第三十二話 花に道を、御代に朝を
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リリアの前には、五つの髪飾りが並んでいた。
白い花をかたどった銀細工。
淡紫の石。
赤い石。
青い石。
そして、黒銀の細工に小さな紫石をあしらったもの。
「決まりましたか?」
後ろからファリダが尋ねた。
リリアは黒銀の髪飾りを手に取った。
「今日は、これにします」
「では、お留めしますね」
黒髪の上の方をまとめ、飾りを挿す。
鏡の中で顔を動かすと、小さな紫石が灯りを返した。
衣は、白に近い薄灰を基調とした長衣だった。
襟と裾には、黒と紫の糸で細い花模様が刺繍されている。
右袖には開きを設けてあり、留め具を外せば、腕を無理なく示せる仕立てになっていた。
「袖は、昨日確かめた通りに?」
「はい。お願いします」
ファリダが留め具を外し、布を整える。
黒百合の痣が現れた。
リリアは鏡越しに、自分の右腕を見た。
人前で袖を直す時には、いつも痣が見えないかを気にしていた。
今日は、隠さないと決めた。
指先で袖の縁へ触れ、それから手を下ろす。
「引っかかりませんか?」
ファリダに尋ねられ、右腕を上げてみた。
「大丈夫です」
「では、参りましょう」
リリアは椅子から立ち上がった。
◆
大広間へ続く回廊には、楽の音が流れていた。
低い弦の響きに、乾いた太鼓の音が重なる。
扉の向こうから、人の話す声も聞こえていた。
「……昨日より怖いです」
「昨日は誰もいなかったからな」
シリルの声に振り返る。
ヴィクトルもシリルも、今日は正装だった。
ヴィクトルは濃紺の礼装。
シリルは深い灰色の長衣をまとっている。
「お二人とも、よく似合っています」
「ありがとうございます」
ヴィクトルが微笑んだ。
シリルは自分の袖を見た。
「慣れない」
「動きにくいんですか?」
「思ったほどじゃない」
「それなら、よかったです」
リリアが答えると、シリルは彼女の右腕へ一度目を向けた。
何も言わず、顔へ視線を戻す。
「挨拶は?」
「覚えました。でも、途中で分からなくなったら……」
「ゆっくりで構いません」
ヴィクトルが言った。
「昨日も、言い直せていましたから」
昨日、読み上げる途中で一行飛ばした。
気づいて戻ると、サフィーヤは急かさず、続きを待ってくれた。
リリアは、最初の言葉を胸の内で繰り返した。
「リリアさん」
ファリダが声をかけた。
「私たちは、先に持ち場へ入ります。扉のところまでは、こちらの女官がご案内します」
そばにいた女官が一礼する。
リリアも会釈を返した。
「お願いします」
ヴィクトルが姿勢を正す。
「では、中で」
「はい」
シリルも広間へ向かいかけ、振り返った。
「足元ばかり見るなよ」
「転ばないように見ているんです」
「前も見ろ」
「分かっています」
リリアが答えると、彼の口元が少し緩んだ。
三人の姿が扉の向こうへ消える。
リリアは両手を一度握り、ほどいた。
◆
名を告げる声が響いた。
扉が開く。
色硝子の灯が、大広間を照らしていた。
昨日は空いていた席に、人が並んでいる。
各家の紋をつけた長衣。
金糸の刺繍。
外国使節の見慣れない装束。
白と紫をまとった、祀院の者たち。
楽の音が静まり、視線がこちらへ集まった。
リリアは歩き出した。
入口から、青い敷物に沿って進む。
衣の擦れる音が、自分のすぐ近くで聞こえた。
顔を上げると、奥にナディルがいる。
その近くにはルキーヤとメフリナ、サフィーヤ。
セイランの姿も見えた。
目印にしていた柱を探す。
ヴィクトルがいた。
反対側には、シリル。
二人とも、昨日確かめた場所に立っている。
リリアは正面へ向き直った。
定められたところから三歩進み、止まる。
ナディルが立ち上がった。
◆
リリアは半歩退き、右掌を示した。
袖の開きから、黒百合の痣が見える。
掌を自分へ返し、左手を胸元へ添えた。
膝はつかず、深く腰を折ることもせず、視線だけを伏せる。
広間のどこかで、衣擦れがした。
ナディルの声が届く。
「花に道を」
リリアは息を整えた。
「御代に朝を」
両手を下ろし、顔を上げる。
ナディルが、わずかに頷いた。
「リリア。皆に、言葉を」
「はい」
最初の一文は、昨日もこの広間で読んだ。
リリアは、手前の席だけでなく、その向こうへも顔を向けた。
「皆様にお会いできましたことを、嬉しく思います」
声が少し細くなった。
一度息を継ぎ、続ける。
「私は、リリアと申します。ヤシャラへ来てから、多くの方に助けていただきました。今は、この国の言葉や、黒百合について学んでいます」
手元に紙はない。
何度も書き直した文字を思い浮かべながら、顔を上げたまま話した。
「まだ、知らないことばかりです。けれど、自分で知り、考えていきたいと思っています」
奥の席にいた年配の女性と、目が合った。
その人は胸元へ手を添え、静かに聞いていた。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
最後まで言えた。
ナディルが広間を見渡す。
「黒百合の巫女、リリアを迎える。ヤシャラでの日々が、実りあるものとなることを願う」
いくつもの席で、頭が下げられた。
リリアは教わった返礼をし、自分の席へ向かった。
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椅子の前で、衣の裾を整える。
昨日より、人の顔が近かった。
こちらを見ている者もいれば、隣席へ何かを囁く者もいる。
リリアは腰を下ろした。
ナディルも席へ戻る。
杯が上げられ、楽の音が再び広間を満たした。
膝の上へ手を置くと、指先がかすかに震えていた。
けれど、挨拶は終わった。
顔を向けると、サフィーヤがこちらを見ていた。
目が合い、微笑みが返ってくる。
リリアも、小さく笑った。
◆
料理が運ばれ、卓の間を給仕の者たちが行き来し始めた。
帰還祝いの小広間とは、聞こえる声の数が違う。
杯や銀器が触れる音も、あちらこちらから重なってくる。
リリアが飲み物を一口含んだところで、ファリダがそばへ来た。
「ご挨拶を希望される方がいらっしゃいます。よろしいですか?」
「はい」
最初に進み出たのは、地方の領主だった。
その次は高官。
外国の使節からは、通訳を介して言葉を受けた。
「ヤシャラへお戻りになったこと、心よりお祝い申し上げます」
何人かが、そう言った。
リリア自身には、この国で暮らした記憶がない。
それでも、彼らは「戻った」と言う。
そのたびに礼を返し、名乗られた名前を覚えようとした。
年配の女性が、挨拶のあとで言った。
「先ほどのお言葉、よく聞こえました」
「……ありがとうございます」
リリアが答えると、その人は一礼して下がっていった。
少しだけ、次の相手の顔を見る余裕ができた。
◆
白と紫の長衣が近づいてくる。
リリアは杯を置いた。
ファリダが、すぐそばで告げる。
「祀院中央の代表、マフーラ殿です」
進み出たのは、五十代ほどの女性だった。
銀の交じった黒髪を後ろでまとめ、装飾品はほとんど身につけていない。
随行する二人は、少し離れたところで足を止めた。
マフーラが胸元へ手を添え、深く頭を下げる。
リリアは座ったまま、それを受けた。
「祀院中央評議会より参りました、マフーラと申します」
「リリアです」
声に力が入った。
マフーラは顔を上げ、リリアを見た。
「まず、先の事件について、お詫びを申し上げたく存じます」
リリアは膝の上で手を重ねた。
「祀院に属する者が、ローゼンベルク家のご令嬢を攫い、あなたの意思に反して黒百合の力を利用しようとしました。あなたと、巻き込まれた方々に苦痛を与えたことを、祀院を代表してお詫び申し上げます」
再び、頭が下げられた。
リリアは、すぐには答えられなかった。
大丈夫です、と言えば、相手は顔を上げられる。
いつもの癖で、その言葉が出かけた。
けれど、石床に描かれた輪を思い出した。
アンへ手を伸ばせば、黒百合の力を利用される。
それでも、あの子を置いてはいけなかった。
「アン様は、とても怖い思いをしました」
マフーラが顔を上げる。
「髪も切られました。私を呼ぶために、あの子が使われました」
「はい」
「アン様のお気持ちは、私には決められません。でも、私も……あの時のことを、まだ許せません」
近くの卓で、話し声が途切れたように感じた。
リリアはマフーラから目を逸らさなかった。
女性は、静かに頭を下げた。
「今、お許しを求めるつもりはございません。関与した者を調べ、何が行われたか明らかにする必要があると考えております」
リリアはその言葉を聞いた。
どこまで調べ、何を明らかにするのか。
それは、これから確かめなければならなかった。
◆
ファリダが椅子のそばへ半歩近づいた。
「続きは、別の席にいたしますか?」
リリアは一度、彼女を見た。
それからマフーラへ顔を戻す。
「もう一つだけ、ここでお聞きしたいです」
マフーラが頷いた。
「伺います」
「あなたは、私が祀院で管理されるべきだと思っていますか?」
マフーラの背後に控えていた一人が、顔を上げた。
答えは、すぐには返らなかった。
「祀院の中には、そう考える者がおります」
「あなたも、ですか?」
「私は、祀院が一方的に、あなたの居場所を決めるべきではないと考えております」
「祀院へ行かないと、私が決めても?」
「はい」
リリアは、握っていた指を緩めた。
マフーラが付け加える。
「ただ、私一人の言葉で、祀院のすべてをお約束することはできません」
「……分かりました」
マフーラは一度、ファリダへ目を向けた。
「別に、お取り次ぎをお願いしたいことがございます」
「どのようなご用件でしょうか」
「ご家族に関わる記録についてです。この席で内容を申し上げるべきではないと考え、お話しする機会をいただければと」
リリアは顔を上げた。
「……母のことですか?」
マフーラはリリアを見た。
「はい。ミレナ様についてです」
「母の記録が、あるんですか」
「ございます」
「どんな記録ですか?」
椅子から身を乗り出しかけたところで、リリアは手を止めた。
近くには、ほかの人もいる。
マフーラも、それ以上は話さずに待っていた。
「……詳しいことは、別の時に伺います」
リリアは言った。
「でも、私が見ることのできる記録なのか、それだけ教えてください」
「私の権限だけで、閲覧を認めることはできません。ただ、あなたからのご希望として、中央評議会へ正式に求めることはできます」
「祀院へ入ることが、条件になりますか?」
「そのような条件を付けずに、閲覧を求めます」
リリアは、胸の中でその言葉を確かめた。
「お願いします。母の記録を見たいです」
「承りました」
「お返事は、ファリダさんを通していただけますか?」
ファリダが頷いた。
「お預かりします」
リリアはマフーラへ向き直った。
「見せられないものがあるなら、その理由も教えていただきたいです」
「そのご希望も、お伝えします」
マフーラは胸元へ手を添え、一礼した。
◆
白と紫の長衣が、席から離れていく。
リリアはその背を見送った。
「少し、お休みになりますか?」
ファリダの声で、顔を上げる。
次に挨拶へ来ようとしていた者が、離れたところで待っていた。
「はい。少しだけ」
「では、しばらくお待ちいただきます」
ファリダが係の者へ伝えに行く。
リリアは飲み物を一口含んだ。
母の記録。
祀院に残されたミレナの記録。
何が書かれているのだろう。
母が何を話し、どんなふうに暮らしていたのか。今まで聞けなかったことが、そこにあるのだろうか。
祀院の席へ目を向けると、マフーラが随行してきた者と話していた。
駆け寄って、続きを尋ねたい。
けれど、今は返事を待つことになった。
ファリダが戻ってくる。
「今のお話、あとで一緒に確かめていただけますか」
「もちろんです」
「条件を付けずに、閲覧を求めてくださる。そうおっしゃったんですよね」
「はい。ただ、閲覧が認められたというお返事ではありません」
「……はい」
リリアは杯を置いた。
「それでも、お願いできました」
ファリダが静かに頷く。
広間の奥では、ナディルがこちらへ目を向けていた。
その近くには、セイランもいる。
壁際を見れば、ヴィクトルとシリルも、教えてくれた場所にいた。
リリアは姿勢を直し、ファリダへ顔を向けた。
「もう、大丈夫です。次の方をお願いします」
母のことは、改めて聞く。
今は、こちらへ歩いてくる人の名を、聞き取ろうと思った。




