第十話 膝をつかない礼
◆
翌朝、リリアは窓辺の机に向かっていた。
机の上には、一枚の紙。
そこには、昨日ファリダから教わったヤシャラ文字が並んでいる。
挨拶。
ありがとう。
お願いします。
水。
食事。
馬。
花。
知っている言葉から覚えた方がいい、とファリダに言われた。
リリアは細い葦筆の先を墨壺へ浸した。
ローダンで使っていた羽ペンとは、指に伝わる感触が違う。
羽ペンより硬く、少し角度を変えるだけで線の太さが変わる。まだ、その加減に慣れない。
余分な墨を壺の縁で落とし、手本を見ながら、もう一度「花」の文字を書く。
「……違う」
少し傾いた。
もう一度書こうと葦筆を持ち直したところで、扉が叩かれた。
「はい」
「失礼いたします」
女官の声だ。
扉が開く。
入ってきた女官が、ヤシャラ語で何かを告げた。
聞き取れたのは、一つだけ。
サフィーヤ。
「サフィーヤ殿下?」
女官が頷く。
リリアは慌てて立ち上がった。
「もういらしたんですか?」
通じない。
どうしよう。
そう思ったところで、
「そんなに慌てなくても大丈夫よ」
廊下からローダン語が聞こえてきた。
サフィーヤが入ってくる。
「おはようございます、リリア」
「おはようございます、サフィーヤ殿下」
リリアは立ったまま丁寧に一礼した。
昨日教えられた通りだ。
サフィーヤが小さく頷く。
「それで十分です」
その一言に、少し安心した。
サフィーヤの視線が机へ向く。
「勉強していたの?」
「はい」
「見ても?」
「どうぞ」
紙を渡す。
サフィーヤはしばらく眺めた。
「誰に教わったの?」
「ファリダさんです」
「上手ですね」
「本当ですか?」
「この三つ以外は」
「三つも……」
思わず声が落ちた。
サフィーヤが笑った。
「昨日、何と言ったか覚えていますか?」
リリアは紙を見る。
「……間違えてもいい」
「そうです」
「でも、三つも間違っています」
「三つしか間違えていません」
リリアは顔を上げた。
同じことなのに、言い方が違うだけで、まるで別の意味に聞こえる。
「直しましょう」
「はい」
「書き直す前に、どこが違うか探してみて」
サフィーヤは答えを教えなかった。
リリアは三つの文字と手本を見比べた。
やがて、気づく。
「……ここですか?」
「ええ」
◆
しばらく文字を練習したあと、サフィーヤが紙を片づけながら言った。
「今日は、もう一つ約束していましたね」
「礼法ですね」
「ええ」
リリアは姿勢を正した。
その様子を見て、サフィーヤが微笑む。
「そんなに構えなくても大丈夫です」
「でも、礼法ですから」
「礼法は、人を怖がらせるためのものではありません」
「……そうなんですか?」
「少なくとも、私はそう教えています」
サフィーヤは部屋の中央へ立った。
「まず、昨日あなたが見たものから始めましょう」
姿勢が変わった。
皇女としてではなく、誰か別の人物を演じるように。
右足を半歩引く。
衣の裾を左手で軽く押さえ、右膝を床についた。
背筋は伸ばしたまま。
右手を胸元へ添え、正面へ深く頭を下げる。
そして、ヤシャラ語で静かに告げた。
「――御前に膝を折り、御代に仕えます」
リリアは目を瞬いた。
「今の言葉は……?」
「『御前に膝を折り、御代に仕えます』」
「御代に、仕えます……」
「ええ。皇帝に対して、臣下が取る正式な礼です」
サフィーヤは立ち上がった。
「軍人や官吏では、手の位置や言葉に多少の違いがあります。けれど、基本の意味は同じです」
「自分は、皇帝陛下の臣下です、と?」
「そうです」
昨日の昼食室を思い出す。
侍従や女官たちは、ナディルへ深く礼を取っていた。
「私も、覚えた方がいいですか?」
「知っておくのはいいでしょう」
「では、一度――」
リリアは右足を引こうとした。
「リリア」
止められた。
「はい?」
「形を知ることと、自分で行うことは別です」
サフィーヤの声が、わずかに厳しくなる。
「その礼を、あなたはしてはいけません」
「……してはいけない?」
「ええ」
「皇帝陛下にも?」
「皇帝にも」
リリアは戸惑った。
「どうしてですか?」
「あなたは、皇帝の臣下ではないからです」
部屋が静かになった。
「でも、私は今、皇宮にいます」
「皇宮に滞在することと、臣下になることは別です」
「では……サフィーヤ殿下には?」
「必要ありません」
「皇后陛下や皇太后陛下にも?」
「必要ありません」
「ほかの皇族の方にも?」
「ええ」
サフィーヤは一つずつ答えた。
「大臣にも。祀院の高位者にも。身分を理由に膝をつく必要はありません」
リリアはしばらく黙った。
膝をつかなくていい。
「黒百合の巫女は、皇族より上なんでしょうか?」
「いい質問ですね」
サフィーヤはすぐに首を横へ振った。
「違います」
「では、下では?」
「それも違います」
リリアは眉を寄せる。
「……難しいです」
「上下ではないからです」
サフィーヤは言った。
「皇族は皇族。黒百合の巫女は黒百合の巫女。それぞれ立場が違います」
「立場……」
「皇帝には国を統べる責務がある。黒百合の巫女には、皇帝とは別の歴史と役割がある」
そして静かに続けた。
「だから、どちらかがどちらかを所有する関係ではありません」
リリアの視線が、右腕へ落ちた。
所有。
その言葉が、引っかかった。
◆
葛花の中立庵で、ナディルと交わした言葉が蘇る。
――完全な自由ではない。
――所在は把握する。
そして自分は言った。
誰のものにもならない、と。
「……皇帝陛下は」
リリアはゆっくりと尋ねた。
「このことを知っているんですよね?」
サフィーヤの眉が少し上がる。
「もちろん」
「では、どうして……」
そこまで言って、止まった。
「どうして?」
「いえ」
「言ってください」
リリアは少し迷った。
「皇帝陛下は、私をヤシャラで保護したいとおっしゃいました」
「ええ」
「所在も把握すると」
サフィーヤは黙って聞いている。
「それで私は、保護と監禁を同じにしないでほしいと……そういう話をしました」
「なるほど」
「だから」
リリアは右腕を見る。
「皇帝陛下が黒百合を所有できないと、昔から決められているなら……」
言葉を探す。
「どうして、あんな話になったんでしょう」
サフィーヤは少し考えた。
「古いしきたりを知っていることと、その意味を守ることは同じではないからでしょうね」
リリアは顔を上げた。
「兄は皇帝です」
サフィーヤはナディルを兄と呼んだ。
「守らなければならないものが多い。国境も、人も、法も。だから、危険があるものを手の届くところへ置きたがります」
「黒百合も?」
「あなたも」
サフィーヤは訂正した。
「そこを間違えてはいけません」
リリアは黙った。
「兄があなたをどう考えているかは、兄自身に聞きなさい。ただ――」
サフィーヤの眼差しが、少し厳しくなる。
「皇帝だからといって、何をしても許されるわけではありません」
「皇帝陛下に、そんなことを言って大丈夫なんですか?」
「本人にも言っています」
リリアは思わず笑いそうになった。
「昨日も言っていましたね」
「昨日だけではありません」
今度は、本当に少し笑ってしまった。
◆
「では、本題です」
サフィーヤが言った。
「皇帝にも臣下礼をしない黒百合の巫女が、皇帝と正式に対面する時、どうするのか」
リリアは真剣に見る。
「別の礼があるのですか?」
「あります」
サフィーヤは少し間を置いた。
「黒百合の古式の誓礼」
「誓礼……」
「とても古いものです」
サフィーヤはリリアから三歩ほど離れた。
「本来は黒百合の巫女本人が行う礼ですから、私は形だけ示します」
静かに立ち止まる。
皇帝の三歩ほど手前。
右足を半歩だけ後ろへ引く。
けれど、膝は落とさない。
背筋も伸びたままだ。
次に右腕を胸の高さまで上げる。
右の掌を正面へ向け、指を自然に開いた。
「手のひらを見せるんですか?」
「ええ。一度だけ」
サフィーヤは開いた右手を、ゆっくりと内側へ返した。
そのまま右腕を胸元へ寄せ、左の掌を心臓の上へ添える。
そこで正面を見る。
一呼吸。
それから、静かに顎を引いた。
腰は折らない。
膝もつかない。
その姿勢を一呼吸だけ保ち、再び顔を上げる。
右腕を下ろし、最後に左手を胸から離した。
臣下の礼より動きは多い。
けれど、不思議と仰々しくは見えなかった。
一つ一つの動きが、言葉のように見えた。
「……難しそうです」
「少しだけ」
「少し、ですか?」
サフィーヤが笑う。
「やってみますか?」
「はい」
リリアはサフィーヤと場所を代わった。
「三歩手前で止まります」
「はい」
歩く。
三歩手前。
止まる。
「右足を半歩」
リリアは右足を引いた。
「少し引きすぎです」
「あ……」
「ほんの半歩。逃げるためでも、戦うためでもありませんから」
リリアは少し戻した。
「このくらいですか?」
「ええ。次に右腕を」
黒百合の痣がある右腕を上げる。
掌を正面へ向けると、指先に力が入った。
「そんなに張らなくても大丈夫です」
「……はい」
「力を示す礼ではありませんから」
リリアは息を吐いた。
指から力を抜く。
掌が少し軽くなった。
「そう。それでいい」
掌を内側へ返す。
黒百合のある右腕が、自分の胸元へ戻ってくる。
「左手を心臓へ」
左の掌を胸へ添える。
「一度、正面を見て」
リリアはサフィーヤを見る。
「すぐに目を伏せないで。一呼吸」
「はい」
一呼吸。
「それから視線を落とします」
リリアは目を伏せた。
いつもの癖で、身体まで前へ傾きかける。
「リリア」
「あ」
止まった。
「腰は折りません」
「すみ――」
言いかけて、口を閉じる。
昨日の言葉を思い出した。
「……もう一度、お願いします」
サフィーヤは頷いた。
「ええ。もう一度」
二度目。
今度は、形だけを追わないようにした。
半歩退いても、背を向けない。
掌を見せても、何かを差し出すわけではない。
黒百合のある腕を、自分へ戻す。
左手を胸へ添える。
正面を見る。
そして、自分から視線を下げる。
腰は折らなかった。
けれど、最後に右膝がわずかに沈んだ。
「膝」
「あっ」
リリアは慌てて足へ力を入れた。
伸ばしたはずの膝が、またわずかに緩みそうになる。
「どうして……」
「身体が、礼をするなら膝を折るものだと覚えているのでしょう」
リリアは自分の右膝を見た。
「……はい」
「悪いことではありません」
サフィーヤの声は変わらなかった。
叱る響きも、呆れる気配もない。
「ただ、この礼では折らない。それを新しく覚えればいいのです」
リリアはゆっくりと顔を上げた。
――折らなくていい。
その言葉を、胸の中でもう一度繰り返す。
「もう一度やります」
三度目。
今度は、順番を頭の中で数えなかった。
半歩退く。
けれど、逃げるためではない。
何も握っていない掌を見せる。
指先に触れる空気は冷たかった。
掌を内側へ返す。
黒百合のある右腕が、自分のところへ戻ってくる。
誰かへ差し出すのではない。
自分のもとへ。
左手を胸へ添える。
薄い衣越しに、とく、と鼓動が触れた。
正面を見る。
一呼吸。
それから、自分の意思で視線を下げる。
膝は沈まなかった。
腰も折れなかった。
顔を上げる。
「……今のは?」
「合っています」
リリアは息を吐いた。
胸の奥に残っていた窮屈さが、ほどけた。
ただ覚えなければならない動作だったものが、少し自分の身体に近づいた気がした。
「これが、黒百合の礼……」
「ええ」
◆
「一つ一つの動きに、意味があるんですか?」
リリアが尋ねた。
「あります」
サフィーヤはリリアの右手を見る。
「最初に開いた掌を相手へ見せるのは、何も握っていないことを示します」
リリアも掌を開いた。
さっきより、指に力は入らなかった。
「何も……」
「剣も、敵意も。黒百合の力を、皇帝へ向けるために来たのではない。そう示す意味もあると言われています」
「では、手を内側へ返すのは?」
「黒百合は、皇帝へ差し出すものではないから」
リリアは掌を返した。
右腕の痣が、自分の方を向く。
「あなた自身と共にあるものです」
「私と……」
「ええ」
「左手を胸へ置くのは?」
「心と意思は、自分自身のもの」
もう一度、左手を胸へ置いてみる。
とく、とく、と掌の下で鼓動が続いていた。
誰に命じられなくても、誰に許されなくても、自分の胸の中で動いている。
「右足を引くのにも、意味があるんですか?」
「あります」
サフィーヤは自分の足元を見る。
「相手の領分へ踏み込まないという意味です」
「踏み込まない?」
「ええ。けれど、身体は正面へ向けたままでしょう?」
リリアは先ほどの姿勢を思い返した。
「はい」
「退いて去るための半歩ではありません」
サフィーヤは静かに続けた。
「相手の領分を侵さない。それでも、背を向けずに向き合う。そのための半歩です」
リリアは右足をほんの少し後ろへ引いてみた。
確かに、逃げる姿勢ではない。
前へ踏み込む姿勢でもない。
ただ、自分の場所に立っている。
「では、膝をつかないのは……」
「黒百合は皇帝の臣下でも、所有物でもないから」
今度は、その言葉が先ほどより深く入ってきた。
「それでも、頭は下げる」
「ええ」
サフィーヤは頷いた。
「皇帝を、この国の統治者として認めるからです」
「従う、ではない?」
「違います」
サフィーヤは静かに首を横へ振った。
リリアは一度唇を閉じた。
「……逆らわない、でも?」
もう一度、首が横へ動く。
「違います」
リリアは小さく息を吸った。
「互いの立場を認め、互いの領分を侵さない。そのための礼です」
リリアは黙って、自分の右手を見た。
何も握らない。
黒百合を差し出さない。
自分の意思で相手を見る。
自分の意思で視線を下げる。
それでも、膝はつかない。
胸へ左手を添える。
鼓動は、まだそこにある。
「……好きです」
気づけば、口からこぼれていた。
サフィーヤが瞬く。
「この礼が?」
「はい」
答えてから、少し恥ずかしくなった。
「変ですか?」
「いいえ」
「だって……」
リリアは胸に置いた手を、そのままにした。
「頭を下げても、自分まで渡さなくていいみたいだから」
サフィーヤは、リリアの胸元に置かれた手へ視線を落とした。
それから、もう一度リリアを見る。
「ええ」
静かな声だった。
「そのための礼なのでしょうね」
◆
「言葉もあります」
サフィーヤが言った。
「皇帝が先に告げます」
ヤシャラ語で、ゆっくりと発音する。
「花に道を」
リリアは聞き取ろうと集中した。
「意味は?」
「黒百合が生き、歩むための道を閉ざさない」
リリアはナディルを思い出した。
道を閉ざさない。
それを、皇帝が誓う。
「黒百合の巫女は、こう返します」
サフィーヤがもう一つ、ヤシャラ語を口にした。
「御代に朝を」
リリアも続ける。
だが、最後の音がわずかに違った。
「もう一度」
サフィーヤの口元を見る。
音だけではなく、舌の置き方まで意識して繰り返す。
「……御代に、朝を」
「もう少し。最後を短く」
リリアは小さく息を吸った。
三度目。
今度は、聞いた音をそのまま返すように発音した。
サフィーヤは一度頷いた。
「今のは合っています」
「本当ですか?」
「ええ。覚えが早いですね」
思いがけない言葉に、リリアは瞬いた。
「……そうでしょうか」
「少なくとも、音を聞き分けるのは上手です」
褒められたことが少しくすぐったくて、リリアはもう一度、小さな声で繰り返した。
「御代に朝を」
今度は、サフィーヤに直されなかった。
「意味は?」
「その治世に、破滅ではなく朝が訪れることを願う」
「忠誠を誓う言葉ではないんですね」
「ええ」
「命令に従うという意味でもない」
「ありません」
リリアは覚えたばかりの言葉を、もう一度心の中でなぞった。
花に道を。
御代に朝を。
臣下は、膝を折り、仕えることを告げる。
黒百合は、朝を願う。
同じ皇帝へ向ける言葉なのに、その意味はまるで違っていた。
「正式な謁見では、この礼を?」
「あなたが望むなら」
リリアは顔を上げた。
「しなくてもいいんですか?」
「古式の誓礼そのものが、あなたの意思を示す礼です」
サフィーヤは静かに言う。
「強制されて行うなら、意味がありません」
その答えを聞いて、リリアは少し考えた。
「……します」
「もう決めるの?」
「はい」
「なぜ?」
リリアは右腕を見る。
「私は、まだ黒百合のことをほとんど知りません」
それでも、さっきより自然に右の掌を開くことができた。
「でも、もう隠すつもりはありません」
掌を自分へ返す。
黒百合のある右腕を胸元へ。
左手を心臓へ添える。
「それに、私の意思は、私のものです」
右足を半歩引く。
今度は、膝を折りそうにはならなかった。
「皇帝陛下が、それを認める礼なら」
正面を見る。
一呼吸。
静かに視線を落とす。
「私も、皇帝陛下をヤシャラの皇帝として認める礼を返したいのです」
顔を上げる。
サフィーヤが、じっとリリアを見ていた。
「分かりました」
皇女の声には、リリアの選択を受け止める響きがあった。
◆
練習が終わり、サフィーヤが帰ったあと、リリアは回廊を歩いていた。
少し離れたところをファリダがついてくる。
庭へ続く回廊を曲がる。
冬の光が差し込んだその先に、低い石壁へ腰掛けている人影があった。
シリルだった。
「シリル」
「ん?」
振り返る。
「終わったのか」
「はい」
「どうだった?」
「難しかったです」
「だろうな」
「でも、面白かったです」
リリアは隣まで行った。
「皇帝陛下への礼も習いました」
「へえ」
「シリルは知っていますか?」
シリルの返事が、ほんの一瞬遅れた。
「古式のやつか?」
「はい」
「知ってる」
守り人なら知っていて当然なのかもしれない。
「不思議な礼ですね」
「何が」
「礼なのに、膝をつかないんです」
「そういう礼だからな」
「それから、黒百合は誰かへ差し出すものではなくて、自分と一緒にあるものなんですって」
シリルが黙った。
「心と意思も、自分のものだって」
今度は、シリルの返事がすぐには返ってこなかった。
「私、あの礼が好きです」
「……そうか」
「はい」
リリアは笑った。
シリルは何かを言いかけた。
けれど、
「なら、ちゃんと覚えろよ」
出てきたのは、それだけだった。
「覚えます」
「本番で転ぶなよ」
「転びません」
「緊張すると分かんないぞ」
「膝をつかない礼なのに、どうやったら転ぶんですか?」
「おまえは、膝までつきそうだからな」
リリアは眉を寄せた。
「つきません」
「さあな」
「シリル」
シリルが笑った。
冬の風が庭を吹き抜ける。
リリアの淡い紫の髪紐が、静かに揺れた。
◆
同じ頃、皇帝の執務室では、
「ファリダから報告が上がっております」
皇帝付き筆頭近侍のジャリール・ハルヴァーンが告げた。
短く整えた焦げ茶の髪に、灰褐色の瞳。細身の身体を濃紺の長衣に包み、目立つ装飾は身につけていない。
ナディルは書類から顔を上げた。
「何だ」
「昨日、守り人とローダンの騎士が、陛下の影だけではないことに気づいたそうです」
書類を押さえていたナディルの指が止まった。
「……思ったより早かったな」
何が早かったのか、ジャリールは尋ねなかった。
「場所は」
「昼食のあと、リリア様たちが戻られる途中の回廊です」
「こちらの影ではないと?」
「ファリダが確認しております」
ナディルは指を離した。
「ダルカーンは?」
「変わりありません」
「そうか」
ジャリールはわずかに間を置いた。
「第一皇后陛下のご実家も、黒百合の帰還には強い関心をお持ちのようです」
「ルキーヤの意向ではないな?」
問い返す声が、わずかに低くなった。
「はい。ダルカーン公爵家独自の動きと見ております」
「ならいい」
「止めますか」
「いや」
返答は早かった。
「見ているだけなら放っておけ」
「よろしいので?」
「あの家も、こちらが気づかないとは思ってないだろう」
ジャリールが小さく頷いた。
「承知いたしました」
ナディルは書類を一枚めくった。
「もう一つは」
ジャリールの返答までに、わずかな間があった。
「まだ所属を確認できておりません」
「ダルカーンの者ではない?」
「別です」
「祀院は」
「今のところ、結びつく動きは確認できておりません」
「前皇帝派」
「そちらも、まだ」
執務室に短い沈黙が落ちた。
「追うな」
「よろしいので?」
「追えば潜る」
ナディルは椅子の背へ身体を預けた。
「見えているうちに見ておけ。誰と接触し、どこへ戻るのか」
「御意」
「ただし」
声が低くなった。
「リリアたちへ直接手を出すなら止めろ」
「はい」
ジャリールが一礼する。
だが、ナディルはもう一つ付け加えた。
「それと、この件はリリアにも伝える」
「リリア様にも、ですか」
「ああ」
ナディルは机の上の書類を一枚めくった。
「自分に関わることは、自分にも知らせてほしいと言われた」
少し間を置く。
「俺も了承した」
「承知いたしました」
「ただ、今分かっているのは、我らのものではない影がいるということだけだ」
「はい」
「憶測まで伝える必要はない。確認できたことだけでいい」
「そのようにいたします」
ジャリールが扉へ向かう。
「待て」
足が止まった。
「ダルカーンの名は、まだ本人へ出さなくていい」
ジャリールが振り返る。
「よろしいのですか?」
「こちらも、まだ目的までは掴んでいない」
ナディルは一拍置いた。
「確かでないことまで、事実のように伝える必要はない」
「では、皇帝陛下のものではない監視があることだけを?」
「ああ。それと――」
わずかな間があった。
「一人で動くなと伝えろ」
ジャリールはすぐには答えなかった。
「……先日のやり取りを考えますと、その伝え方には注意が必要かと」
今度はナディルが黙った。
「リリア様には、保護と監禁を同じにしないでほしいと言われたのでしょう」
「……言われた」
「でしたら、『一人で動くな』では、陛下が以前と同じことをおっしゃっているように聞こえかねません」
ナディルの眉間に、わずかに皺が寄った。
「では、どう言う」
「監視者が確認されたという事実をお伝えします。その上で、相手の目的が判明するまでは、できるだけ護衛と行動していただきたい、と」
「……同じではないか」
「命令することと、理由を伝えて協力を求めることは違います」
ジャリールは淡々と答えた。
ナディルはしばらく何も言わなかった。
「おまえは時々、セイランより面倒だな」
「光栄です」
「褒めていない」
「存じております」
短い沈黙。
やがてナディルが息を吐いた。
「分かった。言い方は任せる」
「御意」
今度こそ、ジャリールが退出する。
扉が閉じた。
ナディルはしばらく手元の書類を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……来たばかりだというのにな」
リリアが皇都へ入って、まだ十日も経っていなかった。




