↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/32

第三十二話 花に道を、御代に朝を

◆


 リリアの前には、五つの髪飾りが並んでいた。


 白い花をかたどった銀細工。


 淡紫の石。


 赤い石。


 青い石。


 そして、黒銀の細工に小さな紫石をあしらったもの。


「決まりましたか?」


 後ろからファリダが尋ねた。


 リリアは黒銀の髪飾りを手に取った。


「今日は、これにします」


「では、お留めしますね」


 黒髪の上の方をまとめ、飾りを挿す。


 鏡の中で顔を動かすと、小さな紫石が灯りを返した。


 衣は、白に近い薄灰を基調とした長衣だった。


 襟と裾には、黒と紫の糸で細い花模様が刺繍されている。


 右袖には開きを設けてあり、留め具を外せば、腕を無理なく示せる仕立てになっていた。


「袖は、昨日確かめた通りに?」


「はい。お願いします」


 ファリダが留め具を外し、布を整える。


 黒百合の痣が現れた。


 リリアは鏡越しに、自分の右腕を見た。


 人前で袖を直す時には、いつも痣が見えないかを気にしていた。


 今日は、隠さないと決めた。


 指先で袖の縁へ触れ、それから手を下ろす。


「引っかかりませんか?」


 ファリダに尋ねられ、右腕を上げてみた。


「大丈夫です」


「では、参りましょう」


 リリアは椅子から立ち上がった。


◆


 大広間へ続く回廊には、楽の音が流れていた。


 低い弦の響きに、乾いた太鼓の音が重なる。


 扉の向こうから、人の話す声も聞こえていた。


「……昨日より怖いです」


「昨日は誰もいなかったからな」


 シリルの声に振り返る。


 ヴィクトルもシリルも、今日は正装だった。


 ヴィクトルは濃紺の礼装。


 シリルは深い灰色の長衣をまとっている。


「お二人とも、よく似合っています」


「ありがとうございます」


 ヴィクトルが微笑んだ。


 シリルは自分の袖を見た。


「慣れない」


「動きにくいんですか?」


「思ったほどじゃない」


「それなら、よかったです」


 リリアが答えると、シリルは彼女の右腕へ一度目を向けた。


 何も言わず、顔へ視線を戻す。


「挨拶は?」


「覚えました。でも、途中で分からなくなったら……」


「ゆっくりで構いません」


 ヴィクトルが言った。


「昨日も、言い直せていましたから」


 昨日、読み上げる途中で一行飛ばした。


 気づいて戻ると、サフィーヤは急かさず、続きを待ってくれた。


 リリアは、最初の言葉を胸の内で繰り返した。


「リリアさん」


 ファリダが声をかけた。


「私たちは、先に持ち場へ入ります。扉のところまでは、こちらの女官がご案内します」


 そばにいた女官が一礼する。


 リリアも会釈を返した。


「お願いします」


 ヴィクトルが姿勢を正す。


「では、中で」


「はい」


 シリルも広間へ向かいかけ、振り返った。


「足元ばかり見るなよ」


「転ばないように見ているんです」


「前も見ろ」


「分かっています」


 リリアが答えると、彼の口元が少し緩んだ。


 三人の姿が扉の向こうへ消える。


 リリアは両手を一度握り、ほどいた。


◆


 名を告げる声が響いた。


 扉が開く。


 色硝子の灯が、大広間を照らしていた。


 昨日は空いていた席に、人が並んでいる。


 各家の紋をつけた長衣。


 金糸の刺繍。


 外国使節の見慣れない装束。


 白と紫をまとった、祀院の者たち。


 楽の音が静まり、視線がこちらへ集まった。


 リリアは歩き出した。


 入口から、青い敷物に沿って進む。


 衣の擦れる音が、自分のすぐ近くで聞こえた。


 顔を上げると、奥にナディルがいる。


 その近くにはルキーヤとメフリナ、サフィーヤ。


 セイランの姿も見えた。


 目印にしていた柱を探す。


 ヴィクトルがいた。


 反対側には、シリル。


 二人とも、昨日確かめた場所に立っている。


 リリアは正面へ向き直った。


 定められたところから三歩進み、止まる。


 ナディルが立ち上がった。


◆


 リリアは半歩退き、右掌を示した。


 袖の開きから、黒百合の痣が見える。


 掌を自分へ返し、左手を胸元へ添えた。


 膝はつかず、深く腰を折ることもせず、視線だけを伏せる。


 広間のどこかで、衣擦れがした。


 ナディルの声が届く。


「花に道を」


 リリアは息を整えた。


「御代に朝を」


 両手を下ろし、顔を上げる。


 ナディルが、わずかに頷いた。


「リリア。皆に、言葉を」


「はい」


 最初の一文は、昨日もこの広間で読んだ。


 リリアは、手前の席だけでなく、その向こうへも顔を向けた。


「皆様にお会いできましたことを、嬉しく思います」


 声が少し細くなった。


 一度息を継ぎ、続ける。


「私は、リリアと申します。ヤシャラへ来てから、多くの方に助けていただきました。今は、この国の言葉や、黒百合について学んでいます」


 手元に紙はない。


 何度も書き直した文字を思い浮かべながら、顔を上げたまま話した。


「まだ、知らないことばかりです。けれど、自分で知り、考えていきたいと思っています」


 奥の席にいた年配の女性と、目が合った。


 その人は胸元へ手を添え、静かに聞いていた。


「どうぞ、よろしくお願いいたします」


 最後まで言えた。


 ナディルが広間を見渡す。


「黒百合の巫女、リリアを迎える。ヤシャラでの日々が、実りあるものとなることを願う」


 いくつもの席で、頭が下げられた。


 リリアは教わった返礼をし、自分の席へ向かった。


◆


 椅子の前で、衣の裾を整える。


 昨日より、人の顔が近かった。


 こちらを見ている者もいれば、隣席へ何かを囁く者もいる。


 リリアは腰を下ろした。


 ナディルも席へ戻る。


 杯が上げられ、楽の音が再び広間を満たした。


 膝の上へ手を置くと、指先がかすかに震えていた。


 けれど、挨拶は終わった。


 顔を向けると、サフィーヤがこちらを見ていた。


 目が合い、微笑みが返ってくる。


 リリアも、小さく笑った。


◆


 料理が運ばれ、卓の間を給仕の者たちが行き来し始めた。


 帰還祝いの小広間とは、聞こえる声の数が違う。


 杯や銀器が触れる音も、あちらこちらから重なってくる。


 リリアが飲み物を一口含んだところで、ファリダがそばへ来た。


「ご挨拶を希望される方がいらっしゃいます。よろしいですか?」


「はい」


 最初に進み出たのは、地方の領主だった。


 その次は高官。


 外国の使節からは、通訳を介して言葉を受けた。


「ヤシャラへお戻りになったこと、心よりお祝い申し上げます」


 何人かが、そう言った。


 リリア自身には、この国で暮らした記憶がない。


 それでも、彼らは「戻った」と言う。


 そのたびに礼を返し、名乗られた名前を覚えようとした。


 年配の女性が、挨拶のあとで言った。


「先ほどのお言葉、よく聞こえました」


「……ありがとうございます」


 リリアが答えると、その人は一礼して下がっていった。


 少しだけ、次の相手の顔を見る余裕ができた。


◆


 白と紫の長衣が近づいてくる。


 リリアは杯を置いた。


 ファリダが、すぐそばで告げる。


「祀院中央の代表、マフーラ殿です」


 進み出たのは、五十代ほどの女性だった。


 銀の交じった黒髪を後ろでまとめ、装飾品はほとんど身につけていない。


 随行する二人は、少し離れたところで足を止めた。


 マフーラが胸元へ手を添え、深く頭を下げる。


 リリアは座ったまま、それを受けた。


「祀院中央評議会より参りました、マフーラと申します」


「リリアです」


 声に力が入った。


 マフーラは顔を上げ、リリアを見た。


「まず、先の事件について、お詫びを申し上げたく存じます」


 リリアは膝の上で手を重ねた。


「祀院に属する者が、ローゼンベルク家のご令嬢を攫い、あなたの意思に反して黒百合の力を利用しようとしました。あなたと、巻き込まれた方々に苦痛を与えたことを、祀院を代表してお詫び申し上げます」


 再び、頭が下げられた。


 リリアは、すぐには答えられなかった。


 大丈夫です、と言えば、相手は顔を上げられる。


 いつもの癖で、その言葉が出かけた。


 けれど、石床に描かれた輪を思い出した。


 アンへ手を伸ばせば、黒百合の力を利用される。


 それでも、あの子を置いてはいけなかった。


「アン様は、とても怖い思いをしました」


 マフーラが顔を上げる。


「髪も切られました。私を呼ぶために、あの子が使われました」


「はい」


「アン様のお気持ちは、私には決められません。でも、私も……あの時のことを、まだ許せません」


 近くの卓で、話し声が途切れたように感じた。


 リリアはマフーラから目を逸らさなかった。


 女性は、静かに頭を下げた。


「今、お許しを求めるつもりはございません。関与した者を調べ、何が行われたか明らかにする必要があると考えております」


 リリアはその言葉を聞いた。


 どこまで調べ、何を明らかにするのか。


 それは、これから確かめなければならなかった。


◆


 ファリダが椅子のそばへ半歩近づいた。


「続きは、別の席にいたしますか?」


 リリアは一度、彼女を見た。


 それからマフーラへ顔を戻す。


「もう一つだけ、ここでお聞きしたいです」


 マフーラが頷いた。


「伺います」


「あなたは、私が祀院で管理されるべきだと思っていますか?」


 マフーラの背後に控えていた一人が、顔を上げた。


 答えは、すぐには返らなかった。


「祀院の中には、そう考える者がおります」


「あなたも、ですか?」


「私は、祀院が一方的に、あなたの居場所を決めるべきではないと考えております」


「祀院へ行かないと、私が決めても?」


「はい」


 リリアは、握っていた指を緩めた。


 マフーラが付け加える。


「ただ、私一人の言葉で、祀院のすべてをお約束することはできません」


「……分かりました」


 マフーラは一度、ファリダへ目を向けた。


「別に、お取り次ぎをお願いしたいことがございます」


「どのようなご用件でしょうか」


「ご家族に関わる記録についてです。この席で内容を申し上げるべきではないと考え、お話しする機会をいただければと」


 リリアは顔を上げた。


「……母のことですか?」


 マフーラはリリアを見た。


「はい。ミレナ様についてです」


「母の記録が、あるんですか」


「ございます」


「どんな記録ですか?」


 椅子から身を乗り出しかけたところで、リリアは手を止めた。


 近くには、ほかの人もいる。


 マフーラも、それ以上は話さずに待っていた。


「……詳しいことは、別の時に伺います」


 リリアは言った。


「でも、私が見ることのできる記録なのか、それだけ教えてください」


「私の権限だけで、閲覧を認めることはできません。ただ、あなたからのご希望として、中央評議会へ正式に求めることはできます」


「祀院へ入ることが、条件になりますか?」


「そのような条件を付けずに、閲覧を求めます」


 リリアは、胸の中でその言葉を確かめた。


「お願いします。母の記録を見たいです」


「承りました」


「お返事は、ファリダさんを通していただけますか?」


 ファリダが頷いた。


「お預かりします」


 リリアはマフーラへ向き直った。


「見せられないものがあるなら、その理由も教えていただきたいです」


「そのご希望も、お伝えします」


 マフーラは胸元へ手を添え、一礼した。


◆


 白と紫の長衣が、席から離れていく。


 リリアはその背を見送った。


「少し、お休みになりますか?」


 ファリダの声で、顔を上げる。


 次に挨拶へ来ようとしていた者が、離れたところで待っていた。


「はい。少しだけ」


「では、しばらくお待ちいただきます」


 ファリダが係の者へ伝えに行く。


 リリアは飲み物を一口含んだ。


 母の記録。


 祀院に残されたミレナの記録。


 何が書かれているのだろう。


 母が何を話し、どんなふうに暮らしていたのか。今まで聞けなかったことが、そこにあるのだろうか。


 祀院の席へ目を向けると、マフーラが随行してきた者と話していた。


 駆け寄って、続きを尋ねたい。


 けれど、今は返事を待つことになった。


 ファリダが戻ってくる。


「今のお話、あとで一緒に確かめていただけますか」


「もちろんです」


「条件を付けずに、閲覧を求めてくださる。そうおっしゃったんですよね」


「はい。ただ、閲覧が認められたというお返事ではありません」


「……はい」


 リリアは杯を置いた。


「それでも、お願いできました」


 ファリダが静かに頷く。


 広間の奥では、ナディルがこちらへ目を向けていた。


 その近くには、セイランもいる。


 壁際を見れば、ヴィクトルとシリルも、教えてくれた場所にいた。


 リリアは姿勢を直し、ファリダへ顔を向けた。


「もう、大丈夫です。次の方をお願いします」


 母のことは、改めて聞く。


 今は、こちらへ歩いてくる人の名を、聞き取ろうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。