第二十四話 守るために咲く花
◆
「黒百合の力について、もっと知りたいです」
口にしたあと、リリアは自分でも少し驚いた。
皇宮の書庫。
いつもの机の向こうで、メフリナが顔を上げる。
「何か、気になることがあった?」
リリアは右腕を見た。
長い袖の下には、黒百合の痣がある。
「分からないままにしておく方が、怖いと思うようになったんです」
メフリナは筆を置いた。
「怖くなくなった、とは言わないのね」
「怖いです」
黒い霧。
花弁のように広がったもの。
灰熊の爪を止めた力。
そして、三年前の馬場で起きたこと。
「でも、また力が出た時に、何も知らないままでいたくないんです」
メフリナが小さく頷いた。
「分かったわ。記録を見てみましょう」
そばに控えていた書庫官へ指示を出す。
しばらくして、古い本が一冊運ばれてきた。
表紙は黒ずみ、革の端は擦り切れていた。
メフリナが頁を開くと、細い文字が隙間なく並んでいる。
リリアは身を寄せたものの、すぐに眉を下げた。
「……やっぱり読めません」
「古い言葉も多いもの。私が訳すわ」
メフリナは本を少しリリアの方へ寄せた。
「歴代の黒百合の巫女について残された記録を、後の時代にまとめたものよ。力が現れた時のことも書かれているわ」
「使い方も分かるんですか?」
「手がかりはあると思う。ただ、これを読めばすべて分かる、というものではないわ」
リリアは意外に思った。
「ヤシャラでも、分からないことがあるんですね」
「ええ。記録が失われた時代もあるし、書いた人が実際に見たとは限らないでしょう。残っているものも、確かめながら読まなくては」
メフリナは頁をめくり、ある一節で指を止めた。
古い言葉を読み上げてから、ローダン語に訳す。
「黒百合は、自らのためには咲かず。守らんとするもののために咲く」
「……それは、知っています」
「誰から聞いたの?」
「シリルです。誰かを守ろうとした時に、力が現れると」
「守り人の家にも伝わっているのね」
メフリナの指が、その下の行へ移った。
「続きには、こうあるわ。黒百合の花は、一つの形にあらず」
「力の形が、違うんですか?」
「記録ではね」
敵の刃を防いだ巫女。
霧で村を隠した巫女。
争う者たちの間に、誰も越えられない壁を作った巫女。
追手から逃れる人々の気配を覆い隠した巫女。
メフリナが読み上げる記録に、リリアは耳を傾けた。
読めない文字の向こうに、知らない誰かがいる。
「私が使った力も、その中にあるんでしょうか」
「どんなものだったの?」
「黒い霧のようなものでした。花弁にも見えました」
灰熊の姿が脳裏に浮かぶ。
ヴィクトルへ振り下ろされた爪。
間に合わないと思った。
「ヴィクトルさんが、灰熊に襲われたんです。その爪を止めました」
「その時、力を使おうと考えた?」
リリアは首を横に振った。
「ただ、助けたいと思いました」
次の瞬間には、もう黒いものが広がっていた。
何をしたのか、自分でも分からなかった。
メフリナは記録に目を戻した。
「刃を防いだという記述とは、重なるところがあるわね。ただ、同じものだったかは、これだけでは判断できないわ」
リリアは頷いた。
同じではないかもしれない。
それでも、似たことを経験した人が、遠い昔にもいたのだ。
◆
「うまく扱えなかった例もあるわ」
メフリナが別の頁を開いた。
「十五歳の少女の記録よ。家族が襲われた時、初めて黒百合の痣が現れたとある。少女は弟を守ろうとして、黒い霧を生じさせた」
「弟さんは、助かったんですか?」
「ええ。けれど、霧はその後も広がり続けたそうよ」
屋敷と庭。
その周囲の道まで覆われ、助けに来た者も近づけなくなった。
少女は弟を抱いたまま、霧の中心から動けずにいたという。
「……どうなったんですか」
「半日ほどして力が尽き、ようやく霧が晴れた。二人とも生きていたわ」
リリアは、詰めていた息を吐いた。
「よかった」
「ただ、少女はしばらく寝台を離れられなかったそうよ。弟も、姉が倒れるまで外へ出られなかった」
メフリナは、古い文章を指した。
「ここには、こう記されている。花は応じた。されど、娘は花の導き方を知らず」
リリアは、その一文を見つめた。
馬の嘶きが、耳の奥によみがえる。
――違う。ここは書庫だ。
分かっているのに、音が重なった。
激しい蹄。
誰かの悲鳴。
大きく揺れる馬体から、小さな身体が落ちていく。
アン様。
伸ばした手。
右腕を焼くような熱。
何が起きているのか分からない。
それでも、助けたかった。
「リリアさん」
ファリダの声がした。
リリアは息を吸った。
目の前には古い本があり、指先は机の縁を掴んでいた。
「……大丈夫です」
ファリダは触れず、すぐ隣に立っていた。
メフリナが本から手を離す。
「少し休みましょうか」
「いえ。読めます」
そう答えてから、言い直した。
「……聞けます」
「急がなくていいのよ」
リリアは頷き、机を掴んでいた指を緩めた。
「三年前の馬場を、少し思い出しました」
メフリナは椅子に座り直し、リリアへ身体を向けた。
「アン様が馬から落ちて、助けようとしたんです。その時に、黒百合の痣が現れたと聞いています。今、思い出せるのも、その辺りだけで……」
右腕の熱。
伸ばした手。
その先は、まだ見えない。
「私も、この人と同じだったのかもしれません。力をどう使うのか、どう止めるのか、何も知らなくて」
声が少し小さくなった。
「何かを失敗したんだと思います」
「何があったか、思い出せたの?」
「いいえ。全部は、まだ」
「なら、失敗したかどうかも、分からないわね」
リリアは唇を開きかけた。
メフリナは、その顔を見ながら続けた。
「似ているところはあると思う。でも、この少女の記録だけで、あなたに何が起きたかまでは決められないわ」
「……はい」
「思い出したことと、そうかもしれないと思ったことは、分けておきましょう」
リリアはもう一度、本を見た。
十五歳の少女。
この人の経験は、自分の過去をそのまま教えてくれるものではない。
それでも、続きを知りたかった。
「この人は、その後どうなったんですか?」
メフリナが頁をめくる。
リリアは少し身構えた。
力を恐れ、二度と使わなかったのか。
祀院に閉じ込められたのか。
「力の扱い方を学んだそうよ」
「……使うのを、やめなかったんですか?」
「ええ。後に残した言葉には、怖くて眠れず、弟が近づくのさえ恐れたとあるわ」
それでも少女は学んだ。
メフリナが続きを読み、ローダン語に訳す。
「二度と、守ろうとした者まで閉じ込めないために」
リリアは顔を上げた。
「誰かが、この人に教えたんでしょうか」
「誰に教わったかまでは、ここには書かれていないわ。ただ、少しずつ扱えるようになったとは記されている」
リリアは右腕を見た。
◆
三年前の馬場で、何が起きたのか。
そのすべては、まだ思い出せない。
けれど、その後の自分がどう扱われたのかは知っている。
処罰。
十二回の鞭打ち。
痣を抑えるために飲まされた薬。
失われたままの記憶。
「もし、私があの時、力の使い方を間違えたのだとしても」
胸が苦しくなった。
それでも、言葉を続けた。
「次はどうすればいいのか、学ぶこともできたんですね」
メフリナの指が、開かれた頁の端で止まった。
「少なくとも、この少女には、その機会があったわ」
リリアは頷いた。
「私は、使ってはいけないものだと思っていました。怖いものだから、出してはいけない。隠さなくてはいけないって」
袖の上から右腕を握る。
アンを助けたかった。
その時に現れた力だった。
右腕に残ったのは、隠さなくてはならない痣だった。
「……悔しいです」
声が震えた。
袖を掴む指に力がこもり、布に深い皺が寄った。
「私の身体に起きたことなのに。何も知らなくて」
目の前の文字が滲んだ。
リリアは瞬きをして、続きを押し出した。
「怖がることしか、できませんでした」
この少女は、眠れないほど怖くても学べた。
自分にも、そんな道があったのだろうか。
そう考えると、握った手を緩められなかった。
ファリダが隣で膝を折り、リリアと目の高さを合わせた。
「少し、お休みになりますか?」
リリアは首を横に振った。
開かれた本へ目を戻す。
「……続きを、聞きたいです」
袖を掴んでいた指を、一本ずつ離した。
「ほかの人の話も、聞きたいです。力をうまく扱えなかった人は、ほかにもいたんでしょうか」
メフリナは本の位置を直し、リリアにも頁が見えるようにした。
「ええ。一緒に読んでいきましょう」
その後も、幾つかの記録を読んだ。
敵が去ったあとも、誰一人近づけなかった巫女。
守る相手を囲み、その人が外へ出ることまで妨げてしまった巫女。
リリアは、膝の上で手を重ねた。
「……守ることが、檻になったんですね」
葛花で、ナディルと交わした言葉がよみがえる。
「そう受け取れる記録ね」
メフリナは答えた。
「助けたいと思うだけでは、うまくいかないこともあるのでしょう」
リリアは本へ目を落とした。
「私も、黒百合の力の使い方を学びたいです」
メフリナがリリアを見る。
「三年前に何が起きたのかは、まだ分かりません。でも、次に誰かを守りたいと思った時に、知らないままではいたくないんです」
口にすると、また袖を握りたくなった。
リリアは重ねた手をほどき、メフリナを見た。
「私に教えられるのは、記録に残っていることまでよ」
「はい」
「実際に力を扱う方法を、誰に教わるべきか。まずは、そこを確かめましょう。古い記録と今も伝わっていることが、同じとは限らないから」
「お願いします」
「それまでは、一人で試さないこと」
「……はい」
返事をしたリリアを見て、メフリナの表情が少し緩んだ。
「今日は、ここまでにしましょう。ずいぶん読んだわ」
差し出された水を飲んで、喉が乾いていたことに気づいた。
◆
書庫を出たところで、回廊を歩いてきたシリルとヴィクトルに会った。
「今日は長かったな」
シリルが言う。
「黒百合の力について、読んでもらっていたんです」
シリルの足が止まった。
「力のことを?」
「はい。シリルが教えてくれた言葉も、古い記録にありました」
「守るために咲く、ってやつか」
リリアは頷いた。
「ほかにも、刃を防いだり、霧で姿や気配を隠したり。いろいろな記録がありました」
「……そうか」
「守り人の家にも、そういう話は伝わっているんですか?」
「いくつかはな。ただ、実際にどうやったかまでは分からないものも多い」
シリルは記憶を探るように、回廊の先へ目を向けた。
「俺たちに伝わってるのは、巫女を守るためのことが中心だ。力を使ったあとの身体のこととか、休ませ方とか」
「そうなんですね」
「記録に何があったか、あとで聞かせろ。俺が知ってることと、照らし合わせられるかもしれない」
「はい」
ヴィクトルが尋ねた。
「これからも、調べるんですか?」
「調べたいです。それから、教えられる人がいるのなら、力の扱い方も」
シリルの眉が寄った。
リリアは二人へ言葉を続けた。
「何も分からないまま試すつもりはありません。メフリナ様も、まずは誰に教われるか確かめようと、おっしゃっていました」
「……なら、その返事を待つんだな」
「はい」
ヴィクトルはリリアの右腕を一度見てから、尋ねた。
「力を使うのは、怖くありませんか」
「怖いです」
今度は、すぐに答えられた。
「でも、怖いままでも知りたいです」
ヴィクトルは頷いた。
「分かりました。話が進んだら、私たちにも教えてください」
「俺も行く」
シリルが続けた。
リリアは二人を見た。
「……一緒に来てくれるんですか?」
「そのためにいるんだろ」
「守り人として?」
尋ねた瞬間、昨日読んだ手紙の一節が頭をよぎった。
黒百合だからではなく、その人だから。
シリルは何かを言いかけ、口を閉じた。
「……それもある」
ヴィクトルが、ちらりとシリルを見た。
「私も同行します。知らない場所で学ぶのなら、そばに見知った者がいた方がいいでしょう」
リリアは、ほっと息をついた。
「心強いです」
◆
その夜、机の上には、書庫官が用意してくれた記録の写しがあった。
余白には、メフリナがローダン語で短い訳を添えてくれている。
十五歳の少女。
弟を守り、力を止められなくなった。
怖くて眠れなかった。
それでも、学んだ。
リリアは訳文を、もう一度ゆっくり読んだ。
三年前、アンを助けたいと思った。
その気持ちまで間違いだったとは、もう思いたくなかった。
あの日、何が起きたのかは、まだ分からない。
分からないことを、今夜ここで決める必要はないのだ。
リリアは机の端から紙を引き寄せた。
メフリナの訳を見ながら、一行を書き写す。
二度と、守ろうとした者まで閉じ込めないために。
筆を置き、自分の文字を見つめた。
「……知りたい」
袖の下で、右腕がほんの少し温かく感じられた。
リリアは驚いて手を止めたが、袖を押さえつけることはしなかった。
◆
翌日の夕刻、ダルカーン公爵家の屋敷では、第一皇后ルキーヤが兄と向かい合っていた。
ザーヒル・ダルカーン。
三十三歳の彼は、公爵家の嫡男として、父の政務の一部を任されている。
ルキーヤが茶器を置くと、ザーヒルは手にしていた報告書を閉じた。
「馬場で、リリア殿とお会いになったそうですね」
「ええ。乗馬に誘ったの」
「馬には乗れたのですか?」
「ええ。途中で、三年前の落馬を思い出したようだったわ」
「その時のことを、何か?」
ルキーヤは茶器の縁へ指を添えた。
「兄上へ報告するつもりはないわ」
ザーヒルは報告書を脇へ置いた。
「承知しました。ただ、リリア殿とお会いになったことは、皇太后陛下の耳にも入っているでしょう」
「ええ。馬場へ行くのを隠してはいないもの」
「ですが、皇太后陛下がどう受け取られるかは、別の話です」
「私は、あの子を公爵家へ引き入れるつもりはないわ」
「そのお考えは、父にも直接お伝えいただいた方がよいでしょう」
ルキーヤは兄を見た。
「兄上は、私が何かを急ぐと思っているの?」
「いいえ。ただ、周囲は待ちません。皇后陛下が黒百合を馬場へ招かれた。それだけで、公爵家が動いたと受け取る者もおります」
ルキーヤは持ち上げかけた茶器を戻した。
「誰が保護するのか。誰の言葉なら聞くのか。皆、それを知りたがっています」
「リリアが何を望んでいるかよりも?」
「残念ながら、そういう者もおります」
窓の外で、馬車の車輪が石畳を鳴らした。
ルキーヤは、その音が遠ざかるのを聞いた。
「あの子は、自分で決めようとしているわ」
「その意思が、宮廷で通るとは限りません」
「分かっているわ。だからこそ、私まで先回りして決めたくないの」
ザーヒルは妹の顔を見つめた。
「父にも、今のお言葉をお聞かせください。私から伝えるだけでは、父も納得しないでしょう」
「……そうね。私から話すわ」
「お時間を取れるよう、伝えておきます」
ルキーヤは頷き、冷めかけた茶へ手を伸ばした。
◆
同じ頃、皇太后宮では、サミラが側近の警護長を呼んでいた。
「リリアの周囲に、補助の警護を出しなさい」
「皇帝陛下直属の警護が、すでについております」
「皇宮に慣れない娘ですもの。こちらからも手を貸しましょう」
サミラは茶器を置いた。
「回廊の要所へ配置しなさい。随衛の通行は妨げないように」
「ファリダ殿との調整は、こちらで?」
「ええ。随衛の権限を侵すことのないよう、丁寧に話しなさい」
警護長が一礼する。
「リリアとともに来た二人についても、協力を求めなさい」
「ローダンの騎士と、守り人ですか」
「ローダンの騎士には、追手について警備の者に話を聞かせてもらいなさい。守り人には、巫女の警護について確認したいことがあると」
「お二人を、リリア様のそばから離すのですね」
「いつも同じ顔ぶれだけでは、この宮で頼れる者も増えないでしょう」
サミラの声は穏やかだった。
「ただし、命令はなりません。皇帝の任じた随衛でも、私の配下でもないのですから。あくまで協力を求めるのです」
「承知しました」
「断られたら、無理に連れていく必要はありません。まずは、こちらの者がそばにいることにも慣れてもらいましょう」
警護長が下がったあと、サミラは茶器を取り上げた。




