第三十一話 黒百合の席
◆
「右ではなく、左です」
「あ」
リリアは出しかけた右足を戻した。
サフィーヤが笑う。
「もう一度」
「はい」
大広間へ続く回廊。
リリアは同じ場所まで戻り、歩き直した。
扉の前で止まる。
名を呼ばれ、三歩進む。
立ち止まって、一礼。
そこから左へ。
「今度は合っているわ」
「よかった……」
「まだ入口よ」
「……はい」
リリアは小さく息を吐いた。
後ろにいたファリダが口元を押さえる。
「ファリダさん」
「何でしょう」
「笑っています」
「今度は間違えずに進めましたね」
「ごまかしましたね」
サフィーヤまで笑った。
帰還祝いの食事から、数日が過ぎていた。
サフィーヤと市場の地図を広げ、セイランから山羊の話を聞いた。
その合間に、知らない言葉を教わりながら挨拶を書き、何度も読み直した。
正式な宴は、いよいよ明日だった。
◆
大広間では、朝から準備が進んでいた。
長い卓が運び込まれ、床には深い青の敷物が広げられている。
壁際では、女官たちが銀器を確かめていた。
高い天井から下がる色硝子の灯には、まだ火が入っていない。
それでも、帰還祝いの小広間とはまるで違った。
奥にある皇帝の席まで、ずいぶんと距離がある。
「ここが、人でいっぱいになるんですね」
「ええ。明日は飾りも入るから、また違って見えると思うわ」
「今日のうちに来られてよかったです」
入口からの道を、もう一度目で辿る。
人が並んでいても、左へ曲がる場所を間違えずに進めるだろうか。
「下ばかり見ていると、かえって歩きにくくなるわよ」
「でも、裾を踏みそうで」
「衣装を着た練習は午後です。今は道順を覚えましょう」
「はい」
その時、柱のそばから声がした。
「ずっと歩き方を考えてるのか」
シリルだった。
少し離れて、ヴィクトルも立っている。
「考えないで歩けるようになりたいんです」
「普段は歩けてるだろ」
「普段は、三歩で止まって礼をしません」
「それもそうだな」
あっさり頷かれ、リリアは少し笑った。
「お二人も、場所を確かめに?」
「はい。ファリダさんに説明していただくところです」
ヴィクトルが答えた。
「あとで、リリアさんにも見ていただけます」
リリアは頷いた。
◆
「まずは、あなたの席からね」
サフィーヤが広間の奥へ歩き出した。
リリアも後についていく。
皇帝の高座へ向かうのかと思った。
けれど、途中で進路が変わる。
皇族の席とも、高官たちの席とも違う。
広間の中央から少し外れた場所に、一脚の椅子が置かれていた。
仮置きなのだろう。
周囲の飾りはまだなく、小卓にも何も載っていない。
「こちらよ」
リリアは椅子と皇帝の高座を見比べた。
「本当に、陛下の隣ではないんですね」
「ええ。皇族の列にも入りません」
「一人……」
思わず漏れた。
サフィーヤがリリアを見る。
「気になる?」
「嫌というわけではないんです。ただ、慣れていなくて」
「席が離れていることに?」
リリアは椅子へ目を戻した。
誰かの用事を待つためではない。
食事が済むまで、壁際に控える場所でもない。
「私だけの場所があることに、です」
サフィーヤは少し黙ってから、小卓の位置を直した。
「ここへ来るまでの道も、覚えましょう。明日はあなたの名が呼ばれます」
「はい」
◆
「黒百合の席を皇族や臣下と分けるのは、古い盟約に基づいているの」
サフィーヤが言った。
「皇帝に仕える者として迎えるのではないと、席でも示すのよ」
「離れて座ることにも、意味があるんですね」
「ええ。古い記録には、皇帝の判断に異を唱えた巫女の話も残っているわ」
「皇帝に?」
「そう」
「怒られなかったんですか?」
サフィーヤが笑った。
「そこが気になるのね」
「だって、皇帝ですよ」
「内容によるな」
入口の方から声がした。
二人が振り返る。
ナディルが、筆頭近侍のジャリールを伴って入ってきた。
「兄上」
「陛下」
リリアが姿勢を正すと、ナディルはそのまま近づいてきた。
「やはり、怒ることもあるんですね」
「私にも腹の立つことはある」
「では、異を唱えた方は……」
「腹を立てることと、罰することは別だ」
ナディルは黒百合の席へ目を向けた。
「盟約では、黒百合が異を唱えたことだけを理由に罰してはならぬとされている」
リリアは右腕へ左手を添えた。
「でも、母は閉じ込められていました」
「ああ」
ナディルは否定しなかった。
「盟約が守られなかった時代もある。先帝の時代もそうだ」
広間の向こうで、卓を動かす音がした。
「決まりがあっても、守られないことがあるんですね」
「ある。だから、書かれているだけで安心するな」
リリアは皇帝を見上げた。
ナディルは静かに続けた。
「私がどう扱うかも、お前自身で見ていればよい」
◆
「座ってみましょうか」
サフィーヤに促され、リリアは椅子の前へ立った。
衣の裾を整え、腰を下ろす。
立っていた時とは、広間の見え方が違った。
皇帝の席。
皇族の席。
外国使節が座る場所。
サフィーヤが一つずつ教えてくれる。
「祀院の代表は、あちらです」
リリアの視線が止まった。
宴へ招くと聞いてはいた。
それでも、実際の場所を見ると、膝の上の指が強張った。
古い祠。
石床に描かれた輪。
その中にいたアン。
「……明日来るのは、どんな方なんですか?」
サフィーヤはリリアのそばへ立った。
「祀院中央から派遣される代表者よ」
「今回のことを、知っている方ですか?」
「報告は受けているはずだ」
ナディルが答えた。
「ヤシャラへの説明も求めている。少なくとも、誘拐への関与が確認された者ではない」
「でも、黒百合を祀院へ連れていきたいと考えているかもしれない?」
「その可能性はある」
リリアは祀院の席を見る。
「会うまで、分からないんですね」
「会っても、すべて分かるとは限らん」
ナディルの答えに、リリアは小さく息を吐いた。
◆
「アン様を攫った人たちは、今、どうなっているんですか?」
ようやく尋ねた。
アンを助けること。
逃げること。
傷を治すこと。
そのあとは、ヤシャラへ来る準備が続いた。
事件に関わった者が、その後どうなったのかを、詳しく聞く機会がないままだった。
「捕らえた者はいる」
ナディルが答えた。
「祠にいた者の一部と、移送や連絡に関わった者たちだ。ただし、全員ではない」
「逃げた人も?」
「ああ。足取りを追っている」
「ヤシャラにいるんですか?」
「それも調べているところだ。祀院の拠点は、いくつもの国にある。他国にいる者を、私の命令だけで捕らえることはできん」
サフィーヤが続けた。
「それぞれの国へ調査や協力を求めることになるの。こちらで分かったことを伝え、向こうの記録も確かめてもらう」
「時間がかかるんですね」
「ええ」
リリアは膝の上の手を見た。
「では、ヤシャラにある祀院は?」
「事件への関与が疑われる拠点には、活動停止を命じた。資金や連絡の記録も調べている」
ナディルの声は変わらなかった。
「国内で行われた違法行為は、ヤシャラの法で裁く。だが、それで国外の中央や、すべての拠点を処分できるわけではない」
「中央は、何と言っているんですか?」
「一部の強硬派が独断で起こした事件だと」
リリアは顔を上げた。
「本当に、独断だったんでしょうか」
「中央が命じたと示す証拠は、確認されていない」
「でも、同じ祀院なら、知っていたことや、止められなかった理由は説明してほしいです」
「それも求めている」
ナディルが答えた。
「誰が何を知り、何をしたか。一つずつ確かめる」
リリアはもう一度、祀院の代表者が座る場所を見た。
「明日、その説明をするんですか?」
「詳しい協議は、宴とは別の席で行う。お前がすべて同席する必要はない」
「私に関わることは、教えていただけますか」
「ああ」
「謝ってくださるのでしょうか」
リリアが尋ねると、サフィーヤは少し考えた。
「謝罪の言葉はあるかもしれないわ。ただ、何について謝るのかは、聞かなければ分からない」
「何について?」
「怖い思いをさせたことなのか。祀院の者が誘拐に関わったことなのか。中央にも責任があったと認めるのか。それぞれ違うでしょう」
リリアは眉を寄せた。
「ごめんなさい、だけでは分からないんですね」
「ええ」
「……難しいです」
サフィーヤは頷いた。
「明日、返事に困ったら、その場で答えなくてもいいのよ」
「謝られたら、許さなければいけませんか?」
「その必要はない」
ナディルが答えた。
「宴の席だからといって、許したことにする必要もない」
リリアは椅子の肘掛けから手を離した。
知らない人が来る。
何を言われるのかも、まだ分からない。
けれど、聞いたあとで考えてもよいのだ。
「分かりました」
サフィーヤが、リリアの顔を確かめるように覗き込む。
「少し休む?」
「もう少し、続けたいです」
「では、次は挨拶を受けるところからね」
◆
礼法の確認が再開された。
「外国使節から挨拶を受けたら、こちらで教えた礼で返して構いません。相手の国の作法を、その場でまねる必要はないわ」
「はい」
「皇族が入場する時も、あなたは席に着いたまま待ちます」
「……私だけ、ですか?」
「黒百合の席にいるあなたは、そうよ」
リリアはナディルを見た。
「本当に、立たなくていいんですか?」
「よい」
「皆さんが立っているのに?」
「そこで私が立てと命じれば、何のために席を分けたのか分からなくなるだろう」
「それは、そうですけれど」
座ったまま皇帝を迎える自分を想像する。
どうしても、落ち着かなかった。
サフィーヤが広間の入口へ歩いていく。
「一度やってみましょう。兄上は、あちらから入ってきて」
「私も練習に加わるのか」
「今なら、ちょうどいらっしゃるでしょう」
ナディルがジャリールへ目を向ける。
彼は予定を確かめ、静かに頷いた。
「少しでしたら、お時間がございます」
「そうか」
ナディルは入口へ向かった。
リリアは膝の上で手を重ねる。
戻ってきた皇帝を見るなり、腰が浮きかけた。
「リリア」
サフィーヤの声に、慌てて座り直す。
ナディルが足を止めた。
「今のうちに間違えておけ」
「……はい」
その言葉に、リリアはようやく笑えた。
◆
休憩になり、ファリダが水を持ってきた。
「お疲れさまです。お二人の位置も、ご覧になりますか?」
「はい」
リリアが席に座ったまま顔を上げると、ヴィクトルは通路を挟んだ壁際へ移った。
シリルは別の柱のそばに立つ。
どちらも、少し顔を動かせば見つけられる場所だった。
「ヴィクトル殿はこちらです。シリル殿は、祀院の代表や使節の出入りも見える位置に」
ファリダが説明する。
「私は、あちらの扉のそばに控えます。お休みになる時は、そちらから出られます」
リリアは順に目を向けた。
「皆さん、思っていたより近いですね」
「人が入ると、見えにくくなることもあります」
ヴィクトルが言った。
「ですが、こちらからはリリアさんを確認できます」
「席を立ちたい時は、ファリダさんを見るんですね」
「はい。気づかない時の合図も、決めておきましょう」
ファリダと相談し、卓上の杯へ手を添える合図を試す。
彼女が近づいてくるまで待ち、一緒に出口へ向かった。
扉を抜けると、広間の物音が少し遠くなった。
「ここなら、息がつけそうです」
「明日も、無理に最後まで座っている必要はありません」
ファリダが答えた。
リリアは頷き、開いた扉の向こうを振り返った。
◆
ナディルが政務へ戻ったあと、もう一度、入室から練習することになった。
扉の前で待つ。
名を呼ばれる。
三歩進み、一礼。
今度は、迷わず左へ進めた。
黒百合の席へ着き、裾を整えて腰を下ろす。
サフィーヤがそばへ来た。
「どう?」
「道順は、覚えたと思います」
「席からの眺めは?」
リリアは広間を見渡した。
明日は、空いている椅子が人で埋まる。
祀院の代表も、外国の使節も、自分を見る。
「……やっぱり、怖いです」
「ええ」
「でも、挨拶はしたいです」
サフィーヤが頷いた。
「今、読んでみる?」
リリアはファリダから、折り畳んだ紙を受け取った。
何度も書き直した挨拶だった。
広げると、直してもらった文字と、自分で書き足した言葉が並んでいる。
入口へ目を向ける。
明日は、あの扉から人々が入ってくる。
リリアは膝の上で紙を持ち直し、最初の一文を口にした。
「皆様にお会いできましたことを、嬉しく思います」
声は、思っていたより遠くまで届いた。




