第二十六話 鏡の中の私
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「今日は、黒百合の力を試すのはお休みです」
朝食を終えたところで、ファリダが告げた。
「身体は何ともありません」
「では、そのまま一日過ごしましょう」
リリアは膝の上の手を見た。
右腕に痛みも、熱もない。
だからこそ、昨日の感覚を忘れないうちに、もう少し何かできるのではないかと思っていた。
「記録を読み返すのも、駄目ですか?」
「それは構いません。ただ、ほかのこともしてみませんか」
ファリダが卓上の箱を引き寄せ、蓋を開けた。
銀細工の髪飾りや色石、細い鎖。
それに、小さな化粧道具が収められている。
「きれい……」
「今日は、こちらを選んでいただこうと思いまして」
リリアは箱を覗き込んだ。
赤い石を留めた髪飾りに目が留まる。
隣には、淡紫の石が三つ並んだものがあった。
二つを見比べ、淡紫の方を手に取った。
光へかざすと、石の奥に薄い色が浮かぶ。
「これにします」
「やはり紫ですか」
「好きなんです」
「知ってます」
その下には、小さな白い花をかたどった銀細工があった。
リリアはそれも手に取り、二つを並べてみた。
「一緒につけたら、変ですか?」
「試してみましょう。気に入らなければ外せばいいんですから」
「そうですね」
リリアは二つとも、箱の外へ置いた。
◆
鏡の前の椅子に座ると、ファリダが後ろに立ち、黒髪を梳いていく。
「今日は、どうしましょう」
「全部は上げないでください。横の髪も少し残したいです」
「では、上の方だけまとめますね」
「はい」
髪を結い、淡紫の髪飾りを留める。
その横に、小さな白い花の銀細工を添えた。
リリアは顔を少しずつ動かし、鏡に映る飾りを眺めた。
「紫の方を、もう少し上にできますか?」
「このくらい?」
「あ、そこがいいです」
ファリダが留め直す。
白い花が、紫の石のすぐ下へ収まった。
「楽しいです」
「髪を結うのが?」
「いろいろ試すのが」
鏡の中で、ファリダが笑った。
「まだ、こちらもありますよ」
化粧道具の蓋が開く。
薄紅や淡い褐色、紫を含んだ灰色の顔料が、小さな器に収められていた。
「お化粧もしてみましょう」
「はい」
ためらわずに頷くと、ファリダが少し目を見開いた。
「何ですか?」
「以前なら、『必要ですか?』と聞かれたかもしれないと思って」
リリアは鏡を見た。
「必要じゃなくても、してみたいです」
「では、そうしましょう」
「これは目元に使うんですか?」
「そうです」
「こちらは?」
「頬と唇に使います」
リリアは色を見比べ、淡い紫を指した。
「目元は、これがいいです」
「目を閉じてください」
瞼に筆が触れる。
「くすぐったいです」
「少しだけ、じっとしていてくださいね」
「はい」
目元に淡い色をのせ、頬に薄紅を差す。
唇にも、ほんの少し色をつけた。
「できました」
リリアが目を開ける。
鏡の中には、淡紫と白の髪飾りをつけ、いつもより少しだけ色づいた自分がいた。
「どうです?」
「好きです」
ファリダは筆を置いた。
「何よりです」
「ファリダさんは、こういうことも好きなんですね」
「好きですよ」
「剣のお手入れをしている時と、少し似ています。楽しそうで」
「そんなところまで見ていたんですか」
「いつも丁寧に磨いていますから」
「手をかけた分、きちんと仕上がるのは嬉しいものです」
ファリダが髪飾りの留め具を確かめる。
リリアはその手元を鏡越しに眺めた。
◆
「ファリダさん」
「はい」
「私、ファリダさんがいなくなったら、とても困ると思います」
道具を片づけていた手が止まった。
「ずいぶん唐突ですね」
「そうですか?」
「ええ。何がお困りになります?」
リリアは指を折った。
「ヤシャラ語を教えてくれる人がいなくなります」
「サフィーヤ殿下がいらっしゃいます」
「礼法も」
「それも殿下が」
「護身術」
「教官がいます」
「髪も、お化粧も」
「女官がいますね」
リリアは折りかけた指を戻した。
「そういうことではないんです」
ファリダが鏡の中のリリアを見る。
「ファリダさんがそばにいると、安心するんです」
部屋の外で、誰かの足音が通り過ぎた。
ファリダは最後の器に蓋をしてから、リリアの肩へ軽く手を置いた。
「では、当分いなくならないようにしますね」
「当分?」
「一生とは約束できませんから」
「そこまでは言ってません」
「そうですか?」
「そうです」
二人で顔を見合わせて笑った。
◆
同じ頃、第一皇后宮の小さな茶室を、メフリナが訪ねていた。
ルキーヤが迎え、女官が茶を置いて扉の外へ下がる。
「リリアを馬場へお招きになったそうですね」
メフリナの問いに、ルキーヤは茶器を持ち上げた。
「ええ。少し乗ってもらったわ」
「三年前の落馬を思い出したと聞いています」
「途中でね。本人が乗りたいと言ったから見守っていたけれど、そのあとは休んでもらったわ」
「そうでしたか」
メフリナは茶を一口飲んだ。
「私も、書庫で過去の巫女たちの記録を一緒に読んでいます」
「リリアが望んだの?」
「ええ。分からないままでいる方が怖い、と。次に誰かを守ろうとした時のために、力について知りたいそうです」
ルキーヤは茶器を下ろした。
「どんな記録を読んでいるの?」
「力が現れた時の状況や、その後の経過が残っているものです。自分では止められなくなった例もありました」
「その写しを、見せてもらえるかしら」
「古い記録の部分でしたら、書庫官に用意させます。リリア自身が話したことや、昨日書いた記録については、本人に確かめてからにしたいのですが」
「ええ。それで構わないわ」
ルキーヤは茶器の向きを直した。
「私も、馬場であの子の過去を聞いたわ。でも、公爵家へは報告していないわ」
「第一皇后陛下がお会いになるだけで、公爵家が動いたと考える者もいるでしょう」
「あなたも同じよ。書庫で教えることを、ヴァルザード家のためだと見る者もいる」
「姉からも、リリアの様子を尋ねられました」
ルキーヤが顔を上げた。
「何と答えたの?」
「皇宮で過ごしている、とだけ。力についての記録は渡しておりません」
「それで納得した?」
「返事はまだです」
ルキーヤの口元が、わずかに動いた。
「お互い、気を遣うわね」
「ええ」
メフリナは袖から、折り畳んだ紙を取り出した。
「こちらも、ご覧いただきたくて」
「歌の写し?」
「二振りの剣の歌に、別の歌い手が加えた一節だそうです」
ルキーヤは紙を開いた。
――黒き花は冬に咲き、異国の姫は朝を待つ。
――二振りの剣は姫のそば、近くも遠くも離れずに。
――姫は誰の声を聞き、どの道を選ぶのか。
「二人の姿は歌うのに、姫自身の言葉はないのね」
ルキーヤはもう一度、最後の行を読んだ。
「祭りでリリアが何を語るか、聞きたくなる歌ではあるわね」
「その一方で、誰の声を聞いて選んだのかを、気にする者も出るでしょう」
「誰が広めているかは?」
「元の歌を歌う者が多く、まだ絞れておりません。新しい一節を渡した者と、謝礼を出した者を調べています」
ルキーヤは紙を卓へ置いた。
「こちらには、祀院に近い者が歌の一節を利用しているという報告があるわ。アルザーン家に出入りする者と、仲介人が接触したという話も」
「皇太后陛下のご指示だと?」
「接触したというだけで、断定はできないわ」
メフリナは頷いた。
「分かったことがあれば、私からもお伝えします」
「あなたの生家が関係していても?」
「確かめられたことがあれば」
ルキーヤはメフリナを見た。
「姉君は、イリヤス殿下の将来を案じているのでしょうね」
「姉はヴァルザード侯爵家の当主として、イリヤスが皇位を継ぐ可能性を、少しでも残しておきたいのでしょう」
「あなた自身は?」
「今の継承順位を覆すつもりはありません」
メフリナは茶器から手を離した。
「アミラ殿下が第一位、イリヤスが第二位。その順を変えるために、リリアを頼ることもいたしません」
「姉君にも、そう伝えているのね」
「はい。ただ、姉がどう動くかまで、私がお約束することはできません」
「そうね。私も、父や兄の考えを代弁できるわけではないわ」
ルキーヤは窓の外へ目を向けた。
「父も兄も、今の継承秩序を支えている。私もアミラを支える。けれど、そのためにリリアの名を使うつもりはない」
「その点では、同じ考えでいられそうです」
「ええ」
ルキーヤは歌詞の写しを手元へ寄せた。
「歌い手を捕らえれば、かえって注目を集めるでしょうね」
「歌詞を渡した者と、金の流れを追う方がよいかと」
「では、確かめたことを持ち寄りましょう。噂は、噂として分けて」
「承知しました」
メフリナが席を立つ。
ルキーヤは卓上の写しを押さえた。
「これは、預かっても?」
「はい。そのためにお持ちしました」
「ありがとう」
扉が開かれるまで、二人はそれ以上、口を開かなかった。
◆
夕方、サフィーヤのもとへ本を返しに行く途中だった。
回廊の向こうから、ヴィクトルとシリルが歩いてきた。
二人ともリリアを見て、歩みを緩める。
「……変ですか?」
「いいえ。よくお似合いです」
ヴィクトルが答えた。
「本当ですか?」
「はい」
「ファリダさんにしてもらったんです。ここにも少しだけ色を入れているんですよ」
リリアは目元を示した。
「ええ。分かります」
ヴィクトルはそう答え、わずかに視線を逸らした。
「よかった」
リリアは笑って、シリルを見た。
「シリルは?」
「何が?」
「似合ってますか?」
「俺にも聞くのか?」
「聞きます」
シリルは淡紫の飾りと白い花を見てから、リリアの顔に目を戻した。
「……似合ってる」
「本当?」
「何で二回聞くんだよ」
「シリル、適当に言いそうだから」
「だったら聞くな」
「でも、聞きたいです」
シリルは小さく息を吐いた。
「似合ってるって言っただろ」
「ありがとうございます」
リリアが笑う。
シリルは視線を逸らし、ヴィクトルはその横顔を見ていた。
サフィーヤの部屋へ入ると、彼女は書類から顔を上げた。
「今日は、ずいぶん楽しそうね」
「分かります?」
「分かるわ」
「髪飾りとお化粧のせいでしょうか」
「それもあるでしょうけれど、笑っているからじゃない?」
リリアは頬に触れた。
「そうですか」
「ええ。こちらへ来て。髪飾りをよく見せて」
リリアは借りていた本を卓へ置き、サフィーヤのそばへ寄った。
白い花の細工を褒められると、自分で選んだ時よりも嬉しくなった。
◆
その夜、皇太后宮の一室で、サミラは側近と向かい合っていた。
卓上には、歌詞を書いた紙が置かれている。
護衛を入れ替える働きかけには、ナディルから制止が入った。
次は、リリアのそばにいる者を動かす必要はない。
「祭りで、別の歌を広めるのですね」
側近が尋ねた。
「ええ。二振りの剣の歌は、リリアを自分で選ぶ姫のように描いている。聞き手に、あの子が自分の意思で話すのか疑わせる歌が必要です」
サミラは紙を側近の前へ滑らせた。
「二振りの剣を、あの子を縛るものとして歌いなさい。救いは祀院にあると思わせるのです。ただし、誰の名も出さずに」
側近は歌詞へ目を落とした。
――異国の檻に繋がれて
――黒き乙女は明日を知らず
――傷つきし翼は羽ばたけず
――遠き故郷の夢を見る
――憐れむべし、幼き黒百合
――己が名さえ奪われし姫
――いま誰の囁きに導かれ
――惑いの言葉を口にするのか
――風よ伝えよ、哀しき花に
――帰るべき場所はただ一つ
――異邦の刃を遠ざけて
――古き祈りの腕に抱かれよ
――清らかなる社の庇護こそ
――傷つきし乙女の救いなれ
――黒き百合よ、もう戦うな
――静かに祈りの朝を待て
「歌い手に説明はさせないこと。問いかけられても、古い黒百合の歌だと答えさせなさい」
「リリア様を祀院へ戻せと、直接訴えるのではなく?」
「『戻れ』とは歌わせません。『帰るべき場所』でよいのです」
サミラは歌詞の一行へ指を置いた。
側近は紙を畳んだ。
「歌い手には、古い歌を集める者から届いたものとして渡します。仲介する者にも、依頼主は知らせません」
「皇太后宮へ結びつく名を決して残さぬように」
「承知しました」
「祭りで本人が何を話しても、この歌を思い出す者がいればよいのです」
サミラは窓の外へ目を向けた。
「本人の声を封じる必要はありません。聞き手が信じなければ、それで足りる」
側近が退出すると、サミラは手元に残した歌詞の控えを引き寄せた。
紙の上の「憐れむべし」という言葉に指先が触れる。
彼女は歌詞を畳み、封をした。
◆
夜、ファリダが化粧を落とす。
目元、頬、唇。
鏡の中の顔が、少しずついつもの自分へ戻っていく。
「……なくなってしまいました」
「化粧ですから」
「少し、もったいないです」
「またすればいいでしょう?」
リリアはファリダを見た。
「また?」
「ええ」
「次は、違う色も試してみたいです」
「何色にします?」
「まだ決めてません」
「では、次のお楽しみですね」
「はい」
ファリダが髪飾りを外し、結っていた髪をほどいた。
黒髪が肩へ落ちる。
リリアは箱へ戻された飾りを眺めた。
「ファリダさん」
「はい?」
「次は、あの赤い石の髪飾りも使ってみたいです」
「紫ではなく?」
「紫も使います」
「両方?」
「はい」
ファリダが笑った。
「欲張りになりましたね」
「いいでしょう?」
「もちろんです」
リリアは鏡の中の自分を見た。
髪飾りも、目元の色も、もうない。
それでも、口元には笑みが残っていた。




