第二十五話 失敗してもいい
◆
翌日の午後、リリアはファリダ、シリル、ヴィクトルとともに書庫へ向かっていた。
抱えているのは、メフリナから借りた記録の写しだった。
今日は、シリルに伝わっていることとも照らし合わせる。
そのために、二人にも一緒に来てもらうことになっていた。
回廊を曲がると、数人の警護が待っていた。
衣の縁取りが、いつもの警護とは違う。
先頭の男が進み出た。その後ろで、二人が回廊の左右へ分かれる。
ファリダが足を止めた。
「皇太后宮の警護長が、何の御用ですか」
男はリリアへ礼をした。
「皇太后陛下のお申しつけにより、補助警護のご相談に参りました」
「私の警護ですか?」
「はい。皇宮に不慣れでいらっしゃるリリア様を、陛下が案じておられます」
ファリダは左右に立った者たちにも目を配った。
「皇帝陛下直属の警護とは、調整を済ませているのですか」
「これからお話しするところです。皆様の任務を妨げるつもりはございません」
警護長はヴィクトルへ向き直った。
「併せて、ヴィクトル殿には、東回廊の警備詰所でローダン側の追手についてお話を伺いたく存じます。シリル殿には、守り人として確認していただきたいことがございます」
左右の警護が、それぞれ片手で行き先を示した。
別々の方向だった。
「何の確認だ」
シリルが尋ねる。
「黒百合の巫女の警護についてです。こちらの別室へ」
「ここで聞けばいいだろ」
「人の通る場所では、差し障りがございますので」
警護長が片手を動かした。
ヴィクトルの脇へ男が近づく。
「ご案内いたします」
ヴィクトルは動かなかった。
「必要なお話でしたら、協力します。ただ、今はリリアさんとの約束があります。日時を改めて決めていただけますか」
「お話を伺う間は、こちらの者が補助に入りますので」
別の男がリリアの前へ進もうとした。
ファリダが半歩ずれ、その間に立つ。
「そこでお待ちください」
男の足が止まった。
書庫へ続く回廊が、警護の肩と肩の間から細く見えた。
リリアは紙を抱き寄せた。
「今日は、一緒に来てもらいたいんです」
「書庫には、随衛殿もおられます」
「はい。でも、二人とも約束をしています」
「確認は、長くはかかりません」
シリルの近くにいた警護が、別室の扉へ手をかけた。
金具が鳴る。
リリアの指が強張った。
「別の時間では、駄目でしょうか」
「すでに詰所にも、人を待たせております」
「こちらは、今初めて伺いました」
ヴィクトルの声が低くなった。
「案内は結構です。今日は同行します」
警護長の口元から笑みが消えた。
「皇太后陛下のご配慮を、お断りになるということですか」
シリルが一歩、リリアのそばへ戻ろうとした。
脇にいた警護も動く。
「そこを空けろ」
ファリダがすぐに声を挟んだ。
「皆様、その場でお待ちを」
シリルが足を止める。
警護も、それ以上は近づかなかった。
「皇太后陛下のご配慮は承りました。補助警護についても、お聞き取りについても、調整には応じます」
「でしたら――」
「ですが、今ここで、お二人をお連れになることには同意しておりません」
回廊の奥から足音がした。
黒い衣の男が、柱の陰から姿を現す。
衣には、皇帝直属を示す小さな印があった。
警護長がそちらを見る。
ファリダは相手から目を離さなかった。
「リリアさんの第一随衛は、皇帝陛下の命により私が務めています。警護に関わるご相談であれば、まず私を通してください」
リリアはヴィクトルの袖を見た。
手を伸ばせば届く。
掴みかけた指を、抱えている紙へ戻した。
「私は、二人と書庫へ行きます」
声が震えた。
それでも、警護長の顔を見た。
「お話をする時間は、ファリダさんと決めてください」
黒衣の男が回廊の端で止まる。
「調整の申し出は、こちらからもお伝えする」
警護長は男を認め、背筋を伸ばした。
開かれた別室の扉へ目を向けたあと、頭を下げる。
「……承知しました。改めてご連絡いたします」
部下たちが左右へ退いた。
ファリダが歩き出す。
リリアも続いた。
別室の前を通り過ぎる時、扉の閉まる音がした。
肩が跳ねる。
「リリアさん」
ヴィクトルの声が、すぐ隣でした。
顔を上げると、彼もシリルも同じ歩調でついてきていた。
「……はい」
書庫の扉の前で、ファリダが足を止めた。
「今の件は、私からも皇帝陛下の近侍へ報告します」
「お願いします」
抱えていた紙の端が、少し折れていた。
リリアは指でそっと伸ばした。
◆
その日の夕刻、ナディルのもとへ、皇太后宮からの配置案とファリダの報告が届いた。
サミラが執務室を訪れた時、二枚の書類は机の上に並べられていた。
「補助警護の件で、お呼びになったのでしょう?」
「母上の警護長が、リリアたちの進路を塞いだそうだ」
サミラの手が椅子の背に触れた。
「随衛の通行は妨げないよう、伝えてありました」
「だが、実際には妨げた。ヴィクトルとシリルを、その場で別々に連れていこうともした」
「二人の知ることは、警護にも役立つはずです」
「聞き取りが必要なら、日時を定めればよい。補助の者を連れていき、同行者と入れ替わる理由にはならぬ」
サミラは椅子へ腰を下ろした。
「あの子にも、この宮で頼れる者を増やしてほしいのです」
「それは、二人を遠ざけずともできる」
「いつもそばにいる者の言葉ほど、重くなるものですよ」
ナディルは報告書から顔を上げた。
「母上の言葉も同じだ」
サミラが息子を見る。
「皇太后の配慮だと言われれば、断りにくい。断った相手の進路まで塞げば、協力を求めたとは言えぬ」
「警護長には、私から申し聞かせます」
「そうしてもらおう。今後、リリアの警護を変更する際は、第一随衛と直属の警護を通せ。母上の配下にも徹底させよ」
「分かりました」
ナディルは配置案を手に取った。
「補助警護の配置は、こちらで確認する。それまでは現行の警護を維持する。二人への聞き取りは、ファリダを通して日程を定めること」
「そのように伝えましょう」
「リリアも、同行する二人も断っている。その返事を、皇太后への拒絶にすり替えることは認めぬ」
サミラの指が膝の上で重なった。
「陛下は、あの子の望みをすべてお認めになるのですか」
「危険があるなら説明する。必要なら制止もする。だが、今日の件に、その必要があったとは認められぬ」
ナディルは配置案をサミラの前へ差し出した。
「リリアは、私が滞在を認めた客人だ。この宮で交わした約束を、私の側の者が一方的に取り上げることは許さぬ」
サミラは書類を受け取った。
「承知しました」
「母上が案じていることは分かっている。だが、あの子が誰を頼るかまで、先に決めてはならぬ」
サミラはナディルの顔を見たあと、席を立った。
一礼して、執務室を後にする。
ナディルは残された報告書を、もう一度開いた。
◆
数日後、リリアたちは皇宮の内庭にいた。
卓には、記録の写しと白い紙が並んでいる。
壁際の石台には小さな鉢植えが置かれ、白い花をつけた細い枝が風に揺れていた。
門の外には、皇太后宮から来た補助警護が二人控えている。
配置はファリダたちと調整されたという。
ヴィクトルへの聞き取りも、別の日に行われた。
シリルもファリダとともに警護について話したが、二人が同時にリリアのそばを離れることはなかった。
「今日は、あなた自身の記録も作ってみましょう」
メフリナが椅子を勧めた。
「いつ力が現れて、その前後に何があったか。覚えている範囲で残しておきたいの」
リリアは腰を下ろした。
「三年前のこともですか?」
「書ける範囲でいいわ。人から聞いたことは、そう分かるように添えましょう」
リリアは筆を取った。
灰熊に襲われた時のことから書き始める。
ヴィクトルが前へ出た。
爪が振り下ろされた。
助けたいと思った。
黒い霧のようなものが現れた。
そこまで書いて、筆が止まった。
「右腕が熱くなったのは、力が出る前だったでしょうか」
シリルが紙を覗き込む。
「そこは、おまえにしか分からない」
「……覚えていません」
「なら、覚えてないと書けばいい」
リリアは余白へ、小さく書き添えた。
ヴィクトルは、自分へ振り下ろされた爪と、それを遮った黒いものについて話した。
リリアは、彼が見たことを別の紙へ書き留めた。
同じ出来事でも、覚えているものは少しずつ違っていた。
「今、右腕はどう?」
メフリナに尋ねられ、袖を少し上げた。
黒百合の痣は、いつもと変わらない。
「痛くありません。熱もないです」
そのことも書いた。
リリアは筆を置き、右手を開いた。
「……思い出すだけでは、出ないんですね」
「少なくとも、今はな」
シリルが答えた。
◆
卓の端には、短いロウソクが一本あった。
紙を読むには十分明るいのに、火がつけられている。
リリアの目がそこへ留まると、メフリナが言った。
「シリル殿と相談したの。何かを守ろうとした時の感覚を確かめるなら、消えてもつけ直せる火はどうかと」
「この火を、風から守るんですか?」
「試すかどうかは、あなたが決めていいわ。ただ、私には力の出し方を教えることはできない」
リリアは炎を見つめた。
小さな火なら、誰かを危ない目に遭わせずに済む。
「やってみたいです」
メフリナは燭台の周囲から紙を遠ざけた。
「では、火を見て、腕に変化があるか確かめるところまで。無理に力を出そうとしないこと」
「はい」
「痛みや気分の悪さがあれば、すぐにやめましょう」
ファリダが水差しを手元へ寄せた。
メフリナは薄い板を取る。
「少し風を送るわね」
リリアは頷いた。
黒い霧が炎を囲むところを思い浮かべる。
風が当たっても、消えないように。
板がゆっくり動いた。
火が傾く。
リリアは右手を握りかけ、開いた。
守りたい。
けれど、右腕は熱くならなかった。
もう一度、風が送られる。
炎が細く伸び、消えた。
芯から白い煙が一筋上がる。
「……出ませんでした」
リリアは自分の腕を見た。
袖口にも掌にも、何も現れていない。
「痛みは?」
「ありません」
「では、そのことを書いておきましょう」
リリアは消えた芯を見つめた。
「もう一度だけ、できませんか」
「まず、今のことを確かめましょう」
メフリナは板を置いた。
リリアは膝の上で指を曲げる。
火を守ろうと思った。
霧の形も考えた。
それでも、何も起きなかった。
「灰熊の爪は止められたのに、どうして……」
「その時と、今とで違ったことはあるか?」
シリルに尋ねられ、炎のあった場所から目を離した。
「……あの時は、考えるより先でした」
「今は?」
「どうすれば出るのか、ずっと考えていました」
リリアは筆を取った。
ロウソクの火を風から守ろうとした。
霧を思い浮かべた。
力は出なかった。
右腕に熱も、痛みもなかった。
最後の一行を書く時、筆先が少し強く紙へ触れた。
◆
庭を抜けた風が、卓上の紙をめくった。
リリアは手で押さえた。
同時に、壁際で小さな音がした。
鉢植えの枝が大きく揺れていた。
小さな鉢が石台の端で傾く。
底が縁を外れ、そのまま滑り落ちた。
「あっ」
リリアは椅子を押し退けるように立ち上がり、手を伸ばした。
白い花が一輪、鉢とともに落ちていく。
割れてしまう。
右腕が熱くなった。
袖口から黒いものがこぼれ、落ちる鉢の下で薄く広がる。
ほんの一瞬、鉢の勢いが鈍った。
ヴィクトルが身を屈め、両手で受け止めた。
黒いものが彼の指の間を抜け、消えていく。
ヴィクトルは鉢を支えたまま、自分の手元を見た。
「……ほとんど、衝撃がありませんでした」
リリアは伸ばしていた腕を下ろした。
「今の、黒いものが?」
「受け止める直前に、落ちる勢いが弱まりました」
鉢を持ち直し、ヴィクトルが顔を上げる。
「手に乗ってから、重みを感じたくらいです」
リリアは自分の袖口を見た。
もう何も残っていない。
「右腕は?」
シリルがすぐに尋ねた。
「少し、熱くなりました」
ファリダが椅子を戻し、背に手を添える。
「お座りください。痛みや、気分の悪さはありませんか?」
リリアは腰を下ろし、自分の身体を確かめた。
「大丈夫です。熱も、もう引いています」
ヴィクトルが鉢を見せた。
縁も底も欠けていない。
白い花が小さく揺れていた。
「花も無事ですよ」
「……よかった」
リリアは、ようやく肩の力を抜いた。
◆
メフリナはヴィクトルから鉢を受け取り、壁際の地面へ置いた。
卓へ戻ると、リリアの顔を確かめる。
「今のことを、覚えているうちに書ける?」
「はい」
リリアは筆を持った。
鉢が落ちた。
花が折れ、鉢が割れると思った。
右腕が熱くなった。
黒いものが見えた。
「私、鉢を受け止めたんでしょうか」
「落ちる勢いが弱まったことは、確かです」
ヴィクトルが答える。
「ただ、私が手を出さなければ、そのまま止まっていたかどうかまでは分かりません」
リリアは頷き、その通りに書いた。
「守ろうとしたのは、花か」
シリルの問いに、鉢を見る。
「はい。割れて、花まで駄目になってしまうと思いました」
人を守ろうとした時だけではなかった。
けれど、何をどこまで守れるのかは、まだ分からない。
「ロウソクの時は、出なかったのに」
リリアは二つの記録を見比べた。
どちらも、守りたいと思った。
そのつもりだった。
「火が消えても、つけ直せると分かっていたからでしょうか」
「そうかもしれないし、ほかに違いがあるのかもしれないわ」
メフリナが答えた。
「今すぐ、一つに決めなくていいのよ」
リリアは右腕へ目を落とした。
「さっきの感じを覚えているうちに、もう一度……」
言いかけて、鉢を見る。
落ちるところを思い浮かべればいいのか。
「……どう試せばいいのか、分かりません」
「なら、今日はここまでにしよう」
シリルが言った。
「でも、次には忘れてしまうかもしれません」
「忘れそうなところから書こう。俺が見ていたことも話す」
リリアは筆先を見た。
「どうすればできるのか、早く知りたいんです」
「俺も知りたい」
シリルは卓の向こうへ椅子を寄せた。
「けど、今は実際に力が出た。疲れてないかも確かめたい。続きは、教えられる者に相談してからにしよう」
リリアは右手を開き、閉じた。
指は動く。痛みもない。
それでも、今出た力が、身体に何を残したのかまでは分からなかった。
紙へ目を戻す。
右腕の熱は、どれくらい続いたか。
黒いものが消えた時、何か感じたか。
まだ書いていないことがあった。
「……はい」
◆
書き終えた紙を、メフリナに渡した。
彼女は一行ずつ確かめ、リリアへ返す。
「日付も入れておきましょう。後から読み返す時に、分かるように」
リリアは紙の上へ日付を書き足した。
「花の時も、うまく使えたのかは分かりません」
「ええ」
「自分で止めたのかも」
「それも、まだ分からないわね」
リリアは、ロウソクについて書いた紙を引き寄せた。
力は出なかった。
その一行が目につく。
「次も、できなかったら……」
メフリナがリリアへ顔を向けた。
「また火が消えて、何も起きなかったら、どうすればいいんでしょう」
「何を試して、どうなったかを確かめましょう」
「失敗しても?」
「ええ。火が消えても、またつけられるでしょう。次に試す時も、うまくいかなかっただけで誰かが傷つくような方法は避けましょう」
リリアはメフリナを見た。
「できないまま、終わってもいいんですか」
「その日のうちに、できるようになるとは限らないでしょう。疲れたら休んで、また考えればいいわ」
返事をしようとして、喉が詰まった。
今日は、できなかった。
そう告げて、終わってもいい。
次にどうするかを、誰かと考えてもいいのだ。
リリアは頷き、筆を置いた。
メフリナがロウソクへ火を戻した。
小さな炎が、芯の先に灯る。
リリアは、その火をしばらく見つめていた。
◆
内庭を出ると、補助警護の者たちが門の外で礼をした。
ファリダが帰路を伝える。
彼らは持ち場に残り、リリアたちの後ろについてくることはなかった。
リリアは両手で記録の紙を挟んだ。
ロウソクの火は、守れなかった。
花を守れたのも、自分の力だけだったとは言えない。
それでも、今日起きたことは、ここに書いてある。
「次に書庫へ行く時、これも持っていきます」
ヴィクトルが頷いた。
「私が見たことも、書いてお渡しします」
「俺も、覚えてることをもう一度確かめる」
「ありがとうございます」
回廊へ入る前に、リリアは紙を一枚めくった。
まだ、何も書かれていない裏側がある。
次に分かったことは、ここへ書こう。
リリアは紙を丁寧に重ね直し、三人とともに歩き出した。




