第一話 境を越える朝
◆
朝、目を覚ましたリリアは、しばらく天井を見つめていた。
白い漆喰。
窓辺で揺れる薄紫の帳。
冬の朝の光が、その向こうから淡く差し込んでいる。
遠くで、水の流れる音がした。
葛花の朝だった。
ここで目を覚ますようになって、ひと月になる。
リリアは、毛布から右手を出すと、最初に指を動かした。
次に右腕。
痛みはない。
黒百合の痣も静かだった。
寝台を降りる。
右足首を床につけた。
ひと月前には体重をかけるだけで痛んだ足も、今はほとんど気にならない。
ゆっくりと歩く。
問題ない。
椅子の背には、昨日ファリダと一緒に選んだ旅装が掛けられていた。
濃い灰色の長衣。
細身の脚衣。
柔らかな革靴。
その上から羽織る、冬用の薄紫の外套。
リリアは着替えを済ませ、鏡の前に立った。
黒い髪。
黒紫の瞳。
頬は、ようやく少しふっくらとしてきた。
そこにいるのは、ただの十六歳の少女だった。
それが、嬉しかった。
鏡の横には、小さな木箱が置かれている。
蓋を開けると、何本かの髪紐が並んでいた。
ファリダが用意してくれたものだ。
黒。
灰色。
深い青。
そして、淡い紫。
リリアは最後の一本を取った。
髪をまとめようとして、途中で手が止まる。
ひと月の間に、ファリダには何度も髪を結ってもらった。
最初は断った。
自分でできます、と。
するとファリダは、
――できることと、人にやってもらうことは別ですよ。
そう言って微笑んだ。
あの理屈は、今でもよく分からない。
けれど。
リリアは髪紐を手に、部屋を出た。
◆
ファリダは廊下の窓辺で荷物を確認していた。
濃灰色の旅装。
首の後ろで束ねた濃い栗色の髪。
腰には細身の湾刀。
外からは見えないが、長靴にも短剣が一本隠されていることを、リリアは知っている。
「ファリダさん」
呼ぶと、灰緑色の瞳がこちらを向いた。
「おはようございます。眠れましたか」
「はい」
答えてから、リリアは髪紐を差し出した。
ファリダがそれを見る。
「……髪を」
「はい」
「結ってもらってもいいですか」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
ファリダの目元が柔らいだ。
「もちろんです」
リリアは廊下の椅子へ座った。
ファリダの指が黒髪を梳いていく。
「きつくありませんか」
「大丈夫です」
少し考えてから、リリアは付け加えた。
「……ちょうどいいです」
ファリダの手が一瞬止まった。
けれど、何も言わなかった。
淡い紫の髪紐が結ばれる。
「できました」
リリアは髪へ触れた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
少し離れたところから声がした。
「今日は曲がってないな」
振り返ると、シリルが壁にもたれていた。
肩には荷袋を掛けている。
「今日は私が結ったもの」
ファリダが言う。
「なるほど」
「何ですか、その納得した顔」
リリアが言うと、シリルが笑った。
「前に自分でやった時は、左に寄ってたからな」
「もう忘れてください」
「無理だな」
「シリル」
「何だよ」
「……意地悪です」
言ってから、リリアは少しだけ目を伏せた。
以前なら、こんなことを言うことさえ躊躇った気がする。
シリルも気づいたらしく、目を丸くした。
が、すぐにいつもの調子に戻る。
「今さら気づいたのか」
それだけ言った。
「何をしているんですか」
今度は別の声がした。
ヴィクトルだった。
金色の髪を整え、外套の下には剣帯を着けている。
「出発前から喧嘩ですか」
「喧嘩ではありません」
リリアが答える。
「そうですか」
ヴィクトルの声は、いつもと同じ丁寧なものだった。
ただ、その口元にはほんの少し笑みがある。
◆
葛花の門前には、二頭の馬と、一頭立ての小さな荷馬車が用意されていた。
その後ろには、荷を載せていない栗毛の馬が一頭繋がれている。
ファリダとヴィクトルが馬に乗り、シリルが荷馬車の御者を務める。
リリアは荷馬車に乗る予定だった。
ヴィクトルが自分の馬の脇で鞍を確かめている。
革帯を締めているのは右手だった。
リリアは、その腕を目で追った。
灰熊の爪に裂かれた傷は、もう塞がっている。
日常の動作には支障がなく、剣も右手で振れると本人は言っていた。
ただ、強く力を入れると、まだ傷の辺りが突っ張ることがあるらしい。
「リリアさん?」
見ていたことに気づかれた。
「右腕、大丈夫ですか?」
ヴィクトルは自分の腕へ目を落とした。
「ええ。もうほとんど問題ありません」
「でも、無理はしないでくださいね」
一瞬、ヴィクトルが黙った。
「……はい」
「?」
「いえ」
ヴィクトルの口元がわずかに緩んだ。
その時、荷馬車の後ろに繋がれた栗毛が鼻を鳴らした。
リリアはそちらを見た。
「あの馬は?」
「予備です」
ファリダが答えた。
「馬に何かあった時のために連れていきます」
「そうなんですね」
リリアは栗毛を見る。
なぜだろう。
胸の奥に、かすかなざわめきが生まれた。
栗毛が、もう一度鼻を鳴らした。
リリアはゆっくりと近づいた。
「リリアさん」
ヴィクトルの声がする。
「触るだけです」
「気をつけてください」
「はい」
馬の左側へ立った。
手を伸ばしかける。
けれど、なぜか途中で止めた。
先に、こちらの匂いを確かめさせる。
そうした方がいい。
理由もなく、そう思った。
――どうして知っているの?
栗毛がリリアの手へ鼻先を寄せた。
温かな息が掌に触れる。
それから、首筋へ手を添えた。
温かい。
その感触が、どこか懐かしい。
「馬、好きなのか?」
御者台へ荷を載せていたシリルが尋ねた。
「……怖くはないです」
答えてから、リリアは自分の言葉に引っかかった。
好きなのか、なんて考えたこともなかった。
栗毛の背には鞍が載せられている。
鐙が目に入った。
その瞬間、身体の奥で、何かが動いた。
左手が手綱へ伸びる。
「リリアさん?」
ファリダの声。
リリア自身にも、何をしようとしているのか分からなかった。
鐙の位置を確かめる。
左足を掛ける。
「待ってください、リリアさん」
ヴィクトルがすぐに近づいた。
「乗ったことがないのでしょう?」
「覚えている限りでは、ありません」
「でしたら、いきなり一人で乗るのは危険です」
「はい。分かっています」
そう答えたのに、左足は鐙から外れなかった。
怖くない。
それどころか、この先を、身体が知っている。
「……少しだけ、乗ってみてもいいですか?」
ファリダがリリアを見つめた。
次に、栗毛を見る。
「私が手綱を押さえます。歩かせません。それでもいいですか?」
「はい」
ファリダが馬の頭側へ回る。
ヴィクトルはすぐ横に立った。
「何かあれば支えます」
「ありがとうございます」
リリアは息を吸った。
地面を蹴る。
身体が軽く上がった。
右脚が馬の背を越える。
気づいた時には、鞍の上にいた。
「……え?」
下では、シリルが呆気に取られている。
「本当に初めてなのか?」
「そのはずなんですけど……」
リリア自身が一番驚いていた。
ファリダの表情が変わった。
「手綱を少し緩めてみてください」
「こうですか?」
自然に手が動く。
「そうです。踵は――」
ファリダが途中で言葉を止めた。
リリアはすでに踵を下げていた。
背筋。
膝。
腰。
全部、身体が知っている。
「……誰かに習っていますね」
「覚えていません」
「でしょうね」
「上手ですか?」
「少なくとも、初めてではありません。姿勢も、手綱の扱いも」
リリアは栗毛の首へ手を当てた。
馬が耳を動かす。
三年前より前の自分。
記憶から消えていても、その痕跡はまだ、自分の中に残っている。
「少し歩かせてみますか」
ファリダが言った。
「いいんですか?」
「私が横につきます。ゆっくりですよ」
「はい」
軽く合図する。
栗毛が歩き出した。
身体が揺れに合わせて動く。
一周。
もう一周。
「少し手を離します」
「はい」
ファリダが馬から離れた。
もう少し速く。
そう思っただけで、脚が自然に馬へ合図を送った。
栗毛が軽い速歩へ移る。
風が頬を撫でた。
その瞬間、誰かと並んで、この風の中を駆けたような、遠い懐かしさが胸を掠めた。
楽しい。
その感情が浮かんだことに、リリア自身が驚いた。
けれど、次の瞬間、甲高い馬のいななきが、耳の奥で弾けた。
土を蹴る蹄。
大きく傾く馬体。
小さな身体が鞍から投げ出される。
「……アン様」
名前が唇からこぼれた。
右腕が、焼けるように熱くなる。
視界の端を、黒い花びらが覆った。
「……っ」
リリアは息を呑んだ。
少し離れた場所にいたヴィクトルが、不意に胸を押さえた。
「リリアさん……?」
――縁。
そう気づいた時には、ヴィクトルは馬を寄せていた。
景色が戻る。
栗毛は暴れていない。
冬の朝の中を、穏やかに走っている。
分かっている。
三年前の馬場だ。
アン様が落馬し、黒百合が現れた時の記憶。
革が空気を裂く音。
背中へ走る痛み。
そして、今、思い出した記憶もある。
風。
馬の背の揺れ。
手綱から伝わる力。
――私、馬に乗るのが好きだったの……?
「リリアさん!」
ヴィクトルの声が飛んだ。
リリアは振り返った。
「大丈夫です!」
答える。
今度は、自分にも言い聞かせるように。
手綱を操り、栗毛を大きく回して戻る。
ファリダの前で止めた。
すぐにヴィクトルが近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「顔色が変わりました」
リリアは右腕へ触れた。
もう熱は引いている。
「少し、思い出しました」
ヴィクトルの表情から笑みが消えた。
「馬場のことですか?」
「はい。アン様が落馬した時のことを」
ファリダもこちらを見る。
「今日はもう降りた方がいいですね」
「……いいえ」
ファリダが眉を上げた。
リリアは栗毛の首を撫でた。
「リリアさん」
「アン様が落馬したことは怖いです。黒百合が現れたことも、その後のことも」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、この子は怖くありません」
栗毛が耳をこちらへ向ける。
リリアはその首筋を、もう一度撫でた。
「それに……」
「それに?」
ファリダが尋ねる。
口にするのが、少し恥ずかしかった。
「私、馬に乗るのが好きだったのかもしれません」
ファリダの目元が柔らいだ。
「そうかもしれませんね」
「……はい」
嬉しかった。
怖い記憶が消えたわけではない。
それでも、その出来事より前の自分まで、すべて失われたわけではなかった。
リリアは顔を上げた。
そして、なぜかヴィクトルを見た。
「ヴィクトルさん」
「はい」
「見ていましたか?」
ヴィクトルは一瞬、目を瞬いた。
それから、微笑んだ。
「はい。見ていましたよ」
その一言で、なぜか急に恥ずかしくなった。
「……そうですか」
リリアは栗毛の首へ視線を落とした。
なぜか、もう一度ヴィクトルを見ることはできなかった。
御者台からシリルが声を投げた。
「で、どうするんだ。荷馬車に乗るのか?」
リリアは栗毛を見る。
「……この子に乗ってもいいですか?」
ファリダが少し考えた。
「疲れたら、すぐ荷馬車へ移ること。それが条件です」
「はい」
「足首もです。痛みが出たら我慢しないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「……本当です」
ファリダが笑った。
「では、行きましょう」
◆
門を出る前、リリアは一度だけ葛花を振り返った。
ひと月を過ごした場所。
ここで眠り、食べ、傷を治した。
ファリダに髪を梳いてもらった。
シリルと話した。
ヴィクトルに、何度も休んでくださいと言われた。
セイランとも話した。
そして、皇帝ナディルへ、自分の意思を伝えた。
自分は誰のものにもならない。
自分の過去を知りたい。
母ミレナを知りたい。
黒百合が何なのかを知りたい。
そのうえで、自分で選びたい。
そして今日、ここを出る。
「リリアさん」
ファリダが呼んだ。
「行けますか」
リリアは振り返った。
ファリダ。
シリル。
ヴィクトル。
三人が待っている。
「はい」
リリアは栗毛の手綱を握った。
「行きましょう」
◆
葛花を離れて数日、景色が変わり始めた。
石造りの家が減り、土壁の建物が増える。
街道沿いには、リリアの知らない文字が刻まれた石標が立っていた。
人々の衣服も変わっていく。
色鮮やかな布。
長い上衣。
耳や首に下げた金属飾り。
行き交う人々の言葉も、少しずつ聞き取れなくなってきた。
ヤシャラが近い。
ファリダが馬を寄せた。
「この先に関があります」
「国境ですか?」
「ええ」
リリアの指に力が入った。
ヤシャラ。
母が生まれた国。
セイランの国。
皇帝ナディルの国。
そして。
黒百合の巫女が生まれた国。
街道の先に、大きな石門が見えてきた。
ローダン側の門とは違う。
白い石柱には蔓草と花の彫刻が刻まれ、その上では色鮮やかな布が冬風に揺れている。
門の向こうには、乾いた大地が広がっていた。
空が大きい。
遠くには赤茶色の山並み。
その手前を、銀色に光る川が流れている。
リリアは馬を止めた。
「ここから……」
「ヤシャラです」
ファリダが答えた。
リリアは息を吸った。
知らない匂いがした。
乾いた土。
香辛料。
馬。
焚き火。
そして、どこか甘い花の香り。
関所を守る兵士の一人が、こちらを見た。
ファリダを見る。
ヴィクトルを見る。
御者台のシリルを見る。
そして最後に、リリアを見た。
兵士の動きが止まった。
男の視線は、リリアの右腕へ落ちていた。
痣は服の下だ。
見えるはずがない。
なのに、兵士は、ゆっくりと右手を胸へ置いた。
隣にいた兵士も気づいた。
二人が低い声で何かを囁き合う。
ファリダの表情が変わった。
「どうしたんですか?」
リリアが尋ねる。
「そのまま、こちらへ」
「何かあったんですか?」
「まだ分かりません」
ファリダが馬をリリアの前へ出す。
ヴィクトルも無言で右側へ馬を寄せた。
荷馬車を止めたシリルが御者台から降り、左へ回る。
三人に囲まれた。
「ファリダさん」
呼ぶ。
ファリダが振り返った。
「隠さないでください」
灰緑色の瞳がリリアを見る。
「私のことなら、私にも教えてください」
一瞬の沈黙。
「……分かりました」
ファリダは馬を少し横へずらした。
兵士たちの姿が見える。
一人の男がこちらへ近づいてきた。
年配の兵士だった。
リリアの前で足を止める。
じっと顔を見つめてから、何かを言った。
知らない言葉だった。
「何と言ったんですか?」
ファリダはすぐには答えなかった。
「ファリダさん」
「……古いヤシャラ語です」
「意味は?」
年配の兵士が右手を胸へ置く。
次に、指先を地面へ。
額へ。
そして、もう一度胸へ。
その瞬間、リリアの右腕が熱を持った。
「っ……」
「リリアさん!」
ヴィクトルが馬を寄せる。
シリルもすぐに一歩を踏み出した。
「痛いのか」
「少し……」
袖の上から右腕を押さえる。
黒百合が脈打っている。
まるで、何かに答えようとしているかのように。
年配の兵士が、ゆっくりと片膝をついた。
周囲が静まり返った。
一人。
また一人。
ほかの兵士たちも、右手を胸へ置いていく。
「やめてください」
リリアは思わず言った。
もちろん、言葉は通じない。
「ファリダさん、立ってもらってください」
「……はい」
ファリダがヤシャラ語で告げる。
しかし、年配の兵士は頭を上げなかった。
低い声で何かを答える。
ファリダの顔から、笑みが消えた。
「何と言ったんですか?」
「……」
「教えてください」
リリアは目を逸らさなかった。
ファリダが静かに訳した。
「『長い間、待っていた』と」
「待っていた……?」
誰を。
何を。
年配の兵士が、もう一度何かを言った。
今度は、ファリダはすぐには訳さなかった。
男の目には涙が浮かんでいる。
「ファリダさん」
「……『黒百合が、帰ってきた』」
リリアは息を呑んだ。
帰ってきた。
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
「でも……」
リリアは男を見る。
「私は、ここへ来たことがありません」
ファリダは答えなかった。
リリアの右腕が、もう一度熱を持つ。
知らない国。
知らない言葉。
知らない母の過去。
そして、自分を見て涙を流す人。
黒百合だからと、頭を下げられることを受け入れるのは難しい。
それでも、知らないまま拒むことは、したくなかった。
「ファリダさん」
「はい」
「教えてください」
声は少し震えていた。
「この人たちは、どうして黒百合を待っていたんですか?」
ファリダは、しばらくリリアを見つめた。
冷たい風が吹く。
淡い紫の髪紐が揺れた。
「それを知るために」
ファリダは言った。
「私たちは、ヤシャラへ来たのでしょう?」
リリアは目を見開いた。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
石門の向こう、ヤシャラの空は、ローダンよりもずっと広く見えた。
遠い街から、年の終わりを告げる鐘が響いてくる。
あと半月ほどで、この国は新しい年を迎える。
リリアは栗毛の首を撫でた。
「行きましょう」
栗毛が一歩、門の向こうへ進む。
右腕の黒百合が、熱を持つ。
けれどリリアは止まらなかった。
自分で選んで、この国へ来たのだから。




