第二十九話 帰ってきた人
◆
翌朝、リリアは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い青に包まれている。
ヤシャラの朝は、ローダンより乾いている。
霧に閉ざされたローゼンベルク家とは違い、遠くの屋根まで輪郭が見える。
寝台から身を起こし、右腕へ目を落とす。
黒百合の痣は静かだった。
昨夜、ファリダから聞いた言葉を思い出す。
――セイラン様がお戻りになりました。
葛花で別れた時には、次にいつ会えるのか分からなかった。
無事に帰ってきた。
今度は、こちらから話せることもある。
ヤシャラ語のこと。書庫で読んだこと。馬に乗れたこと。
「……まだ早い」
窓を見て、小さく呟いた。
けれど、もう一度眠れるとは思えなかった。
◆
「セイラン様から、お返事をいただきました」
朝食のあと、ファリダが告げた。
「午前の遅い時間なら、お会いできるそうです」
「本当ですか?」
「ええ。東の中庭で、とのことです」
リリアは頷き、膝の上に置いていた手をほどいた。
「よかった。お疲れかと思っていたので」
「長くならないようにしましょうね。今夜もお会いできますから」
「はい」
支度を始めると、ファリダが二つの髪飾りを見せた。
一つは淡い青石。
もう一つは、小さな赤い石をあしらった銀飾りだった。
リリアは鏡越しに見比べる。
「赤にします」
「昨日も赤でしたね」
「駄目ですか?」
「いいえ。好きなものを何度使っても構いません」
リリアの顔に笑みがこぼれた。
「では、これで」
黒髪をまとめてもらいながら、鏡を見る。
以前なら、似合うかどうかより、目立たないか、誰かに咎められないかを先に考えていた。
今は、留める位置を少し変えてもらうだけで、見え方が違うのが面白い。
「今夜は、また違う髪形にしましょうか」
「お食事の時ですか?」
「ええ。飾りも、あとで選びましょう」
リリアは頷いた。
まずは、朝の挨拶をヤシャラ語で言ってみよう。
鏡の中の自分へ向けて、習った言葉を小さく繰り返した。
◆
セイランは、皇宮東側の小さな中庭にいた。
中央には浅い水盤があり、その周囲に淡紫の冬の花が咲いている。
回廊を曲がったところで、リリアはその姿を見つけた。
「セイラン様」
声をかけると、彼が振り返った。
旅装ではない。
濃紺の長衣に着替え、髪も整えられていた。
ただ、目元には少し疲れが残っている。
リリアは足を速めた。
あと数歩というところで、練習していた挨拶を思い出す。
けれど、顔を見たら、先に別の言葉が出た。
「お帰りなさい」
セイランはリリアを見つめた。
返事までに、わずかな間があった。
「……ただいま」
リリアは、ようやく会えたのだと思った。
◆
「足は、もう痛まないか」
挨拶の次に尋ねられ、リリアは瞬きをした。
「会ってすぐ、足の心配ですか?」
「葛花では、歩くのにも苦労していただろう」
「もう痛くありません」
答えてから、付け加えた。
「ただ、長く歩いた日の夜は、少し重く感じます」
「ファリダには?」
「話しています。そういう日は、早めに休むようにしています」
セイランの視線が、少し離れて立つファリダへ向いた。
彼女が頷くのを見てから、リリアへ目を戻す。
「ならいい。歩けるようになったからといって、急に増やすなよ」
「はい」
リリアも、セイランの姿を見た。
「セイラン様は、お怪我はありませんか?」
「ない」
「腕も、足も?」
「どちらも無事だ」
「……よかったです」
セイランが水盤のそばの長椅子を示した。
二人で腰を下ろすと、ファリダは回廊の出入りが見える場所へ移った。
「ヤシャラには慣れたか」
「少しずつです。まだ、知らないことの方が多いですけれど」
「例えば?」
「言葉も、礼法も。食べ物の名前も、まだ覚えきれません」
「食べるものには困っていないようだな」
「それは、皆さんが教えてくださるので」
リリアは膝の上で手を重ねた。
「サフィーヤ殿下に、ヤシャラ語を教えていただいています。アミラ殿下にも発音を直されました」
「皇太女に?」
「はい。六歳ですけど、私よりずっと上手です」
「生まれた時から聞いている言葉だからな」
「分かっています。でも、あんなにすぐ違いが分かるなんて」
何度言っても同じところで首を傾げられたことを話すと、セイランの口元が緩んだ。
「今度、聞かせてもらおう」
「あまり難しい言葉は、まだ駄目ですよ」
「挨拶からでいい」
リリアは、今度こそ覚えたヤシャラ語を口にした。
セイランは最後まで聞き、同じ言葉で返してくれた。
◆
「馬にも乗りました」
「皇宮からの知らせにあった」
「そうだったんですね」
リリアは、自分の両手を見た。
「覚えていないのに、乗れたんです」
手綱を持つ手。
鞍の上での姿勢。
馬が動き出した時、揺れに合わせて動いた身体。
「ローゼンベルク家で習っていたみたいです。どうしてそうするのか考える前に、身体が動いて」
「怖くはなかったか」
「途中で、三年前のことを少し思い出しました」
水盤の表面が、風に揺れた。
「でも、休んだら落ち着きました。馬も、静かに待っていてくれたんです」
リリアは顔を上げた。
「楽しかったです。また乗りたいと思いました」
「なら、また乗ればいい」
「いいんですか?」
セイランが眉を上げる。
「なぜ私に許可を取る」
「あ……」
リリアは口元へ手を当てた。
「そうですね。ルキーヤ様に、またお願いしてみます」
「次に乗ったら、その馬の話も聞かせてくれ」
「はい。とても大人しい馬なんです。首を撫でると、少し顔を寄せてくれて」
話しているうちに、馬場で触れた温かさまで思い出した。
次に行く時には、名前もきちんと覚えてこようと思った。
◆
ふと、セイランの視線がリリアの髪へ向いた。
「これですか?」
赤い石の髪飾りに触れる。
「自分で選んだのか」
「はい。最近、ファリダさんといろいろ試しているんです」
銀の葉に囲まれた、小さな赤い石。
リリアは指を下ろし、尋ねた。
「似合いますか?」
「よく似合っている」
すぐに返事があった。
リリアは頬を緩めた。
「ファリダさんも、そう言ってくれました」
「飾りを選ぶ目は、私より確かだろうな」
「では、セイラン様は?」
「見て、似合うと思った」
飾らない答えに、リリアは笑った。
「ありがとうございます」
しばらく、書庫や皇宮での暮らしを話した。
セイランは、リリアが言葉を探している時も急かさなかった。
水盤へ落ちた小さな葉が、縁に沿って流れていく。
それを見送りながら、リリアは口を開いた。
「気になることも、ありました」
――陛下の黒百合。
回廊で聞いた呼び方。
サフィーヤから教えられた、高官たちの考え。
皇帝直属に置くべきだという者。
祀院へ移すべきだという者。
力を危険視し、外へ出すべきではないという者。
セイランは口を挟まずに聞いていた。
「私は、陛下のものではないと……そう言いました」
「聞いている」
リリアは彼を見た。
「陛下からですか?」
「ああ。本人の意思に反する呼称は使わせないと、おっしゃっていた」
膝の上の指から、力が抜けた。
「怒っては、いらっしゃらなかったんですね」
「怒るなら、お前を所有物のように呼んだ方にだろう」
「でも、私がそう言うのは、失礼ではありませんか」
「陛下の前でも、同じように言えばいい」
リリアがためらっていると、セイランは続けた。
「陛下も、お前が誰のものでもないと分かっている。だからこそ、古式の礼を受けたのだろう」
左手を胸へ添えた時のことを思い出す。
ナディルは、あの礼に応えてくれた。
「……はい」
「ただ、ほかの者も同じように考えるとは限らない。困った時は、一人で返事をするな」
「サフィーヤ殿下にも、そう言われました」
「なら、頼れ」
リリアは頷いた。
「今度、分からないことをまとめて、お聞きするつもりです」
◆
「ヴィクトルさんのことも、少し考えました」
リリアは右腕へ目を落とした。
「黒百合の縁があるから、一緒にいてくださるのかと」
「本人には聞いたのか」
「まだです」
灰熊へ向かっていった背中を思い出す。
屋敷を出た時も、森を進んだ時も、ヴィクトルは自分で決めていた。
「でも、縁だけが理由ではないと思うんです」
「そう思う理由があるなら、大事にしておけばいい」
セイランは水盤へ目を向けた。
「分からないところまで、今ここで埋めることはないだろう。聞きたくなったら、本人に聞けばいい」
「……はい」
急いで答えを出さなくてもいい。
そのことに、少し安心した。
「シリルは?」
セイランが尋ねる。
「相変わらずです。庭の土を見ていたり、書庫に長くいると外へ出ろと言ったり」
「嫌なのか」
「嫌ではありません」
答えてから、リリアは少し考えた。
「私の話も聞いてくれます」
中庭で、最後に決めるのはお前だと言ってくれた。
反対なら反対だと、はっきり伝えるとも。
「守り人だから、というだけではないそうです」
セイランがリリアへ目を戻した。
「そう言ったのか」
「はい。でも、どういう意味かは教えてくれませんでした」
「それも、本人に聞くことだな」
「聞いたら、話を逸らされたんです」
少し不満を込めると、セイランは笑いを堪えるように口元へ手をやった。
「そうか」
「笑うところですか?」
「いや。元気そうで何よりだ」
◆
「セイラン様は、葛花のあとも、ずっとお仕事だったんですか?」
「葛花の後始末と、陛下から頼まれた仕事だ」
「危険なことも?」
「多少はあった」
リリアの眉が下がる。
セイランは先に言い添えた。
「怪我はしていない。さっき話したとおりだ」
「はい」
無事に帰ってきた。
今、こうして目の前にいる。
詳しく聞いても、話せないことがあるのだろう。
リリアは長衣の袖口から、その顔へ視線を戻した。
「では、今日は休んでください」
セイランが黙った。
「あの……余計なことなら、すみません」
「余計ではない」
今度は、すぐに返事があった。
「陛下からも、休めと言われている」
「では、なおさらです」
「お前まで同じことを言うのか」
「疲れているように見えますから」
セイランは何かを言いかけ、やめた。
代わりに頷く。
「分かった。今夜まで休む」
リリアはほっとした。
「約束ですよ」
「ああ」
◆
ファリダが、回廊の方から静かに近づいてきた。
リリアはその姿を見て、長椅子から立ち上がる。
「いろいろ話してしまいました」
「まだ、あるんじゃないのか」
「あります。でも、続きは今夜にします」
セイランも立ち上がった。
「そうしてくれ」
「はい。では、またあとで」
一歩進んでから、リリアは振り返った。
「セイラン様」
「何だ」
今度は、顔を見て言えた。
「お帰りなさい」
セイランは、少しだけ目を細めた。
「ただいま」
リリアは笑って、ファリダのもとへ戻った。
◆
二人の姿が回廊の向こうへ消えたあと、セイランは水盤のそばに残っていた。
小さな葉が、まだ水面を漂っている。
やがて踵を返し、中庭を出た。
角を曲がったところで、近衛を伴うナディルと行き会った。
「会えたか」
「はい」
「そうか」
ナディルは、セイランが来た方へ一度目を向けた。
「これからどこへ行く」
「部屋へ戻ります」
「仕事は持ち込むなよ」
「今日は、休むと約束しましたので」
ナディルの眉が上がった。
だが、誰と約束したのかは尋ねなかった。
「なら、守れ」
「承知しております」
セイランが脇へ退く。
ナディルはその横を通り過ぎ、執務室へ向かった。
足音を見送ってから、セイランも自室へ続く回廊を歩き出した。
◆
その夕刻、リリアは鏡の前で、髪飾りを選んでいた。
昼間より少し高く結った髪へ、ファリダが淡紫の飾りを当ててみせる。
「こちらはいかがです?」
「きれいです」
「では、これにしましょうか」
リリアは、箱に戻した赤い石の髪飾りを見た。
朝、よく似合っていると言ってもらった。
「赤も使いたいです」
「では、合わせてみましょう」
「多くなりませんか?」
「位置を変えれば、大丈夫だと思います」
淡紫の飾りを少し後ろへ。
赤い石は、顔の横から見える位置へ。
ファリダが手を離すと、リリアは鏡に映る自分を確かめた。
「どうです?」
「これがいいです」
今夜は、セイランだけでなく、ほかの皆にも会える。
どんな話になるのだろう。
髪飾りを動かさないように気をつけながら、リリアはもう一度、少しだけ顔を横へ向けた。




