第三十話 帰還の宴
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ファリダが、最後に髪飾りの留め具を確かめた。
「苦しくありませんか?」
「はい。大丈夫です」
リリアが顔を横へ向けると、赤い石の後ろで淡紫の細工が光った。
朝にも使った飾りが、違う髪形に収まっている。
「では、参りましょう」
鏡から目を離し、リリアは立ち上がった。
◆
帰還祝いと聞いて、リリアは大きな広間での宴を想像していた。
案内されたのは、皇帝が私的な食事に使う小広間だった。
色硝子の灯りが壁を淡く照らし、深紅の敷物には細い金模様が織り込まれている。
今夜は、ヴィクトルとシリルも招かれていた。
二人に伴われて入ると、卓にはすでにナディル、ルキーヤ、メフリナがついていた。
ルキーヤの隣にはアミラもいる。
サフィーヤがこちらへ顔を向けた。
その斜め向かいには、ナシーラが座っていた。
壁を背にできる席だった。
すぐ後ろには、見覚えのある女官が控えている。
ナシーラは、入ってきた三人へ一度目を向けた。
リリアと目が合うと、小さく手を上げる。
けれど、後ろに続くヴィクトルとシリルが見えると、その手を膝へ戻した。
リリアは近づきすぎないところで微笑み、皆へ一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「よく来た」
ナディルが席を示す。
「今夜は内輪の食事だ。そう堅くならずともよい」
「はい」
返事をしたものの、皇帝や皇后たちが並ぶ卓を前にすると、背筋が伸びた。
セイランも、こちらを見ていた。
午前に会った時より、顔の疲れが薄れたように思える。
ちゃんと休んでくれたのだろうか。
尋ねる前に、サフィーヤが隣の椅子へ手を添えた。
「リリアはここよ」
席へ向かう途中、ヴィクトルが髪飾りへ目を留める。
「今日は、二つ合わせたんですね」
「淡紫の飾りも、つけてもらいました」
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
アミラが身を乗り出す。
「あとで見せて。赤い方、お花みたい」
「はい。近くで見てください」
リリアはサフィーヤとヴィクトルの間に腰を下ろした。
◆
皆が席についたところで、ナディルが杯を上げた。
「セイランが戻った。葛花に残した仕事も、道中で命じた仕事も済ませてな」
「道中で増やされた仕事です」
「今夜くらい、最後まで聞け」
サフィーヤが口元を押さえた。
アミラが二人を見比べる。
「お祝いなのに、けんかするの?」
「けんかではありません、殿下」
セイランが答えると、ナディルが頷いた。
「そのとおりだ。私が労おうとしているところへ、口を挟んでいるだけだ」
「それは失礼いたしました」
声に恐縮した様子はない。
リリアは二人を見た。
葛花でも、セイランはナディルへ遠慮なく意見を述べていた。
けれど、今夜のやり取りは、あの時よりもずっと気安い。
ナディルが改めてセイランへ杯を向けた。
「無事の帰還を喜ぶ。今夜は、ゆっくり食べていけ」
「ありがとうございます」
今度は、軽口を返さなかった。
皆が杯を上げる。
ナシーラも、両手で小さな杯を持ち上げた。
リリアは果実の飲み物を、セイランの方へ向けた。
◆
料理が運ばれてきた。
平たいパン。香草を混ぜた米料理。焼いた肉に、柔らかく煮た豆。
湯気とともに、知らない香辛料の匂いが漂ってくる。
取り分けの器が、卓の端で触れ合った。
硬い音が、一度響いた。
ナシーラの肩が跳ねる。
膝に戻していた手で、衣の布を握った。
リリアがそちらを見た時、給仕の男も異変に気づいたらしかった。
「失礼いたしました」
声をかけながら、器を持って近づこうとする。
ナシーラが椅子の背へ身を寄せた。
サフィーヤが手で男を制する。
「そこへ置いて。あとは、そちらの女官に任せて」
「かしこまりました」
男が下がると、ナシーラの後ろに控えていた女官が静かに進み出た。
隣のヴィクトルも、手にしていた杯を卓へ戻していた。
音を立てず、しばらく手を添えてから離す。
やがてルキーヤが料理の名を教え始め、卓の話も少しずつ戻った。
ナシーラは膝の上の手をほどき、女官が取り分けたものを一口食べた。
◆
鮮やかな赤い煮込みへ目を向けると、ルキーヤが声をかけた。
「それは辛いわよ。初めてなら、ほんの少しにしておきなさい」
「どのくらい辛いんですか?」
「食べ慣れた者でも、飲み物が欲しくなるくらいね」
赤い汁の中に、小さく切った肉が見える。
「少し、いただいてみたいです」
女官が取り分けようとしたところで、リリアは量を示した。
「その半分くらいで、お願いします」
小さな匙の先に取り、口へ運ぶ。
最初は肉と香草の味がした。
そのあとから、舌が熱くなった。
「……」
リリアは匙を置いた。
飲み込んでも、辛さが消えない。
「こちらをどうぞ」
ヴィクトルが、乳を使った飲み物を差し出した。
リリアは礼を言おうとして口を開き、先に一口飲んだ。
冷たさが舌へ広がる。
「ありがとうございます……」
「まだ食べるか?」
シリルに尋ねられ、皿と杯を見比べた。
「今日は、もういいです」
「それがいいわ」
ルキーヤが笑った。
「辛いだけでは、なかったんですけど」
「ええ。慣れると、また食べたくなるのよ」
「次は、パンと一緒にいただきます」
ルキーヤが、ちぎったパンへ少量をのせて見せてくれた。
「そう。こうして食べてもいいわ」
「先にお聞きすればよかったです」
リリアが笑うと、ヴィクトルもつられて笑った。
向かいで、セイランが水の杯を置く。
「無理に食べきろうとしなくていい」
「はい。これは、今日はここまでにします」
皿を女官へ渡す。
代わりに取った豆の煮込みは柔らかく、口の中に優しい甘みが残った。
顔を上げると、ナシーラがこちらを見ていた。
けれど、目が合う前に、彼女の視線が少し横へ動いた。
ヴィクトルは乳の飲み物をリリアの手元へ置き直していた。
◆
「リリア。街へ行ってみたいそうね」
サフィーヤが言った。
「はい。殿下に、お勧めの場所を伺いたかったんです」
「どんなところを見たいの?」
「市場です。それから、街の人が普段、どんなものを買ったり食べたりしているのかも」
リリアは卓上の料理を見る。
「皇宮の食事とは、違うんでしょうか」
「同じものもあるけれど、市場でしか食べられないものもあるわよ。その場で焼いてくれる薄いパンは、中に包むものも選べるの」
「食べてみたいです」
「なら、最初は南の市場がよいだろう」
ナディルが口を挟んだ。
「通りが広く、店も多い。皇宮からも遠くない」
リリアはナディルへ向き直る。
「行き先と日が決まったら、お知らせします」
「ああ。警護の調整は、第一随衛を通せ。必要な者はこちらからも出そう」
壁際のファリダが一礼した。
「ラフィーク殿とも相談し、道順を確かめます」
「お願いします」
リリアは返事をしてから、少しためらった。
「街でも、影の方たちが警護に加わるんですね」
「そのつもりだ」
「その方たちの役目も、教えていただけますか。何かあった時、どうすればよいか分かるように」
「ファリダから説明させる。お前から知らせたいことがある時の、連絡の取り方もな」
「ありがとうございます」
「差し迫った危険があれば、説明より先に動くこともある」
「はい。そのあとで、何があったのか教えてください」
「そうさせよう」
サフィーヤが続けた。
「では、明日、地図を見ましょう。市場だけでも広いわよ」
「値段を聞く言葉も、練習したいです」
「ええ。返ってきた値段も聞き取れるようにね」
リリアが頷くと、シリルが小さく笑った。
「何ですか」
「大事なんだろ、値段」
「大事です」
答えると、サフィーヤも笑った。
ナシーラは、卓の向こうでその話を聞いていた。
「ナシーラも、地図を見る時に来る?」
サフィーヤが尋ねる。
彼女は少し迷ってから頷いた。
「……見るだけなら」
「ええ。まずは、見てみましょう」
◆
果実と小さな菓子が並んだ頃、ナディルが口を開いた。
「祭りの前に開く宴について、話しておきたい」
リリアは匙を置いた。
「各家や祀院の代表、外国使節も招く。リリア、お前にも出席を求めたい」
「私も、ですか?」
「ああ。先日の謁見に出ていなかった者も多い。お前がヤシャラに滞在していることを、改めて公に知らせる席にもなる」
リリアの背筋が伸びる。
回廊ですれ違った高官たちの顔が浮かんだ。
「私が、挨拶をするんですね」
「そうだ。ただし、今ここで返事をしろとは言わぬ。どのような席か聞いたうえで、決めればよい」
「たくさんの方が、いらっしゃるんですか?」
「今夜とは比べものにならないわね」
サフィーヤが答えた。
「挨拶で何を伝えるか、一緒に考えましょう」
「席は、どこになるのでしょう」
「皇族や臣下の席とは分け、黒百合のための席を設けます」
メフリナが言った。
「古式に従って、お迎えすることになります」
「誓礼も、行うんですか?」
「ああ。私が迎える」
ナディルが頷いた。
花に道を。
御代に朝を。
今度は、大勢が見ている。
「知らないことを聞かれたら、どうすればいいでしょう」
「知らないと答えてよい。考える時間が必要なら、そう言え」
ファリダも近づいてきた。
「当日の動きは、前もって一緒に確かめましょう。私たちが控える場所も、お伝えします。途中でお休みになりたい時の合図も、決めておきましょう」
「はい」
リリアは卓上の菓子へ目を落とした。
ヤシャラへ来てから、教えてもらったことがある。
会えて嬉しかった人もいる。
黒百合の力について、まだ分からないことは多い。
けれど、今、ここで学んでいることなら話せると思った。
「私から、話したいです」
顔を上げる。
「短い挨拶しかできないかもしれません。でも、お世話になっていることや、学んでいることを、自分で伝えたいです」
「出席する、ということでよいか」
「はい」
胸が強く打った。
セイランが向かいから尋ねた。
「準備の間に困ったことが出たら、言えるか」
「言います」
「ならいい」
ナディルはサフィーヤへ目を向けた。
「詳しい日程と流れを伝えておけ。変更があれば、その都度知らせよ」
「承知しました」
リリアは息を吐いた。
「緊張します」
「まだ数日あるわ」
ルキーヤが菓子の皿を勧めた。
「今夜のうちから、ずっと緊張していなくても大丈夫よ。こちらは辛くないわ」
リリアは思わず笑った。
「では、一ついただきます」
◆
食事を終えると、アミラがセイランのそばへ行った。
「明日は、お話を聞かせてくれる?」
「どのようなお話を?」
「旅の話。お仕事じゃないところ」
セイランは少し考えた。
「道中で、荷を運ぶ山羊に道を塞がれました」
「山羊?」
アミラの目が丸くなる。
「それ、聞きたい」
「では、明日に」
リリアも、その話が少し気になった。
セイランがこちらを見る。
「お前も聞くか」
「はい」
「では、二度話さずに済むな」
アミラがリリアの手を取った。
「一緒に聞きましょう」
「はい。楽しみにしています」
ルキーヤに呼ばれ、アミラは手を離した。
「……リリア」
振り向くと、席を立ったナシーラが髪飾りを見ていた。
そばには、外套を腕に掛けた女官が控えている。
リリアが歩み寄ると、ヴィクトルとシリルは少し離れたところで足を止めた。
「その飾り、二つ、合わせてあるのね」
「はい。ファリダさんにつけてもらいました」
リリアは少し顔を横へ向けた。
ナシーラがそっと顔を近づける。
「……後ろにも、小さな花がある」
「鏡だと、そこはよく見えなくて」
「きれい」
「ありがとうございます」
リリアが笑うと、ナシーラもわずかに口元を緩めた。
その時、手元から手巾が滑り落ちた。
ナシーラが屈むより先に、近くにいたヴィクトルが気づいた。
数歩進み、拾い上げる。
ナシーラの身体が固くなった。
ヴィクトルはそれ以上近づかず、脇の小卓へ手巾を置いた。
「こちらへ置きますね」
声は低く、静かだった。
ナシーラが頷くのを待ってから、彼は一歩下がった。
ナシーラは小卓へ手を伸ばし、手巾を取る。
胸元へ持ち、顔を上げた。
「……ありがとう」
ヴィクトルが振り返る。
それだけで、彼女の指にまた力がこもった。
「どういたしまして」
彼は一礼し、シリルのいる方へ戻った。
ナシーラは目を伏せた。
けれど、二人が言葉を交わし始めると、もう一度顔を上げた。
◆
部屋を出る前に、リリアはセイランへ会釈した。
明日、聞く話が決まっている。
別れの挨拶をしても、今度は寂しくなかった。
ナシーラも、女官に外套を着せてもらい、小広間を出るところだった。
リリアたちとは、途中で道が分かれる。
「おやすみなさい、ナシーラ様」
「……おやすみなさい」
返事のあと、ナシーラの目がリリアの隣へ動いた。
ヴィクトルも、シリルも、彼女へ礼をする。
ナシーラは女官のそばへ寄った。
だが、背を向けるまでのわずかな間、リリアには、彼女が何かを言おうとしているように見えた。
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ナシーラは女官と並んで回廊を歩いた。
小広間を出ると、ほっとするはずだった。
大きな声も、器の触れ合う音も、もう聞こえない。
それなのに、先ほどの場面が頭に残っていた。
拾われた手巾。
差し出されると思って、手を引きかけた。
けれど、彼は近づいてはこなかった。
こちらへ置きますね。
その声を思い返す。
「……ヴィクトル殿は」
名前を口にしてから、ナシーラは言葉を止めた。
「はい?」
「いつも、あんなふうなの?」
女官が少し首を傾げた。
「どのように、でしょうか」
ナシーラは手巾へ目を落とした。
うまく説明できなかった。
「……拾って、くださったの。これを」
「そうでしたか」
それ以上、女官は尋ねなかった。
男の人は、怖い。
振り返られた時には、また手を引きそうになった。
けれど、リリアへ笑いかけていた顔は、今も思い出せた。
「ヴィクトル……」
隣を歩く女官にも聞こえないほどの声で、その名を繰り返した。
◆
別の回廊を、リリアはヴィクトルとシリルに並んで歩いていた。
ファリダは数歩先を進んでいる。
「正式な宴、出ることにしたな」
シリルが言った。
「はい」
「緊張してるか」
「少し」
リリアは二人を見た。
「お二人も、来るんでしょうか」
「どのような立場で同席するかは、これから確認します」
ヴィクトルが答えた。
「今夜のように、お隣へ座れるとは限りませんが。決まったら、先にお伝えします」
「俺の場所も、ファリダに聞いておく」
リリアは頷いた。
「どこにいるか分かれば、少し安心できそうです」
「お前は、挨拶を考えておけ」
「考えます。シリルも、決まった場所にいてくださいね」
「何もなければ動かない」
「では、何もなければ、ちゃんと見つけられるところにいてください」
シリルはリリアを見た。
「……分かった」
ヴィクトルが小さく笑った。
窓の向こうに、皇宮の灯りが連なっている。
「今日は、楽しかったです」
「辛い料理も?」
シリルが尋ねた。
「それも、です。次は、先に食べ方を聞きます」
「飲み物も、近くへ置いておきましょう」
ヴィクトルの言葉に、リリアは首を振った。
「そこまで辛いものは、まだやめておきます」
今度は三人で笑った。
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居室へ戻ると、ファリダが髪飾りを外してくれた。
赤い石と、淡紫の細工が、卓上の布へ置かれる。
「お疲れになりましたか?」
「少し。でも、楽しかったです」
「それなら、よかったです」
結っていた髪がほどかれ、肩へ落ちた。
リリアは鏡を見た。
数日後には、今日よりずっと多くの人に会う。
どんな顔をして、自分を見るのだろう。
何を尋ねられるのだろう。
「ファリダさん」
「はい」
「明日、挨拶を書いてみたいです」
「紙を用意しておきましょう」
「まず、自分で書いてみます。そのあとで、読んでいただけますか?」
鏡の中で、ファリダが頷いた。
「喜んで」
何から伝えよう。
リリアは、ほどかれた髪を指先で揃えながら、最初の一文を考え始めた。




