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第二十七話 黒百合を囲う声

◆


 午前のヤシャラ語の勉強を終え、リリアはサフィーヤの部屋を出た。


 隣にはファリダがいる。


 午後は書庫へ行き、古文書の続きを読むつもりだった。


 黒髪には、赤い石をあしらった髪飾りをつけている。


「赤も好きかもしれません」


「昨日は紫が好きだと」


「紫も好きです」


「増えましたね」


「駄目ですか?」


「いいえ」


 リリアは笑った。


 少し後ろでは、皇太后宮から派遣された補助警護が、回廊の分かれ道に立っていた。


 曲がり角を過ぎると、次の持ち場にも一人いる。


 誰も後を追ってはこない。


 それでも、通り過ぎるたびに顔を上げられると、自分がどこを歩いているのか、残らず知られているような気がした。


◆


 回廊の向こうから、数人の男たちが歩いてきた。


 衣の形と胸元の飾章から、皇宮に仕える高官たちだと分かる。


 リリアは足を止めた。


 先頭の年配の男が礼をし、後ろの者たちも続いた。


 リリアも立ったまま、軽く頭を下げる。


「ごきげんよう」


 覚えたヤシャラ語で挨拶をした。


 男たちも同じ言葉を返す。


 すれ違う時、一人、また一人とこちらを見た。


 リリアは振り返らなかった。


 足音が遠ざかってから、ファリダに尋ねる。


「今の方たち、私を見ていましたよね」


「ええ」


 リリアは右腕を見る。


 衣の下には、黒百合の痣がある。


「……これですか?」


「黒百合の巫女がいらしたと、気づいたのでしょう」


 リリアは袖口を直した。


◆


 書庫へ向かうには、中央回廊を抜ける。


 昼前の皇宮には人の往来が多かった。


 文書を抱えた官吏、女官、護衛。


 使者らしい衣装の男たちも行き交っている。


 飛び交うヤシャラ語は、まだリリアには速い。


 それでも、聞き取れる言葉は増えていた。


 皇帝。皇宮。軍。法。祀院。


 そして――黒百合。


 その言葉が耳に入り、足が緩んだ。


 少し先、柱の向こうで三人の男が話している。


 続けて、皇帝陛下、庇護、皇宮という言葉が聞こえた。


 すべては分からない。


 けれど、最後の短い言葉は、聞き取れた気がした。


 ――陛下の黒百合。


「……今の」


 ファリダも足を止めた。


 男たちがこちらに気づく。


 一人が言葉を切り、ほかの二人も振り返った。


 三人は礼をすると、脇の回廊へ去っていった。


「ファリダさん。今、何と言っていたんですか?」


「リリアさんの滞在についてです。ここでお伝えしますか。それとも、少し落ち着ける場所へ?」


「ここで、聞きたいです」


 ファリダは人の流れを避け、柱のそばへ寄った。


「『陛下の庇護下にある黒百合』と。それから、一人が『陛下の黒百合』と言いました」


「聞き間違いではなかったんですね」


「はい」


 庇護を受けている。


 それは、間違いではない。


 ナディルが滞在を認め、警護もつけてくれている。


 けれど、最後の言葉は違った。


「……私は、陛下のものではありません」


 ファリダは頷いた。


「その通りです」


 リリアは、男たちが去った回廊を見た。


 何のためらいもなく口にされた言葉だった。


 自分の知らないところでは、あんなふうに呼ばれているのだろうか。


「サフィーヤ殿下に、お話を伺えますか」


「お戻りになりたいのですね」


「はい」


 ファリダは書庫へ向かう道から離れた。


 リリアも、その隣で歩き出した。


◆


 部屋へ戻ると、サフィーヤが書類から顔を上げた。


「どうしたの? 忘れ物?」


「いいえ。お聞きしたいことがあります」


 サフィーヤはリリアの顔を見て、書類を閉じた。


「座って」


 リリアが椅子に腰を下ろす。


 ファリダは、サフィーヤに促されて隣へ座った。


「何があったの?」


「私のことを、『陛下の黒百合』と話している方たちがいました」


「誰が?」


「お名前は分かりません」


 ファリダが、三人の名と回廊でのやり取りを伝えた。


 サフィーヤの指が、閉じた書類の上で重なる。


「あなたの滞在について、意見を出している者たちね」


「私の滞在?」


「ええ。まだ、陛下が採用した案ではないわ。ただ、本人の耳に入らないところで話が進むのもよくないわね」


 サフィーヤは、リリアへ向き直った。


「黒百合の巫女を、皇帝直属の存在として定めるべきだと考えている者がいるの」


「今も、陛下に保護していただいていますが……それとは違うんですか?」


「今は、あなたが保護を受けて皇宮に滞在している。直属の存在と定めれば、役目や指揮を受ける相手まで決めようとするでしょう」


 リリアは膝の上で指を重ねた。


「どこへ行くかも、ですか?」


「そこまで求める者もいると思うわ」


「私は、ここにいたい時だけ、いてもいいのだと思っていました」


「陛下との約束は、変わっていないわ」


 サフィーヤは念を押した。


「高官が案を出すことと、それが決まることは別よ」


 リリアは頷いた。


 けれど、先ほどの声は、もう決まったことを話すように聞こえた。


「祀院へ戻すべきだという意見もある」


「……戻す?」


「ええ」


「私は、祀院にいたことがありません」


「そうね」


「なのに、どうして『戻す』んですか?」


 サフィーヤは茶器へ伸ばしかけた手を止めた。


「その者たちは、あなたがどこで暮らしてきたかより、黒百合は祀院に属するという考えを先に置いているのよ」


「私がいたかどうかは、関係ないんですね」


「その言い方をする者にとっては、ね」


 リリアは右腕を見た。


 一度も暮らしたことのない場所へ、帰れと言われる。


「……変です」


「私も、そう思うわ」


 サフィーヤは、今度は茶器を持ち上げた。


 口をつけずに、手元で支える。


「ほかには、力を危険視する者もいる。皇宮の外へ出すべきではない、という意見ね」


「私を守るためですか。それとも、外へ出さないためですか?」


「その案が通れば、あなたが外出を望んでも、許可を待たせる理由にできるでしょうね」


 リリアの背中が硬くなった。


 扉の金具が鳴った時のことを思い出す。


 道を空けてくれなかった警護。


 自分の約束よりも先に出された、皇太后の配慮という言葉。


「私がどうしたいかは、聞かれないんですか」


「だから、今のうちにあなたにも知っておいてほしいの。何か書面を渡されたり、承諾を求められたりしても、その場で返事をする必要はないわ」


「ファリダさんに、相談しても?」


「もちろん。私でもいい。分からない言葉があれば、一つずつ確かめましょう」


 リリアは隣を見た。


 ファリダが頷く。


 少し息がしやすくなった。


◆


「古式に従い、あなたの意思を尊重すべきだという者もいるわ」


 サフィーヤの言葉に、リリアは顔を上げた。


「皇帝の臣下でも、祀院の所有物でもない。それは、謁見の時にも示されたことよ」


 右の掌を示し、返した時のことを思い出した。


 左手を胸へ添え、膝をつかずにナディルの前へ立った。


 ――花に道を。


 返した言葉は、御代に朝を。


 何も握っていない掌を見せた。


 けれど、黒百合を差し出したわけではなかった。


「礼をしたら、それで伝わるのだと思っていました」


「分かっていても、自分の都合のよい意味だけを取る人はいるわ」


 サフィーヤは茶器を置いた。


「ただ、あなたが何を望んでいるかを示す言葉にはなる。今日、聞いたことも、あなたがどう答えたかも、私から陛下へ伝えておくわ」


「お願いします」


 リリアは膝の上の手をほどいた。


「今日は、書庫へは行かずに、少し考えてもいいですか」


「ええ。借りている本の返却を急かしたりしないわよ」


 サフィーヤが少し笑った。


 リリアも、小さく頷いた。


◆


 午後、リリアは中庭へ出た。


 シリルは石壁のそばにしゃがみ込み、植え込みの根元を見ていた。


 ファリダは回廊の入口で、交代の警護から報告を受けている。


 こちらへ向けられた目に、リリアは軽く頷いた。


「また土ですか?」


 シリルが振り返る。


「またって何だよ」


「この前も見ていたでしょう?」


「違う場所だ」


「私には同じに見えます」


「全然違う」


 リリアが近づくと、シリルは植え込みの下から小さな石を拾い、脇へ置いた。


 その隣にしゃがむ。


「今日、『陛下の黒百合』と言われているのを聞きました」


 シリルが顔を上げた。


「誰に?」


「私に言ったわけではありません。高官の方たちが話していて」


 リリアは、サフィーヤから聞いたことを話した。


 皇帝直属にすべきだという声。


 祀院へ戻すべきだという声。


 力を危険視し、外へ出すべきではないという声。


 シリルは指についた土を払い、膝へ手を置いた。


「陛下が、そう決めたのか?」


「いいえ。まだ案だそうです」


「なら、今から従うことはない」


「はい」


 リリアは植え込みの葉を見た。


「それで、あなたが葛花で言っていたことを思い出しました」


「俺が?」


「守り人のことです」


 シリルがこちらを見る。


「黒百合の行き先を決めるんじゃない。自分で選ぶための時間と道を守る」


 あの時に聞いた言葉を、確かめるように口にした。


「ああ」


「今なら、あの時より少し分かる気がします」


「何が?」


「どうして『選ぶ』ことが、そんなに大事なのか」


 シリルはリリアの顔を見てから、植え込みへ目を戻した。


「……そうか」


 リリアは葉の縁へ指先で触れた。


「シリル」


「ん?」


「もし、私が選んだものが、あなたの望みと違っていたら?」


 シリルの眉が寄った。


「何の話だよ」


「例えばです」


「ずいぶん面倒な例えばだな」


「答えてください」


 シリルは片膝を立てた。


「反対なら、反対って言う」


「止める?」


「危なければ止める」


「それでは、私が決めることにはならないのでは?」


「危ないと思っても、黙って行かせてほしいのか?」


 リリアは口を閉じた。


 それも、違う気がした。


「……理由は、聞きたいです」


「なら、話す。おまえの考えも聞く」


「それでも、違っていたら?」


 シリルは息を吐き、リリアを見た。


「最後に決めるのはおまえだ。俺が嫌だからって、道を塞ぐわけにはいかないだろ」


「守り人だから?」


 シリルの目が一瞬、リリアから外れた。


「……それだけじゃない」


「え?」


「何でもない」


「今、何か……」


 シリルは立ち上がった。


「そろそろ戻るぞ。夕食だろ」


「誤魔化しましたね」


 リリアも立ち上がる。


「シリル、それだけじゃないって――」


「リリアさん」


 回廊の方から声がした。


◆


 ヴィクトルが歩いてきた。


「ファリダ殿から、そろそろお戻りいただきたいと」


 入口を見ると、ファリダがこちらへ手を添えていた。


「あ、はい」


 リリアは返事をしてから、シリルを見た。


「まだ、お話の途中です」


「歩きながらでも話せるだろ」


「さっきは終わりにしようとしていました」


 ヴィクトルが二人を見た。


「何のお話ですか?」


「私が選んだものが、シリルの望みと違っていたらどうするか、聞いていたんです」


「そうでしたか」


「最後に決めるのは私だと。それで、守り人だからかと聞いたら――」


「そこまで言わなくていい」


 シリルが遮った。


 ヴィクトルの視線が、シリルへ移る。


 何か分かったように口元が緩んだ。


「……何だよ」


「いえ。お話の邪魔をしましたね」


「そういう話じゃない」


 リリアは二人を見比べた。


「では、どういう話なんですか?」


 シリルは答える代わりに、回廊へ足を向けた。


 ヴィクトルが半歩退き、リリアへ道を譲る。


 リリアは、まだ聞けていない言葉を気にしながら歩き出した。


◆


 三人で回廊へ入る。


 リリアはヴィクトルの右側へ並び、ふと、その肩を見た。


「ヴィクトルさん」


「はい?」


「肩は、本当に大丈夫ですか?」


「問題ありません」


「天気によって引きつると、おっしゃっていたでしょう」


「覚えていてくださったんですね」


「覚えています」


 ヴィクトルは右手を軽く動かして見せた。


「この通りです」


 リリアは彼の顔を見てから、頷いた。


 灰熊の爪を遮った時のことを思い出す。


 あの時、黒百合の力が現れた。


 二人の間に、消えない縁が結ばれたことも、シリルから聞いている。


 けれど、それはヴィクトルの行き先を決めるものではないはずだ。


 自分が誰のものでもないのなら、彼もまた、黒百合のためにここへ留まらなくてはならない人ではない。


「ほかに、気になることがありますか?」


 見つめすぎたらしい。


 リリアは首を横に振りかけ、やめた。


「……あります。でも、まだうまく聞けません」


 ヴィクトルは足を緩めた。


「では、聞ける時に」


「はい」


 少し後ろで、シリルの靴音が止まった。


 リリアは振り返る。


「シリルも、行きましょう」


「行ってるだろ」


 シリルが二歩進み、隣へ並んだ。


 回廊の先では、ファリダが待っていた。


◆


 その夜、リリアは寝台の上で右手を開いた。


 今日聞いた言葉が、耳に残っている。


 ――陛下の黒百合。


 顔も名前もよく知らない人たちが、自分の行き先を話していた。


 皇宮。


 祀院。


 外へ出してはいけないという声。


 リリアは掌を返し、左手を胸へ添えた。


 謁見の時に覚えた動きだった。


「私の心と意思は、私自身のもの」


 声にしてみる。


 けれど、言っただけで、回廊の声が消えるわけではなかった。


 これから何かを尋ねられた時、答えに迷うこともあるだろう。


 その場で返事をしなくてもいいと、サフィーヤは言ってくれた。


 反対なら理由を話すと、シリルは言った。


 リリアは手を下ろし、卓上の紙へ目を向けた。


 明日は、サフィーヤに聞いてみよう。


 皇帝直属と定められたら、何を命じられるのか。


 祀院へ行くよう求められた時、どう断ればよいのか。


 リリアは寝台を降り、筆を取った。


 忘れないうちに、聞きたいことを書き留めた。



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