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第二話 知らない言葉の国

◆


 石門を越えても、すぐに何かが変わるわけではなかった。


 馬の蹄が踏む土の感触も、さほど変わらない。


 関所の建物の前で、二人の兵士が話している。


 速い。


 音と音が繋がり、リリアには一つの長い言葉のように聞こえる。


 葛花で過ごしたひと月の間に、簡単なヤシャラ語を覚えた。


 挨拶や礼。


 水や食事、宿、馬といった旅で使う言葉。


 ゆっくり話してもらえば、ごく短い受け答えもできるようにはなった。


 けれど、目の前の兵士たちの会話は別だった。


 一つ、二つ、知っている単語が耳に引っかかるが、その間を埋める言葉が分からない。


「……シリル」


 リリアは後ろを振り返った。


 荷馬車の御者台に座っていたシリルが顔を上げる。


「あの方たち、何を話しているんですか?」


 シリルは兵士たちへ耳を傾けた。


「さっきのことだ」


「私のことですか?」


「ああ」


 シリルの表情から、笑みが消える。


「片方は、黒百合が現れたなら上へ知らせるべきだと言ってる。もう一人は、まず関守に報告して判断を仰げって」


 リリアは右腕へ視線を落とした。


「黒百合……って言っていたんですね」


「ああ」


「その言葉さえ、分かりませんでした」


「古い呼び方を混ぜてるからな。葛花で習った言い方とは少し違う」


「そうなんですね」


 隣にいたヴィクトルが兵士たちを見る。


「私も、ほとんど分かりませんでした」


「ヴィクトルさんも?」


「ええ。『報告』と『待て』くらいです」


「私より分かっています」


「たまたまですよ」


 シリルが御者台から言った。


「まだ一か月だろ。あれを聞き取れたら逆に怖い」


「シリルは全部分かるんですよね?」


「まあな」


 その時、ファリダが馬を寄せてきた。


「関守を呼ぶそうです。少し待つことになりました」


「私のせいですか?」


「あなたのせい、という言い方は違います」


 ファリダは静かに答えた。


「黒百合だと判断した理由を確認する必要があります」


「でも、痣は見えていません」


「ええ」


 ファリダの視線が、先ほど片膝をついた年配の兵士へ向く。


「ですから、私も聞いておきたいのです」


 リリアは頷いた。


「私も聞きたいです」


「もちろんです」


◆


 しばらくして、関所の建物から一人の男が出てきた。


 兵士たちより上等な濃紺の長衣。


 胸元には銀の飾り。


 腰には細身の湾刀。


 年は四十代ほどだろうか。


 その男が現れると、周囲の兵士が姿勢を正した。


「関守です」


 ファリダが小声で教える。


 関守はまずファリダと話した。


 次に、年配の兵士を呼ぶ。


 二人の間でヤシャラ語が交わされる。


 リリアは耳を澄ませた。


 ただ一つだけ、聞き取れた言葉があった。


 ――黒百合。


 今度は葛花で習った言い方だった。


 思わず右腕を押さえる。


 その直後に、もう一つ、聞き覚えのある音がした。


「……ミレナ?」


 リリアが呟いた。


 ヴィクトルがこちらを見る。


「今、そう言いましたか?」


 間違えるはずがない。


 母の名前だった。


「シリル」


 呼ぶと、すぐに答えが返ってきた。


「おまえの母親の話をしてる」


 胸の鼓動が強くなる。


「何て?」


 シリルは答えようとして、一度言葉を止めた。


 年配の兵士がまだ話している。


 途中で切らず、最後まで聞いているらしい。


 リリアは待った。


 やがて、男が話し終える。


 シリルがリリアを見る。


「若い頃、ミレナを見たことがあるって」


「母を?」


「ああ。親しく話したことはないらしい。でも、何度か見かけたことがある」


 リリアは年配の兵士を見た。


「それで……私を見て?」


「似てるって言ってる」


「どこが?」


 今度はファリダが答えた。


「顔立ち、特に目元が似ているそうです」


 リリアは無意識に自分の頬へ触れた。


「髪ではなくて?」


「髪もでしょう」


 ファリダがヤシャラ語で何かを尋ねる。


 年配の兵士が答えた。


 シリルもその言葉を聞いていたが、今度は口を挟まなかった。


「何と?」


 リリアが尋ねる。


「笑う前の顔が似ている、と」


「……笑う前?」


「ミレナ様は、笑う直前に少しだけ目元が柔らかくなったそうです」


 リリアは何も言えなかった。


「母は……よく笑う人だったんでしょうか」


 リリアが尋ねる。


 ファリダが通訳した。


 けれど、年配の兵士は首を横に振った。


 今度はシリルが訳した。


「そこまでは知らないって」


「そうですか」


 ファリダが、年配の兵士へもう一度問いかけた。


 今度のやり取りは長かった。


「何を聞いているんですか?」


「あなたを見て、なぜ黒百合だと思ったのかを聞いています」


 リリアは右腕を見た。


 やがて、年配の兵士が答えた。


 ファリダの眉がわずかに寄る。


「数週間ほど前から、このあたりで噂が流れているそうです」


「噂?」


「黒百合が、ヤシャラへ帰ってくる、と」


 リリアは顔を上げた。


「私が来ることを、知っていたんですか?」


「あなたの名前までは知らなかったそうです。ただ、ローダンの方角から黒百合が帰ってくる、と」


「誰が、そんなことを?」


 ファリダはすぐには答えなかった。


「分かりません」


「祀院ですか?」


「可能性はあります」


「皇帝陛下は?」


 ファリダの視線が、一度だけリリアへ向いた。


「私からは、何とも言えません。少なくとも、私はそのような命令を受けていません」


「では……」


「祀院からなのか、皇帝側からなのか。あるいは別々に流れたものが重なったのか。今は判断できません」


 リリアは黙った。


 自分が国境を越えるより先に、黒百合が帰ってくるという噂だけが、この国を歩いていた。


◆


 関守が、今度はリリアの前へ来た。


 馬上のリリアを見上げ、右手を胸へ置く。


 そして、ゆっくりと話した。


 先ほどの兵士たちより、ずっと遅い。


 リリアは耳を澄ませる。


 知っている。


 最初の言葉は挨拶だった。


 リリアも胸へ手を置いた。


 葛花でファリダから教わった通り、同じ挨拶を返す。


 関守の眉がわずかに上がった。


 続いて何かを尋ねられる。


 今度は分からなかった。


 リリアは困ってシリルを見る。


「名前を聞いてる」


「あ……」


 それなら答えられる。


 リリアは関守へ向き直った。


 習った短い言葉を頭の中で並べる。


「リリアです」


 ヤシャラ語で答えた。


 関守が頷く。


 次の問いは聞き取れた。


 どこから。


 たぶん、そう言った。


「ローダンから来ました」


 発音に自信はない。


 それでも通じたらしい。


 関守がもう一度頷いた。


 けれど、次の言葉は速かった。


 途端に分からなくなる。


「……シリル」


「目的は何だ、って」


 リリアは答えようとして、止まった。


 旅。


 母。


 知る。


 その単語は、まだ知らない。


「ファリダさん」


「はい」


「『母のことを知りたい』は、何と言うんですか?」


 ファリダがゆっくりと教える。


「もう一度お願いします」


 ファリダが繰り返す。


 リリアも小さく口にする。


「少し違います。最後をもう少し短く」


「こうですか?」


「ええ」


 リリアは関守へ向き直った。


 そして、たどたどしいヤシャラ語で言った。


「母のことを、知りたいです」


 関守の顔から、それまでの穏やかさが消えた。


 年配の兵士もこちらを見る。


 何か、おかしなことを言ったのだろうか。


 リリアは不安になった。


「通じましたか?」


「通じています」


 ファリダが答える。


「では、どうして……」


 関守が何かを言った。


 今度はシリルがすぐには訳さなかった。


「シリル?」


「……母親の名を聞いてる」


 リリアは関守を見る。


「ミレナ」


 その名を口にすると、関守の表情が改まった。


 年配の兵士も、リリアを見つめる。


 先ほどまで話していた兵士たちの声も止んだ。


 リリアは戸惑った。


「どうしたんですか?」


 ヴィクトルも周囲を見回している。


 彼にも理由は分からないらしい。


 ヴィクトルの右手が、剣帯の近くへ下がった。


 柄には触れていないが、それでも、いつでも動ける姿勢なのだとリリアには分かった。


「ヴィクトルさん」


 小さな声だった。


「抜きません。ただ、念のためです」


「はい」


 関守が年配の兵士へ何かを尋ねた。


 男が答える。


 今度は長かった。


 途中、リリアにも聞き取れる名前が何度も出てきた。


 ミレナ。


 黒百合。


 ミレナ。


 そして、知らない言葉。


「シリル」


「待ってくれ」


 シリルは会話から耳を離さなかった。


 リリアは黙る。


 やがて話が終わった。


「何て言っていたんですか?」


 シリルは一度言葉を選んでから答えた。


「ミレナがこの国を去って、十七年ほどになる。それ以来、この関を通る黒百合の巫女を見ていないそうだ」


「十七年……」


 ――長い間、待っていた。


 あの言葉の意味が、ようやく分かった気がした。


「だから、私を見て『帰ってきた』と?」


「たぶんな」


 ファリダが静かに付け加える。


「リリアさん」


「はい」


「この方たちが知っていることが、ヤシャラ全体の考えではありません」


 リリアはファリダを見る。


「どういう意味ですか?」


「黒百合を待っていた人もいます」


 年配の兵士を見る。


「恐れている人もいるでしょう」


「……はい」


「利用しようとする者もいる」


 それはもう知っている。


「そして、ミレナ様についても同じです」


「母についても?」


「人によって、見ていたものは違います」


 ファリダの声は穏やかだった。


「これからあなたが聞く話は、すべて同じではないと思います」


 リリアは年配の兵士を見る。


「……分かりました」


◆


 手続きが終わった。


 関守が道を開けるよう兵士たちに命じる。


 年配の兵士が、もう一度リリアの前へ来る。


 右手を胸へ置き、何かを言った。


「ファリダさん」


「はい」


「今の言葉を、一語ずつ教えてもらってもいいですか?」


 ファリダがリリアを見返した。


「訳ではなく?」


「はい」


 リリアは年配の兵士を見る。


「この方が私に言った言葉だから、自分で知りたいです」


 ファリダはしばらくリリアを見つめた。


 それから頷いた。


「分かりました」


 男が言った言葉を、ゆっくり繰り返す。


 一語。


 もう一語。


 リリアは真似をする。


「どういう意味ですか?」


「『良い旅を。花があなたを守りますように』」


 リリアは右腕へ目を落とした。


 花。


 それは黒百合を指しているのだろうか。


 リリアは顔を上げ、自分が知っているヤシャラ語で答えた。


「ありがとうございます」


 発音は、たぶん大丈夫。


 年配の兵士が微かに笑みを浮かべた。


 胸へ手を置き、深く頭を下げる。


 リリアも頭を下げた。


◆


 関所を離れると、街道は緩やかな下り坂になった。


 ファリダが先頭で、その後ろをリリア。


 ヴィクトルは少し離れて後方を警戒している。


 シリルの操る荷馬車が続く。


 道の先には、小さな町が見えてきた。


 平たい屋根。


 白と赤茶色の壁。


 軒先から吊るされた色布。


 煙突から細い煙が上がっている。


 道端には、見たことのない赤い実が籠いっぱいに積まれていた。


 香辛料の匂いが風に乗る。


 子どもたちの声が聞こえてきた。


 リリアは耳を澄ませる。


「……今、馬って言いました?」


 シリルが後ろから答えた。


「ああ」


「その前は、綺麗な、馬?」


「正解」


 リリアは嬉しくなって栗毛の首を撫でた。


「褒められましたよ」


 栗毛が耳を動かす。


 ヴィクトルが馬を寄せてきた。


「今の言葉、あとで教えてください。リリアさんだけ先に覚えるのは困ります」


 リリアは笑いながら言った。


「では、一緒に覚えましょう」


「はい」


 後ろからシリルの声がする。


「俺に聞けば早いぞ」


 リリアは振り返った。


「教えてくれるんですか?」


「間違った発音で話される方が面倒だからな」


「それなら、お願いします」


「厳しいぞ」


「ファリダさんより?」


「それは知らん」


「では、ファリダさんに教えてもらいます」


 ファリダが前を向いたまま笑った。


 リリアも笑った。


 知らない文字に知らない言葉、知らない人々。


 その中に、母の残したものがある。


 リリアは、街道の先から聞こえてくる声へ耳を澄ませた。


 今はまだ、ほとんど分からない。


 それでもいつか、自分の耳で聞きたい。


 母が、どんなふうにこの国で生きていたのかを。





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