第三十三話 黒百合を迎える家々
◆
ファリダの取り次ぎで、一組の家族が進み出た。
リリアは杯を置き、顔を上げた。
壁際では、ヴィクトルが近くの通路を見ていた。
シリルも、こちらへ歩いてくる一団へ視線を向けている。
先頭に立つのは、五十歳に近い男だった。
黒髪には白いものが交じり、深緑の目が静かにリリアを見ている。
「アルザーン公爵、ハーリドにございます」
男が胸元へ手を添え、一礼した。
「皇太后陛下の弟にあたります」
「リリアです。お目にかかれて光栄です」
ハーリドの後ろには、三人の息子が並んでいた。
まず、嫡男が父の隣へ進み出て名乗った。
落ち着いた声で歓迎の言葉を述べ、礼をする。
「こちらは次男のアーディル。ナシーラ殿下との婚約を賜っております」
リリアは、その顔を見た。
姿勢を正した、礼儀正しい青年だった。
頭を上げた時、こちらと目が合い、彼は改めて会釈した。
「ナシーラ殿下には、親しくしていただいています」
リリアが言うと、アーディルの表情が少し和らいだ。
「そうでしたか。殿下も、お喜びでしょう」
ナシーラは、この人の前ではどんなふうに話すのだろう。
尋ねてみたくなったが、ハーリドが言葉を続けた。
「ヤシャラへお越しになったことを、当家として歓迎いたします。滞在の間、私どもにできることがございましたら、お申しつけください」
「ありがとうございます。まだ、分からないことが多くて」
「急ぐことはございません」
そこへ三男が、一歩前へ出た。
「ザインと申します。都のことでしたら、私にもご案内できる場所がございます」
兄たちより若く、人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。
「南の市場などは、いかがでしょう。香草を扱う店も多いのですよ」
「香草も?」
リリアは思わず尋ねた。
「ええ。食用のものから、香り袋に使うものまで。店によって品も違います」
「それは、見てみたいです」
「では、機会がございましたら、ぜひ」
答えかけて、リリアはファリダを見た。
「お出かけについては、第一随衛を通してご相談いただいています」
ファリダが穏やかに告げると、ザインはそちらへも礼をした。
「承知しました。その折には、改めて」
ハーリドは、それ以上申し出を重ねなかった。
一家が一礼して下がっていく。
リリアは、その先に皇太后サミラの姿を見つけた。
サミラは弟たちへ目を向けていたが、やがてリリアを見た。
目が合うと、穏やかな笑みが返ってきた。
リリアも、小さく会釈した。
◆
「お水は足りていますか?」
ファリダが小声で尋ねた。
「はい。まだあります」
返事をしたところで、次の二人が進み出た。
深い青の衣をまとった年配の男と、その隣に立つ男。
胸元には、ダルカーン公爵家の紋があった。
「ダルカーン公爵、サリームでございます。こちらは嫡男のザーヒルです」
サリームが礼をし、ザーヒルも続いた。
「お目にかかれて光栄です、リリア様」
リリアも名乗り、礼を返した。
ルキーヤの父と兄。
そう思って見ると、二人とも目元に似たところがあった。
「第一皇后陛下から、馬場へお越しになったと伺っております」
サリームが言った。
「はい。皇后陛下に誘っていただきました」
「乗馬は、お楽しみになれましたか」
「はい。旅の時とは違って、ゆっくり馬に乗ることができました」
「それは何よりです。皇宮の馬場には、よく慣らされた馬が揃っておりますから」
「また、乗ってみたいと思っています」
「皇后陛下も、お喜びになるでしょう」
サリームは、ルキーヤの席へ目を向けた。
リリアもそちらを見ると、彼女が微笑んでいた。
ザーヒルが言葉を継ぐ。
「当家へご用がございましたら、第一皇后陛下を通じてお知らせください。こちらから何かお願いする折にも、同じようにいたします」
「分かりました。ありがとうございます」
サリームはヤシャラでの滞在を歓迎すると述べ、息子とともに下がった。
リリアは二人を見送ってから、もう一度ルキーヤへ会釈した。
◆
次に現れたのは、女性だった。
銀を帯びた黒髪を整え、深い紫の長衣をまとっている。
そばには、落ち着いた身なりの男性がいた。
「ヴァルザード侯爵、ナウラと申します。第二皇后陛下の姉にあたります」
女性は堂々と名乗った。
「こちらは夫のイドリスでございます」
イドリスも胸元へ手を添え、礼をする。
「お目にかかれて光栄です」
リリアは二人へ礼を返した。
ナウラは、メフリナよりずっときっぱりした話し方をする人だった。
「第二皇后陛下には、書庫でお世話になっています」
「そう伺っております。皇后陛下は、幼い頃から読書を好まれておいででした」
「訳していただいてばかりですが、少しずつ読めるようになりたいです」
「では、いずれご自身で本を選ぶ楽しみも増えますね」
リリアは頷いた。
「今も、読みたいものが多くて。時間が足りなくなることがあります」
ナウラの口元に笑みが浮かんだ。
「私も覚えがございます。あと一頁と思っているうちに、ずいぶん時間が過ぎてしまうのですよね」
「お茶がすっかり冷めていることもございますね」
イドリスが静かに添えた。
ナウラが夫を見る。
「あなたも、その冷めたお茶を飲んでいるでしょう」
「私まで読み始めてしまいますので」
リリアは笑ってしまった。
ナウラも口元を緩め、メフリナの席へ目を向けた。
メフリナが姉を見返す。
短く視線を交わしたあと、ナウラはこちらへ向き直った。
「当家にも古い書物がございます。整理の済んでいないものもありますが、お役に立つものが見つかりましたら、第二皇后陛下を通じてお知らせいたしましょう」
「ありがとうございます。黒百合について書かれたものも、あるのでしょうか」
「あるかもしれません。ただ、私自身がすべてに目を通したわけではございませんので」
「では、分かりましたら教えていただけますか。どのような本なのか、知りたいです」
「ええ。まず、書目を確かめさせます」
ナウラは答えた。
「いずれ、ゆっくりお話しできる機会があればと存じます」
「お知らせを、お待ちしています」
ナウラとイドリスは一礼し、元の席へ戻っていった。
◆
挨拶の列が、一度途切れた。
リリアは杯へ手を伸ばした。
アルザーン公爵家。
ダルカーン公爵家。
ヴァルザード侯爵家。
顔と名前を結びつけようとすると、途中で混ざりそうになる。
「お名前は、あとで確かめられますか?」
ファリダへ小声で尋ねた。
「ええ。出席者の名簿がございます」
「よかった。失礼のないように覚えたいのですが、少し自信がなくて」
「今夜、一度で覚える必要はありません」
ファリダは、次に待っている者へ目を向けた。
「ローダン王国の使節が、ご挨拶を希望されています」
リリアは杯を置いた。
「ローダンの……」
「お通ししても?」
「はい」
◆
濃紺の礼装をまとった年配の男が、席の前で止まった。
「ローダン王国国王陛下の名代として参りました。使節、アルベルト・ヴァレンシュタイン伯爵にございます」
聞き慣れた言葉で、ローダン式の名乗りが続く。
リリアは、彼の胸元の飾章へ目を向けた。
「リリアです。お目にかかれて光栄です」
アルベルトが深く頭を下げた。
「アン・ローゼンベルク嬢の近況について、お伝えできることがございます。お聞きになりますか?」
リリアの指が止まった。
「アン様のことを、ご存じなのですか?」
「はい。近況の報告を受けております」
「お願いします」
アルベルトは顔を上げた。
「私の出立後に届いた報告では、アン嬢は回復され、侯爵邸で日常の生活へ戻っておられます」
「……本当ですか?」
「はい。そのように報告を受けております」
リリアは胸元へ手を添えた。
「いつの報告でしょうか」
アルベルトは報告の日付を告げた。
「こちらへ届いたのは、三日前です」
リリアは、その日付を頭の中で繰り返した。
「そうですか……よかった」
胸元の手を、すぐには下ろせなかった。
アルベルトは、その間、何も言わずに待っていた。
「教えてくださって、ありがとうございます」
リリアが顔を上げると、彼は頷いた。
「ローゼンベルク侯爵家については、調査が続いております。今夜、私からお伝えできるのは、ここまでです」
リリアは唇を開きかけ、閉じた。
聞きたいことは、山のようにあった。
屋敷の人たちは、今どうしているのだろう。
けれど、アルベルトは言葉を足さなかった。
「分かりました」
リリアは答えた。
◆
アルベルトが下がる前に、リリアはもう一つ尋ねた。
「私は、ローダンへ戻るように言われるのでしょうか」
「私は、あなたの帰国を求める命を帯びてはおりません」
リリアは、彼の顔を見た。
「今は、ということですか?」
「今後のことまで、私からお約束することはできません」
アルベルトは言葉を切った。
「正式な要請がある場合は、ヤシャラ側へ文書で伝えられます。その先の手続きについては、私の一存で申し上げられません」
リリアは少し考えた。
「私のことをお話しする時には、私にも、何が話されているのか教えていただきたいです」
アルベルトの目が、そばに控えるファリダへ向いた。
すぐにリリアへ戻る。
「そのご希望は、確かに伝えます」
「お願いします」
答えてから、リリアは膝の上へ手を戻した。
アルベルトは改めて一礼し、下がっていった。
◆
そのあとにも、何人かが挨拶に来た。
リリアは名乗りを聞き、顔を上げて礼を返した。
時折、言葉がすぐに出てこなくなる。
そんな時は一度息を継ぎ、分からなければファリダへ尋ねた。
すべてが終わる頃には、背中が張っていた。
次の人が来ないことを確かめてから、そっと肩を下ろす。
サフィーヤが席へ来た。
「少し、休めそうね」
「はい」
リリアは、ほっとして答えた。
「疲れた?」
「はい。でも、アン様がお元気だと伺えました」
「ローダンの使節から?」
「はい。侯爵邸で、普段の生活に戻っていらっしゃるそうです」
もう一度口にすると、ようやく安心できた。
「それは、よい知らせだったわね」
「はい」
◆
少し休んでから、リリアはサフィーヤへ尋ねた。
「今日お会いした方のほかにも、私に会いたいという方はいらっしゃるのでしょうか」
「申し出はあるわ。都の商人の組合や、職人たちの代表からも」
「街の方たちですか?」
「ええ。ただ、いつ、どのような形にするかは、まだ決めていないの。あなたにも相談してからにするわ」
リリアは頷いた。
「どんなお話をしたいのかも、先に教えていただけますか?」
「もちろん。今日の疲れが取れてから、申し出を一緒に見ましょう」
「お願いします」
サフィーヤは卓上の皿へ目を向けた。
「あまり食べられなかったでしょう。何か持ってこさせる?」
そう言われて、リリアは菓子一つも取っていなかったことに気づいた。
「少し、いただきたいです」
「では、選んで」
差し出された皿には、蜜をかけた小さな焼き菓子が並んでいた。
リリアは一つ取り、口へ運んだ。
香ばしい生地がほろりと崩れ、甘さが広がった。
◆
宴の終わりが告げられた。
リリアは、ファリダの合図を確かめて席を立つ。
広間へ入ってきた時と同じ道を、今度は出口へ向かって歩いた。
覚えなければならない名前が、幾つもある。
母の記録についての返事も、待っている。
ローダンの使節へ伝えた希望がどう扱われるのかも、まだ分からない。
扉を出たところで、ヴィクトルとシリルが合流した。
「お疲れさまでした」
ヴィクトルが声をかける。
リリアは二人を見て、真っ先に言った。
「アン様が、回復されてたそうです」
二人の顔がこちらへ向く。
「普段の生活に戻っていらっしゃると、ローダンの使節の方が教えてくださいました」
「……そうですか」
ヴィクトルが息を吐いた。
シリルも、短く頷いた。
「よかったな」
「はい」
歩き出すと、広間の楽が背後へ遠ざかっていった。
リリアは、まだ胸に残っている知らせを思った。
部屋へ戻ったら、忘れないうちに書いておこう。
報告の日付と、使節がそれを受け取った日。
そして、アンが元気だと知って、嬉しかったことも。




