第二十二話 法に残る黒百合
◆
「今日は、書庫です」
朝食のあと、ファリダにそう告げられ、リリアは少し身構えた。
「書庫……」
「嫌そうですね」
「嫌ではありません」
「では、その顔は?」
「昨日は馬場だったので」
第一皇后ルキーヤに招かれ、馬に乗った。
昔の記憶が少し蘇り、怖さも感じた。
それでも最後には、もう一度乗ってみたいと思えた。
「今日は第二皇后陛下からのお招きです」
「メフリナ皇后陛下?」
「ええ」
名前は知っている。
第二皇后メフリナ・ヴァルザード。
イリヤス殿下の母でもある。
「第一皇后陛下は馬場で、第二皇后陛下は書庫なんですね」
リリアが言うと、ファリダが少し笑った。
「分かりやすいでしょう?」
「皇后陛下方は、ずいぶん違うんですね」
「違うからこそ、うまくいくこともあります」
それは、少し分かる気がした。
◆
皇宮の書庫は、リリアが想像していたよりも広く、明るかった。
高い天井まで壁いっぱいに書棚が並び、上段へ届くための細い梯子がいくつも掛かっている。
窓には色硝子がはめ込まれ、朝の光が床へ淡い模様を落としていた。
紙と革、古い木の匂い。その中に、わずかに香の匂いが混じっている。
奥の大きな机の前に、一人の女性がいた。
「いらっしゃい」
ローダン語だった。
リリアは足を止める。
メフリナは机の上の本を閉じた。
物腰は柔らかく、声も穏やかだった。
けれど、こちらを見る目は驚くほどまっすぐだった。
リリアは三歩ほど手前で立ち止まり、立ったまま丁寧に一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます。第二皇后陛下」
「ええ」
メフリナの視線が、ほんの一瞬リリアの膝へ向いた。
「膝をつかないのね」
リリアは顔を上げた。
「はい」
「どうして?」
「黒百合の巫女は、皇族の臣下ではないからです」
「誰に教わったの?」
「サフィーヤ殿下やファリダさんに。それから、正式謁見の前にも教えていただきました」
「では、教えられたから膝をつかないの?」
メフリナが微笑む。
リリアは答えかけて、止まった。
「……最初は、そうでした」
「今は?」
リリアは右腕を見た。
黒百合の痣。
正式謁見では、その腕を隠さず胸の前へ上げた。
左手を胸へ置き、膝はつかなかった。
ナディルと交わした言葉が浮かぶ。
――花に道を。
――御代に朝を。
「少し、意味が分かってきました」
「どんな意味?」
「皇帝陛下を敬わないから、膝をつかないわけではありません」
メフリナは黙って聞いている。
「皇帝陛下には皇帝陛下の立場があって、黒百合には黒百合の立場があるからです」
アミラへ説明したことでもある。
「どちらかが、どちらかの持ち物になるわけではない、と」
メフリナの顔に、静かな笑みが浮かんだ。
「では、今日はその続きを勉強しましょう」
彼女は机の上の古い本へ手を置いた。
◆
机には何冊もの本が置かれていた。
どれも古く、革表紙は擦れ、角が丸くなっている。
リリアは一冊を覗き込んだ。
「……読めません」
「でしょうね」
即答だった。
「そんなにはっきり……」
「読めると言った方が親切?」
「いいえ」
「では、読めないものは読めないと言いましょう」
メフリナが本を開く。
「これは、今使われている文字より古い形なの」
「今の文字も、まだあまり読めないんですが」
「それなら安心ね」
「何がですか?」
「どちらも読めない」
「……安心するところでしょうか」
ファリダが横を向いた。笑っている。
「ファリダさん」
「申し訳ありません」
そう言いながら、まだ少し笑っていた。
◆
メフリナが一つの文章を指した。
「ここには、こう書かれている」
古いヤシャラ語を読み上げる。リリアには、ほとんど聞き取れない。
メフリナは続けて、ローダン語に訳した。
「黒百合の巫女は、皇帝の臣下にあらず」
リリアは文字を見た。
「正式謁見で教えていただいたことですね」
「そう」
メフリナは次の行を指した。
「皇族の臣下ではなく、祀院の所有物でもない」
「祀院にも?」
「ええ」
リリアの表情が変わった。
「では……あの人たちは」
「法律に従っていたのか、と聞きたい?」
「はい」
「いいえ」
メフリナはあっさり答えた。
「少なくとも、あなたの意思に反して祀院へ連れていこうとした時点で、この法の考えとは相容れない」
「これは、今の法律なんですか?」
「いいえ。古法よ。現在の法律と一字一句同じではないわ」
メフリナは頁をめくった。
「でも、黒百合を誰かの所有物としないという考えは、形を変えながら残っている」
リリアは、もう一度文字を見た。
読めない。
それでも、そこには自分と同じ黒百合を持つ者たちのことが書かれている。
そう思うと、ただの古い文字には見えなかった。
「昔の黒百合の巫女は、自由だったんですか?」
メフリナの手が止まった。
「いい質問ね」
彼女は答えた。
「いいえ」
リリアは目を瞬いた。
「違うんですか?」
「法律に書かれていることと、実際に守られたことは別よ」
静かな声だった。
「ある時代には、巫女自身が住む場所を選んだ」
メフリナは頁をめくる。
「ある時代には、皇帝が護衛を与えた」
さらに一枚めくる。
「ある時代には、祀院が生活を支えた」
次の頁で、メフリナの指が止まった。
「そして、ある時代には『保護』という言葉を使って、事実上、巫女の移動を制限した」
リリアの指が、膝の上で小さく動いた。
「……保護」
「嫌いな言葉?」
すぐに気づかれた。
リリアは迷った。
「嫌い、というより」
葛花でナディルと交わした言葉が蘇る。
――完全な自由ではない。
それより前の記憶も浮かんだ。
ローゼンベルク家の閉ざされた部屋。
地下の香草室。
第七隔離塔への移送。
「少し、怖いです」
「どうして?」
「守るため、と言われて……閉じ込められることがあるからです」
メフリナは「ここではそんなことはない」とは言わなかった。
「なら、その言葉がどう使われてきたのか、知っておいた方がいいわね」
リリアが顔を上げる。
「同じ『保護』でも、意味が違うんですか?」
「使う者によって変わる」
「同じ言葉なのに?」
「ええ。だから、言葉だけで安心してはいけないの」
メフリナは別の法典を開いた。
「これは約百四十年前のもの。この時代、黒百合の巫女が望めば、皇宮から護衛を付けることができた」
「皇帝が決めるんですか?」
「巫女が希望した場合にね」
「希望しなければ?」
「付けない」
「……選べたんですね」
「そう」
次の記録を指す。
「でも、こちらの時代には『巫女の安全確保』を理由に、皇宮の外へ出る際に許可が必要とされた」
リリアの眉が寄る。
「それは……」
「自由とは言いにくいでしょうね」
「はい」
「どちらの時代にも、『守る』と書いてある」
メフリナは二冊の法典を並べた。
「法律は、人を守るためにも使えるし、縛るためにも使えるの」
リリアは二冊を見比べた。
「……難しいです」
「そうね」
「どちらが正しいのか、すぐには分かりません」
「それでいいのよ」
リリアはメフリナを見る。
「分からないのに?」
「分からないものを、分かったふりをしない。それも学ぶということよ」
その言葉に、少し肩の力が抜けた。
「では、今の私はどういう立場なんですか?」
リリアが尋ねた。
「どういう、とは?」
「皇帝陛下から見た、私の立場です」
メフリナは少し考えた。
「まず、あなたは陛下の臣下ではない」
「はい」
「祀院の所有物でもない」
「はい」
「皇宮に滞在しているのも、今はあなた自身が同意しているからよ」
リリアは頷いた。
「では、私が皇宮を出たいと言ったら?」
「陛下に申し出れば、出ること自体を拒まれることはないはずよ」
「本当に?」
「もちろん、安全についての相談はあるでしょうね」
「相談……」
「命令ではなく、相談よ。危険があれば、護衛を勧められることもあると思う」
「護衛は断れますか?」
「状況によるわ。けれど、あなたの意思を無視して、誰を付けてもいいということではない」
「ファリダさんも?」
リリアは隣に立つファリダを見た。
「私は陛下の要請を受けて、リリアさんの随衛を務めています」
ファリダ自身が答えた。
「リリアさんの意思を確かめず、押しつけられたわけではありません」
「……そうだったんですか?」
「今さらですか?」
「考えたことがなくて」
「それは少し困りますね」
「すみません」
「また謝っています」
「あ」
メフリナが小さく笑った。
「シリルは?」
リリアは尋ねた。
「シリルも、護衛に入るんでしょうか」
「守り人の彼?」
「はい」
「彼は別よ」
メフリナの答えは明確だった。
「守り人は、皇帝があなたに付けた護衛ではない。皇帝の臣下でもない」
「はい」
「守り人の家系は、皇帝から独立している」
リリアは頷いた。
それは知っている。
「黒百合の巫女を守る。でも、守られてはならない。そう教わりました」
「なら、その意味も少しずつ考えておくといいわ」
「意味?」
「守る者が誰かの命令で動いていたら、その者は本当に巫女を守っていると言えるかしら」
リリアは黙った。
シリルは、ナディルのために自分を守っているのではない。
祀院のためでも、ヤシャラという国のためでもない。
――俺がやりたいからやってるだけだ。
昨日の言葉が浮かび、胸の奥が少し騒いだ。
「……シリルは、シリルですね」
思わず口にすると、メフリナが首を傾げた。
「どういう意味?」
「すみません。私にもよく分かりません」
ファリダが、また少し笑った。
◆
頁をめくっていたリリアの目が、一つの文字で止まった。
「これは?」
「婚姻」
メフリナが答える。
「婚姻?」
リリアは身を引いた。
「黒百合にも、婚姻に関する法律があるんですか?」
「当然でしょう」
「当然なんですか?」
「黒百合の巫女も人間でしょう?」
あまりにも普通に言われ、リリアは言葉を失った。
「……はい」
「なら、結婚する者もいた」
メフリナは古文を指した。
「これは、皇族が黒百合の巫女へ婚姻を強制することを禁じた条文よ」
「強制……」
「そういうことを考えた者がいたから、法律になったのでしょうね」
「黒百合を皇族にするためですか?」
「血統を取り込もうとした時代もあったのでしょう」
リリアは何とも言えない顔になった。
「安心して」
「え?」
「今日は、あなたの結婚相手を決める話ではないわ」
「そんな心配はしていません」
リリアは反射的に答えた。
「そう?」
「そうです」
「ずいぶん早い返事ね」
「本当に違います」
「リリアさん?」
ファリダがこちらを見ている。
「何でもありません」
「そうですか?」
「はい」
メフリナは何も言わなかった。
ただ、少し楽しそうだった。
「こちらの方が、あなたには重要かもしれない」
メフリナが別の頁を開いた。
今度は、少し新しい時代のものだった。
「巫女本人の意思を確かめず、投薬や継続的な処置を施してはならない」
リリアの表情が消えた。
「……処置?」
「薬を与えることも含むわ」
右腕が熱くなった気がした。
三年前の痣を抑える薬。
そして、失った記憶。
「移送や拘束についても、別の規定がある」
メフリナは続けた。
リリアの耳に、別の言葉が蘇る。
第七隔離塔。
自分が何も知らないうちに、決められていた。
「……私」
声が掠れた。
ファリダが少し近づく。
けれど、触れずに待っていた。
「私、何も聞かれていませんでした」
メフリナは黙っている。
「第七隔離塔へ移される時も」
自分がどうしたいか、誰も聞かなかった。
◆
「ただし」
メフリナが静かに言った。
「一つ、分けて考えなければならないことがあるわ」
リリアが顔を上げる。
「ローダン王国で行われたことに、ヤシャラの法をそのまま適用することはできない」
「……はい」
「国が違うもの」
それは分かる。
「だから、今読んだ条文を使って、ローゼンベルク家の行為をヤシャラ法で裁けるという意味ではない」
「はい」
「でも、あなたがこれから自分をどう扱わせるのか、考える材料にはできる」
リリアは文字を見つめた。
「これから……」
「過去を変えることはできない」
メフリナは慰めるようには言わなかった。
「でも、知らなかったから拒めなかったことを、知ったあとまで受け入れる必要はない」
その言葉が、リリアの胸に落ちた。
◆
「ヤシャラでは」
リリアは尋ねた。
「こういう法律があるなら、黒百合の巫女は安心して生きられたんですか?」
メフリナはすぐには答えなかった。
「いいえ」
やがて、はっきりと言った。
「法律があっても、破った者はいる」
「祀院も?」
「ええ」
「皇帝も?」
「いるわ」
リリアの目が動く。
「前皇帝も?」
メフリナの視線が静かになった。
「記録を見る限り、前皇帝の治世にも、法が守られなかった例はあるわ」
それ以上は言わなかった。
リリアは、これまでに知ったことを思い返す。
ミレナが皇宮を出た夜。
サーハラの死。
ナシーラが閉じ込められていた年月。
それらが、一本の線でつながり始めていた。
「ヤシャラだから安全だとは思わないこと」
メフリナが言った。
「黒百合を厄災だと考える者はいないとしても?」
「神聖なものとして敬う者もいる。守りたい者もいる。祀院へ戻すべきだと考える者もいる。皇帝の庇護下に置くべきだと考える者もいる」
メフリナの声は穏やかだった。
「大切に思うことと、相手の意思を尊重することは、同じではないわ」
リリアは何も言えなかった。
◆
「これも見ておく?」
メフリナが、別の薄い冊子を取り出した。
「何ですか?」
「黒百合に関する法制度を見直すための、近年の意見書よ」
リリアが開く。もちろん、ほとんど読めない。
「……お願いします」
「皇帝の管理を強めるべき」
一つ。
「祀院が保護すべき」
二つ。
「巫女本人の自由を優先すべき」
三つ。
「国外への移動には一定の制限を設けるべき」
四つ。
リリアの指が止まった。
「これ……」
「何?」
「私のことですか?」
「この意見書そのものは、あなた個人について書かれたものではないわ」
リリアは少し安堵した。
「ただし」
メフリナは続けた。
「あなたがヤシャラへ来た以上、いずれ同じ議論があなたについても行われるでしょうね」
リリアは顔を上げる。
「私がいないところで?」
「その可能性もある」
胸の奥に嫌な感覚が生まれた。
自分の知らないところで、自分の行き先が決まる。
部屋が決められる。処置が決められる。
もう、嫌だった。
◆
「メフリナ皇后陛下」
「何?」
「私に、法律を教えていただけますか?」
メフリナの眉が少し上がった。
「どうして?」
「私のことを、誰かが私のいないところで決めようとした時に」
リリアは言葉を探した。
「何を受け入れなくてはいけなくて、何を断っていいのか、自分で知っていたいんです」
右手を胸元に置く。自分の心臓の位置を確かめるように。
メフリナは、しばらくリリアを見ていた。
「いいでしょう」
「本当ですか?」
「ただし」
「はい」
「ヤシャラ語で覚えてもらうわ」
「……はい」
「自分で読むのでしょう?」
リリアは古い法典を見る。
「これを?」
「まずは現代語から」
「安心しました」
「最終的には古文も」
「……」
ファリダが笑った。
「リリアさん」
「何ですか?」
「顔に出ています」
「何がですか?」
「後悔」
「していません」
「本当に?」
リリアは山のように積まれた本を見る。
「……少しだけ」
メフリナが初めて声を立てて笑った。
◆
部屋へ戻る時、リリアの腕には一冊の本が抱えられていた。
初心者向けにまとめられた、ヤシャラの法制度の入門書。
サフィーヤから借りている語学の本より、ずっと厚い。
部屋へ戻ると、リリアは机の上へ本を置いた。
どん。
思ったより重い。
「……ファリダさん」
「はい」
「全部で何頁ありますか?」
ファリダが最後の頁を確認する。
「四百十二頁です」
リリアは黙った。
「リリアさん?」
「今日は、一頁にします」
「賢明ですね」
「明日は二頁」
「では、二百日ほどで終わります」
「……もう少し頑張ります」
ファリダが笑った。
◆
最初の頁は、まだ一人では読めない。
それでも、メフリナが印をつけてくれた一文だけは、何度も発音を教えてもらった。
指で一文字ずつ追い、ゆっくりと声にする。
――黒百合は、誰の所有にも属さない。
一度、間違えた。
もう一度。
今度は最後まで読めた。
リリアは右腕の痣を見た。
これまでは誰かから教えられてきた。
あなたは黒百合だ。
黒百合とはこういうものだ。
だから守る。
だから閉じ込める。
だから従え。
だから恐れろ。
でも、これからは誰かの言葉をそのまま受け入れるのではなく、自分で知り、考え、その上で選びたい。
リリアはもう一度、最初の一文へ指を置いた。
今度は、少し滑らかに読めた。




