第二十八話 帰還の知らせ
◆
翌日の夕暮れ、リリアはヴィクトルとシリルとともに、居室へ続く回廊を歩いていた。
少し前をファリダが進んでいる。
高い窓の向こうでは、空が赤紫から藍色へ変わり始めていた。
「明日、サフィーヤ殿下に相談してみようと思います」
リリアが言った。
「何を?」
シリルが尋ねる。
「街へ行ってみたいって」
「やっとか」
「やっと、とは何ですか」
「ずっと皇宮と書庫ばっかりだっただろ」
「庭にも行きました」
「皇宮の庭だろ」
「馬場にも」
「それも皇宮」
リリアは少しむっとした。
「勉強することがたくさんあるんです」
「街で覚えられることもある」
「それは……そうかもしれませんけど」
「市場なら、今覚えてる言葉も使えるだろ」
リリアは考えた。
「値段を聞く言葉は、まだ習っていません」
「そこか」
「大事でしょう?」
「まあな」
ヴィクトルが小さく笑った。
「何ですか?」
「いえ。楽しそうだなと思いまして」
「ヴィクトルさんも行きますよね?」
「もちろんです」
迷いのない返事に、リリアも笑った。
「では、明日聞いてみます」
その時、ヴィクトルの目が二階の渡り廊下へ向いた。
シリルもそちらを見上げる。
柱の陰で、衣の裾が動いた。
「陛下の影だな」
「ええ」
リリアも渡り廊下を見た。
男が一度だけこちらへ顔を向け、奥へ退く。
「隠れていないんですね」
「近くにいると分かる方が、周囲への牽制になることもあります」
ヴィクトルが答えた。
「街へ行く時も、ついてくるんでしょうか」
「街での警護にも加わると思います。人数や配置は、事前に確かめることになりますね」
前を歩いていたファリダが振り返った。
「行き先が決まったら、私からも調整します。市場へいらっしゃるなら、混む時間も避けたいですし」
「お願いします」
「値段を尋ねる言葉も、覚えておきましょうね」
シリルの口元が緩んだ。
リリアはそれを見て、言い添えた。
「聞くだけでなく、返事も分からないと困ります」
「それは大事ですね」
ファリダが笑い、歩き出す。
リリアはもう一度、渡り廊下を見上げてから、そのあとを追った。
◆
同じ頃、皇帝の執務室には、まだ灯りが残っていた。
机の上には、国境警備や税収、水路の修繕、祀院からの陳情など、目を通す書類が積まれている。
ナディルは一枚に署名し、部屋の隅に控える近侍へ渡した。
扉の外から、報告を求める声がする。
「入れ」
濃灰色の衣をまとった男が入ってきた。
装飾はなく、皇宮ですれ違っても目に留まりにくい姿だった。
男は机の前で片膝をつく。
「リリアの周囲は」
「外側の警戒を続けております。私的な会話を聞くための配置はしておりません」
「それでよい。変わった動きは」
「隠し経路から逃げた者について、報告がございます」
ナディルは筆を置いた。
「申せ」
「アルザーン家に連なる者である可能性が高まりました」
「根拠は」
「逃走した男の容貌に合う者が、アルザーン家の使者に同行していたという証言を得ました。別の門番からも、似た男を見たとの話が出ております」
「回収した金属片は」
「刻印の一部に似る家門印はございます。ただし、それだけで所属を断定することはできません」
「証言を別々に記録せよ。互いの話を聞かせるな」
「承知しました」
「本人は、まだ皇宮内にいるか」
「分かっておりません。隠し経路の出口と、その先の出入りを調べております」
「所在が分かれば、接触先も確かめよ。ただし、リリアやほかの者へ危害が及ぶおそれがあれば、報告を待たずに止めろ」
「御意」
「ほかには」
「ダルカーン公爵家の動きに、大きな変化はございません。祀院に近い者と、ヴァルザード侯爵家に仕える者も、リリア殿の行動を探っております。現時点で、新たな接触は確認しておりません」
「誰が、誰の指示で動いているかを追え。家門の名だけで一括りにするな」
男が頭を下げる。
「リリアに知らせるべきことがあれば、第一随衛を通せ。警戒の都合を、そのまま本人への禁止に変えてはならぬ」
「承知いたしました」
「下がれ」
男が退出した。
ナディルは筆を取り上げたが、次の書類へ目を落とす前に、扉の外から近衛の声がした。
「陛下。セイラン殿がお戻りになりました」
顔を上げる。
「ようやくか。通せ」
◆
しばらくして、扉が開いた。
入ってきた男は、まだ旅装だった。
濃い色の長衣の裾には乾いた泥がつき、外套にも旅の埃が残っている。
疲労は隠しきれないが、歩みに崩れはなかった。
セイランはナディルの前まで進み、片膝をついた。
「ただいま戻りました、陛下」
「遅かったな」
「陛下が仕事を増やされましたので」
「私のせいか」
「ほかに誰がおります」
ナディルは、部屋の隅に控える近侍へ目を向けた。
「ここまででよい。下がれ」
「承知いたしました」
近侍が退出し、扉が閉まる。
「立て。座れ」
「では、遠慮なく」
セイランは外套を外し、向かいの椅子へ腰を下ろした。
◆
「葛花は片づいたか」
「医女たちは二か所に分けました。あの場所には残していません」
「道は」
「追跡に使われる痕跡は処理しました。ただし、古い道そのものは残しています」
「なぜだ」
「必要になる者がいるかもしれません」
「また使うつもりか」
「使わずに済めば、それが一番です」
セイランは外套の留め具から手を離した。
「葛花周辺で、祀院の強硬派が使っていた連絡路も一つ確認しました。そちらは封じています」
「連絡を担っていた者は」
「姿を消しています。道を知る者から、足取りを追わせています」
「皇都へ戻った形跡があれば、こちらの者と照合せよ」
「承知しました」
ナディルは、影から受けた報告を伝えた。
隠し経路へ逃げ込んだ男。
アルザーン家の使者に同行していたという証言。
まだ、本人の確保には至っていないこと。
セイランは話を聞き終えると、机上の報告書へ目を向けた。
「家門との関わりがあったとしても、皇太后陛下の命で動いたとは限りません」
「ああ。母上に尋ねるには、まだ足りぬ」
「使者の名と、皇宮を訪れた日を確認します」
「担当の者から報告を受けろ」
「はい」
セイランは懐から封書を取り出した。
「こちらは、陛下から命じられていた記録の照合です」
ナディルは封を切り、中の紙に目を通した。
「確認できた者は」
「一人です。ただし、その場にいたという記録だけです。何を見聞きしたかまでは分かりません」
「本人には」
「まだ会っておりません。所在の確認を進めています」
ナディルは紙を折り、封書へ戻した。
「分かった。所在が判明した時点で報告せよ。接触の仕方はこちらで決める」
「承知しました」
◆
報告が一段落した。
セイランが空の手を膝へ戻す。
ナディルは次の書類へ伸ばしかけた手を止めた。
「リリアは元気だ」
セイランの目が上がった。
「そうですか」
「足も治った。今は皇宮内をよく歩いている」
「無理はしていませんか」
「ファリダが見ている。昨日は、力を試すのも休ませたそうだ」
「力を?」
「本人が学びたいと申し出た。メフリナと昔の記録を読み、最近は自分が覚えていることも書き残している」
「扱い方を教えられる者は」
「まだ確かめている。メフリナにも、記録を読めることと実際に教えられることは別だと分かっている」
セイランは頷いた。
「なら、戻った私からも話を聞いておきましょう」
「本人に尋ねろ。何を話すかは、リリアが決めればよい」
「そのつもりです」
ナディルは椅子へ背を預けた。
「サフィーヤから、ほかにも聞いた」
「何をです」
「髪飾りを選んで、嬉しそうに見せに来たそうだ。化粧もしていたらしい」
セイランの指が、外套の端で止まった。
「そうですか」
「自分で選んだのだと、話していたそうだ」
セイランは外套を畳み直した。
「楽しめているのなら、何よりです」
ナディルは、その手元から目を戻した。
「昨日は、『陛下の黒百合』と呼んだ者たちもいた」
セイランの表情が引き締まる。
「本人の前で?」
「会話が聞こえたらしい。サフィーヤから報告があった」
「誰です」
「高官三人だ。私の直属に置く案や、祀院へ移す案に関わっている」
「本人は何と」
「『私は陛下のものではありません』と言ったそうだ」
セイランはナディルを見た。
「それで、陛下は」
「本人の意思に反する呼称を使うなと伝えた。黒百合の扱いを論じたいなら、まず本人が何を望んでいるか確かめよとな」
「それだけで、引く者たちではないでしょう」
「分かっている。だから、案を出すなら私の前へ出させる。回廊で話したことを、決定したことのように広めさせはせぬ」
セイランは短く息を吐いた。
「リリアにも、何が話されているかは伝えてください」
「ああ。サフィーヤから聞き、本人も尋ねたいことをまとめているそうだ」
ナディルは封書を机の奥へ置いた。
「葛花で会った頃から、随分変わった」
「……ええ」
セイランの返事は小さかった。
◆
「明日の夜、食事をする」
ナディルが言った。
「どうぞ」
「お前もだ。帰還祝いだ」
「そのような席は、必要ありません」
「私が必要だ」
セイランが眉を寄せる。
「誰が来るのです」
「近しい者だけだ。サフィーヤ、ルキーヤ、メフリナ。それから、リリアも呼ぼうと思っている」
セイランは椅子の背から身体を起こした。
「帰ったばかりで、話せるようなこともありません」
「仕事の報告は今聞いた。食卓で続きを求めるつもりはない」
「陛下が、そうしてくださればよいのですが」
「信用がないな」
「先ほど、仕事を増やされた話をしたばかりです」
ナディルが笑った。
「明日の夕刻までは休め。急ぎの報告以外は、こちらで受ける」
「そこまでして、食事へ呼びたいのですか」
「ああ」
セイランは膝の上へ目を落としたあと、頷いた。
「……承知しました。伺います」
「リリアにも、これから知らせる」
「疲れているようなら、無理はさせないでください」
「それはファリダに確かめさせる」
ナディルは机の脇の呼び鈴へ手を伸ばした。
「お前も、今夜は休め」
「承知しております」
「その返事をしてから働く癖を、私は知っている」
セイランは外套を取り上げた。
「では、見つからないようにいたしましょう」
「休めと言っている」
扉へ向かうセイランの背に、ナディルの声が追った。
◆
執務室を出ると、回廊の灯りが点されていた。
外套を腕へかけ、セイランは自分の部屋へ向かった。
窓の向こうには、夜の皇宮が広がっている。
角を曲がれば、内廷へ続く回廊がある。
リリアの居室も、そちらだった。
セイランは分かれ道で歩調を緩めた。
すでに遅い。
知らせもなく訪ねれば、休もうとしているところを起こすかもしれなかった。
無事だと聞いた。
言葉を学び、髪飾りを選び、自分の希望を口にしているという。
セイランは外套を持ち直した。
内廷へは曲がらず、そのまま自室へ続く道を進んだ。
◆
同じ夜、リリアは居室へ戻ってから、髪飾りを外そうとしていた。
扉の方で、ファリダが女官から何かを受け取る。
短いやり取りのあと、折り畳まれた紙を手に戻ってきた。
「明日の予定が一つ増えました」
「何ですか?」
「陛下がお食事の席を設けられるそうです。セイラン様の帰還祝いに」
リリアの手が止まった。
「セイラン様が戻られたんですか?」
「先ほど皇宮へ戻られたそうです」
「お元気ですか?」
「長旅でお疲れのようですが、お怪我はないと伺っています」
「よかった……」
声にした途端、胸の奥が少し軽くなった。
「リリアさんも招かれています。お疲れでなければ、とのことですが」
「行きたいです」
ファリダが微笑む。
「では、そのようにお返事しますね」
リリアは頷いた。
それから、少しためらって尋ねる。
「その前に、セイラン様にお会いできますか?」
「明日のお昼間に、ということですか?」
「はい。お疲れでなければ」
「確認してみましょう」
「お願いします」
リリアは外しかけていた髪飾りを、ようやく卓へ置いた。
伝えたいことが、幾つも浮かぶ。
ヤシャラ語で挨拶ができるようになったこと。
母のことを、少しずつ知っていること。
黒百合の力を学ぼうとしていること。
何から話せばよいだろう。
「ファリダさん」
「はい?」
「帰ってきてくださって、よかったです」
「ええ」
ファリダは頷いた。
リリアは、明日の食事を思った。
セイランに会える。
まずは、お帰りなさいと伝えようと思った。




