダが視線を追う。
「ああ」
何でもないことのように言った。
「黒百合ですね」
「飾っても……いいのですか?」
ファリダが振り返った。
「何をです?」
「黒百合を」
自分で尋ねてから、妙な質問だと思った。
けれど、リリアにとって黒百合は、こんなふうに店先へ飾られて良いものではなかった。
自分でも制御できない力。
危険ならば、王室の管理下へ置くべきだと言われた力。
霧の森で、灰熊の爪がヴィクトルへ届こうとした時、守りたいと思ったその瞬間に咲いた力。
傷が癒えても、あの日に生まれた縁は残っている。
あの時の黒百合は、確かにヴィクトルを守るために咲いた。
けれど、自分がすべてを理解して使った力でもない。
「ローダンでは……危険な力だと言われました」
「ええ」
リリアは黒百合の刺繍へ目を戻した。
「こんなふうに普通に飾られているのが……不思議なんです」
「少なくともヤシャラでは、災いの印ではありませんから」
店先の黒百合が、風に揺れている。
◆
馬を進めても、黒百合の刺繍が頭から離れなかった。
「では、黒百合の巫女なら、みんな大切にされるんですか?」
「大切の仕方も、それぞれです」
ファリダが答えた。
「それぞれ?」
「黒百合をどう考えるかは、人によります」
ファリダは前を向いたまま話す。
「敬う者もいます。大切に思う者もいます。国に必要な存在だと考える者もいる」
そこで言葉を切った。
「力を欲しがる者もいます」
手綱を握る指に力が入った。
古い祠の地面に描かれた輪。
その内側に置かれたアン。
守るべき者を危険に晒せば、黒百合は手を伸ばす。
祀院の者たちは、それを知っていた。
「祀院のように?」
「ええ」
「ナディル陛下も?」
ファリダはすぐには答えなかった。
「……陛下については、ご自身で見極めてください」
「……はい」
ナディルは、自分を守ると言った。
けれど、その「保護」には所在を把握することも含まれると、隠さず告げた。
守ることと、自由であることは同じではない。
「では、黒百合の巫女でも、嫌われることはあるんですか?」
「嫌うことはありますよ」
ファリダが答えた。
「黒百合の巫女であっても」
「普通に?」
「普通に」
後ろからシリルが口を挟む。
「性格が合わなきゃ嫌われるだろ」
「シリル」
「何だよ。黒百合だからって全員に好かれる方が気持ち悪いだろ」
言い方は乱暴だった。
けれど、リリアは考えてから頷いた。
「……そうですね」
黒百合だから、必ず敬われるわけではない。
黒百合だから、必ず好かれるわけでもない。
リリアという人間を見て、好きになる人も、嫌いになる人もいる。
その方が息がしやすいと思った。
◆
町の中心に近づくにつれ、人通りが増えた。
市場が開かれている。
乾燥した果実に香辛料。
色布や革製品。
銀細工。
湯気の立つ鍋。
聞き慣れないヤシャラ語が、四方から飛び交う。
リリアは知っている単語を拾いながら馬を進めた。
値段。
水。
美味しい。
安い。
最後の二つは、さっきシリルから教わったばかりだ。
意味が分かると、知らない音だったものが急に言葉になる。
その時、前を歩いていた小さな女の子が、こちらを見た。
六つか七つくらいだろうか。
黒い髪の女の子。
リリアは思わず、その子を目で追った。
少女もリリアを見ている。
視線が合い、少女が何かを言った。
「……?」
リリアはシリルを見る。
「何て?」
「髪が綺麗だって」
「私の?」
「ああ」
リリアは自分の髪へ触れた。
綺麗。
黒い髪を見て、そう言われた。
少女の母親らしい女性が慌てて何かを言う。
子どもが首を振る。
そして、こちらへ走ってきた。
「え?」
ヴィクトルが馬を前へ出しかける。
「待ってください」
ファリダが止めた。
少女はリリアの馬の前まで来ると、手を差し出した。
小さな黒い花が乗っていた。
本物ではない。
黒い布を花の形に折り、紫の糸で留めたものだ。
リリアは息を止めた。
少女が何かを言った。
短い言葉だが、聞き取れない。
「シリル」
リリアが呼ぶ。
「自分で聞いてみろ」
「でも」
「簡単な言葉だ」
リリアは少女を見る。
もう一度言ってもらうよう頼む言葉なら知っている。
たどたどしいヤシャラ語で頼んだ。
少女が嬉しそうに、今度はゆっくりと言う。
花。
きれい。
あなた。
三つ。
分かった。
「……私に?」
ヤシャラ語で尋ねてみる。
少女が笑顔で大きく頷いた。
リリアは馬を降りた。
少女と同じ高さまで屈む。
「ありがとうございます」
ヤシャラ語で言った。
黒い布の花を受け取る。
少女がリリアの髪を指差す。
黒い花を指す。
また何か言った。
分からない。
リリアが困っていると、シリルが訳した。
「同じ色だって」
「同じ……」
黒い髪と黒い花。
自分の髪と、あの痣に繋がる花。
その二つを、少女は何のためらいもなく「同じ色」だと言った。
「……そうですね」
リリアも笑った。
◆
昼を過ぎ、一行は町の宿へ入った。
中庭のある二階建ての宿だった。
馬を預け、荷物を部屋へ運ぶ。
リリアは窓辺に座り、先ほどもらった黒い布花を掌に載せていた。
紫の糸に不揃いな花弁。
子どもが作ったものだろうか。
上手ではない。
でも、嬉しい。
扉が叩かれる。
「はい」
「私です」
ヴィクトルだった。
「どうぞ」
扉が開く。
ヴィクトルは片手に小さな包みを持っていた。
「ファリダさんからです。昼食まで少し休んでください、と」
「ありがとうございます」
包みを受け取る。
ヴィクトルの視線が、リリアの掌へ落ちた。
「あの子からもらった花ですね」
「はい」
「気に入りましたか?」
リリアは黒い布花を見た。
「……嬉しかったです」
「はい」
「でも、変な感じもします」
「変な感じ?」
リリアは指先で黒い花弁を撫でた。
「黒百合の力を、怖くないとは言い切れないんです」
ヴィクトルの表情が変わった。
「でも、あの力がなかったら――」
リリアは彼の右肩を見た。
「ヴィクトルさんを助けられませんでした」
灰熊の爪。
黒い霧。
舞い上がった花弁。
そして、そのあと二人の間に残ったもの。
「縁も、あります」
リリアは自分の胸元へ手を置いた。
見えるものではない。
それでも、確かに消えてはいない。
「はい」
ヴィクトルが静かに答えた。
「私には、まだ分からないことばかりです」
「黒百合のことが?」
「それもあります。でも……」
リリアは黒い花へ目を戻した。
「誰かを守りたいと思うことまで、利用されるんですね」
ヴィクトルは黙って聞いている。
「祀院の人たちは、アン様を危険な目に遭わせれば、私が力を使うと知っていました」
言葉にすると、胸の奥が重くなる。
「……ええ」
「葛花では、違いました。力があるからといって、私のことを勝手に決めませんでした」
「そうでしたね」
「ナディル陛下は、守ると言いました。でも、居場所は把握すると」
「はい」
「黒百合を見る目が、みんな違うんですね」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
「それなら、急いで答えを出さなくてもいいのではありませんか」
リリアは顔を上げた。
「黒百合が何なのか。ヤシャラの人たちがどう考えているのか。それを知るために来たのでしょう?」
「……はい」
「なら、見てから決めればいい」
リリアはヴィクトルを見つめた。
「ヴィクトルさんは、どう思いますか?」
「黒百合についてですか?」
「はい」
ヴィクトルは考えてから答えた。
「私も、黒百合そのものについては、まだ分かりません」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「リリアさん自身を、あの力と同じものだとは思いません」
リリアは動きを止めた。
「でも、力が何であっても、それでリリアさんまで決まるわけではないでしょう」
「……」
「それだけは、前から分かっています」
リリアは黒い布花へ目を落とした。
すぐには顔を上げられなかった。
「ありがとうございます」
◆
昼食のあと、リリアはファリダと町へ出た。
必要な旅用品を買い足すためだった。
ヴィクトルとシリルも一緒だ。
市場の一角で、リリアは再び足を止めた。
露店に、花の飾りが並んでいる。
赤。
青。
白。
紫。
そして。
黒。
黒百合の髪飾り。
胸飾り。
小さな木彫り。
子ども用らしい布の腕輪にまで、黒百合が縫われている。
「こんなに……」
店主の老女が何かを言う。
リリアには速すぎて分からない。
シリルが笑った。
「似合うから買ってけって」
「私に?」
「ああ」
「黒百合だからですか?」
シリルが店主へ尋ねる。
老女が何か答えた。
「違うって」
「違う?」
「黒い髪に紫が似合うからだと」
リリアは老女を見る。
「……それだけ?」
「それだけらしい」
老女が黒百合の髪飾りを一つ手に取り、リリアへ差し出す。
黒い花弁の中央には小さな紫の石。
綺麗だった。
「おいくらですか?」
覚えたばかりのヤシャラ語で尋ねる。
老女が答える。
聞き取れない。
「……シリル」
「そこは俺なのかよ」
「数字はまだ難しいんです」
シリルが呆れ半分に訳した。
リリアも思わず笑った。
そして、自分の財布を開いた。
◆
その夜、宿の小さな鏡の前で、リリアは買った髪飾りを見つめていた。
淡い紫の髪紐の横へ、黒百合を添えてみる。
鏡の中の黒い髪に、黒い花。
同じ黒百合を前にしても、人によって見ているものは違う。
力を求める人もいれば、守ろうとする人も、ただ待っていた人もいる。
そして今日、黒百合は、小さな少女から贈られる花だった。
露店に並ぶ髪飾りだった。
黒い髪に紫が似合うから。
ただ、それだけの理由で勧められる飾りだった。
リリアは鏡の中の花を見る。
右腕の痣は、今も服の下にある。
黒百合の巫女と呼ばれることにも、まだ慣れていない。
けれど、髪に挿した花まで隠す必要はないのかもしれない。
リリアは黒百合の髪飾りへ手を伸ばした。
指先が、黒い花弁に触れる。
しばらくそのまま触れていた。
手を膝の上へ戻す。
鏡の中の自分の目元が、少し柔らかくなった気がした。




