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第二十一話 馬上の皇后

◆


「第一皇后陛下は馬場でお待ちだそうです」


 朝食を終えたところで、ファリダが告げた。


「馬場へは、どなたがご一緒に?」


「私が同行します」


 ファリダはリリアの表情を見た。


「馬に乗ることが気になりますか?」


 リリアの指が止まる。


「……少し」


 馬が怖いわけではない。


 それは、もう分かっていた。


 葛花で一か月療養したあと、ヤシャラへ向かう旅でも馬に乗った。


 栗毛の背に上がれば、身体は自然に動いた。


 手綱の持ち方。重心の置き方。脚の使い方。


 速歩になっても、どうすればいいのかを身体が知っていた。


 けれど、馬場は……。


 傾く馬体。悲鳴。落ちていく小さな身体。伸ばした手。


 右腕を焼くような熱。


 そして、黒い花弁が霧のように広がる。


「リリアさん?」


 ファリダの声に、景色が戻った。


「……大丈夫です」


「本当に?」


「馬場のことを、少し思い出しただけです」


 リリアはゆっくりと息を吐いた。


「行けます」


 ファリダはしばらくリリアを見つめた


「嫌なら断れますよ」


「分かっています」


「……そうですか」


◆


 皇宮の馬場は広い。


 白い石塀に囲まれた楕円形の馬場。その向こうには厩舎があり、さらに奥には弓術場が続いている。


 乾いた冬の空気に、土と草、革、馬の匂いが混じっていた。


 リリアは入口で足を止めた。


 一頭の赤褐色の馬が、馬場を駆けている。


 その背に、一人の女性がいた。


 騎乗用の深緑の長衣が風を切る。


 背が高く、すらりとしているが、細いだけではない。


 馬の動きに合わせる身体に迷いがなかった。


「……すごい」


 思わず声が出た。


 女性は手綱を操り、馬を大きく弧を描かせた。


 滑らかに速度を落とし、リリアたちの前で静かに止める。


 鐙から足を外し、ためらいなく地面へ降りた。


 赤銅色を帯びた濃い茶色の髪。深い緑の瞳。健康的な褐色の肌。


 立っているだけで目を引く堂々とした姿だった。


「また会えたわね、リリア」


 ルキーヤはローダン語で声をかけた。


「先日は、子どもたちに付き合ってくれてありがとう」


「こちらこそ。アミラ殿下もイリヤス殿下も、とても楽しそうでした」


「そうね。あの子たちの顔を見れば分かるわ」


 ルキーヤは笑い、リリアの立ち姿へ目を向けた。


「今日は、馬に乗れると聞いて誘ったの」


「はい。少しなら」


「少し?」


「速歩くらいまでです」


「それを『少し』と言う人は、たいてい少しではないのよ」


「でも……」


「誰に習ったの?」


 リリアは黙った。


「分かりません」


 ルキーヤの表情がわずかに変わる。


「三年前より前の記憶がないんです」


「そうだったわね」


「馬に乗れることも、ヤシャラへ来る途中で分かりました」


「身体が覚えていたのね」


「はい」


 ルキーヤは少し考えてから、馬場を見た。


「あなたが乗るところを見てみたいわ」


 リリアの肩に力が入った。


 ルキーヤは、それを見逃さなかった。


「もちろん、乗りたくないなら断っていい。腕前を試したいわけではないもの」


 リリアは馬場を見る。


 係の者に引かれた馬が、蹄で土を踏んでいた。


 その音に、記憶の中の蹄音が重なる。


 ――危ない。


 誰かの声。傾く身体。黒い花。


 リリアは目を閉じた。


 そして、もう一度開く。


「乗ります」


「いいの?」


「はい。乗りたいです」


 少し怖い。


 それでも、自分で乗りたいと思った。


 ルキーヤの深緑の瞳が、わずかに柔らかくなった。


「分かったわ」


◆


 用意されたのは、栗毛の牝馬だった。


 ヤシャラへ来る旅で乗った馬とは違う。


 少し小柄で、穏やかな目をしている。


 リリアは正面ではなく、斜め前からゆっくり近づいた。


 手を差し出すと、馬が鼻先を寄せてくる。


 リリアは首筋を撫でた。


「よろしくお願いします」


 ルキーヤが、その様子を見ていた。


「馬にも丁寧なのね」


「この子に乗るのは初めてですから」


「なるほど」


 リリアは鐙に足をかけ、身体を持ち上げて鞍に収まった。


 手綱を取り、脚の位置を整え、背筋を伸ばす。

 

 ほとんど何も考えなかった。


「やはり、習っているわ」


「分かるんですか?」


「鐙に足を置く位置も、手綱の長さも、腰の据え方も。遊びで数度乗っただけの人の動きではないもの」


「身体が勝手に……」


「そういうことよ」


 ルキーヤは馬の首を軽く撫でた。


 リリアは手綱を握る自分の手を見た。


 誰かに教わり、何度も馬に乗っていた少女。


 その記憶はないのに、身体のどこかに残っている。


「まずは歩かせてみて」


「はい」


 リリアが合図を送ると、馬が歩き出す。


 一周、二周と、馬の呼吸や身体の揺れを確かめる。


「次は速歩」


 リリアは頷き、脚で合図を送った。


 馬の速度が上がる。


 上下する背に合わせて、リリアの身体も自然に動いた。


 怖くない。


 むしろ、心地よかった。


 冬の風が頬を撫で、黒髪が後ろへ流れる。


 視界が広がっていく。


 その時、何かが胸の奥をかすめた。


 風。馬の背。暖かな陽射し。


 隣をもう一頭の馬が走っていた。


 誰かの笑い声がする。


 ――もう一度。


 顔は見えない。声もはっきりとは聞こえなかった。


 それでも、楽しかった。


 その感覚は確かだった。


 リリアの口元が、わずかに緩んだ。


 次の瞬間、景色が変わった。


 馬の嘶き。傾く身体。小さな影が地面へ――。


「っ……」


 身体が強張る。


 馬もそれを感じ取ったのか、耳を動かし、足取りを乱した。


「リリア!」


 ルキーヤの声が飛ぶ。


 リリアは反射的に手綱を強く引きかけた。


 けれど、寸前で止める。


「大丈夫」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 自分か。馬か。記憶の中で落ちていく少女か。


「大丈夫です」


 手綱を引き絞らず、脚から力を抜く。


 呼吸を整え、栗毛の首へ声をかけた。


「怖がらなくて大丈夫です」


 少しずつ、栗毛の足取りが落ち着いていく。


 やがて速度が落ち、ゆっくり歩き始めた。


◆


「今日は、ここまでにしましょう」


 ルキーヤが言った。


 リリアは反論しなかった。


「はい」


 馬を止め、慎重に地面へ降りる。


 足がついた瞬間、膝から少し力が抜けた。


 ファリダがすぐに近づく。


「リリアさん」


「大丈夫です」


 今度は、無理に言っているわけではなかった。


 ルキーヤも近づいてくる。


「何か思い出した?」


「少し。馬から落ちる人を……アン様だと思います」


「思う?」


「その時の記憶が全部戻ったわけではないので」


 ルキーヤは黙って聞いていた。


「アン様が落馬して、その時、私の黒百合が現れたそうです。少しずつ思い出しています」


「そう」


「それから……」


 革の音。石床。十二。


 リリアは一度、唇を閉じた。


「別の日のことも思い出しました。事件のあと、私は処罰を受けました」


「処罰?」


「鞭打ちを」


 ルキーヤの目が鋭くなる。


「何回?」


「十二回です」


 短い沈黙が落ちた。


「落馬した、その日に?」


「いいえ。その後です」


「誰の命令?」


「ローゼンベルク侯爵です」


「執行したのは?」


「護衛隊長のヨーゼフです」


 ルキーヤは何も言わなかった。


 快活だった表情から、笑みが消えている。


「あなたは、その時、何歳だったの」


「十三歳です」


 ルキーヤの視線が、リリアの右腕へ落ちた。


「黒百合が現れたことへの処罰だったの?」


「正確には、アン様を傷つける危険のある力を使ったからだと」


「落下する少女を助けようとした子どもに?」


 低い声だった。


 リリアには答えられなかった。


 ルキーヤも、それ以上は尋ねなかった。


「その話は、陛下もご存じなのね」


「はい」


「そう」


 静かな一言だった。


 けれど、その奥に何があるのか、リリアには読み取れなかった。


◆


「馬を嫌いにはならなかったのね」


 しばらくして、ルキーヤが言った。


 リリアは傍らの馬を見る。


「はい」


「どうして?」


「この子たちが悪いわけではありませんから」


 ルキーヤが少し目を見開く。


「三年前の馬も?」


 リリアは考えた。


「……分かりません。その馬がどうして暴れたのか、覚えていません」


「そうね」


「だから、悪かったとも、悪くなかったとも、今の私には言えません」


 少し間を置き、馬の首へ触れる。


「でも、少なくともこの子は悪くありません」


 ルキーヤが笑った。


「気に入ったわ」


「この子をですか?」


「あなたを」


 あまりに真っ直ぐ言われ、リリアは困った。


「ありがとうございます……?」


「なぜ疑問形なの」


 ファリダが横で小さく笑った。


◆


 三人は馬場脇の休憩所へ移った。


 茶ではなく、果実を薄く入れた水が出される。


 ルキーヤは騎乗用の手袋を外した。その手には、弓や手綱を扱う者らしい硬い部分がある。


「昨日もアミラと会ったそうね」


「はい。イリヤス殿下もいらっしゃいました」


 ルキーヤが少し笑う。


「あの子たち、あなたの話をしていたわ」


「私の?」


「アミラは、あなたにヤシャラ語を教えたと言っていた。イリヤスは、あなたの髪に触れた話をしていたわ」


 リリアは頬が熱くなるのを感じた。


「髪を引っ張られそうになりました」


「そうだったの」


 ファリダが横を向く。肩が小さく揺れていた。


「……そこまでお話しになったんですか」


「よほど印象に残ったのでしょうね」


「髪を引っ張られそうになったことまで?」


「そこまでは聞いていないわ」


 リリアはほっとした。


「今度、お伝えしておきましょうか」


 ファリダが言った。


「やめてください」


 ルキーヤが声を上げて笑った。


「アミラ殿下は、とても真面目ですね」


 リリアが言った。


「真面目すぎるのよ」


 ルキーヤは即答した。


「やはり、そう思われますか?」


「ええ。『皇太女だから』と、よく言うでしょう?」


「はい」


「私も陛下も、何もかも我慢しろと教えているつもりはないのだけれど」


「そうなんですか?」


「もちろん、必要な教育はするわ」


 ルキーヤの声に、第一皇后としての響きが戻った。


「アミラは皇位継承者よ。いずれ国を背負う可能性がある。学ぶべきことを学ばせないのは、親としても皇后としても無責任でしょう」


「はい」


「でも、あの子はまだ六歳よ」


 深緑の瞳が柔らかくなる。


「皇太女である前に、子どもでいられる時間も必要だと思っている」


「昨日、イリヤス殿下を抱っこされました」


 ルキーヤが目を瞬く。


「アミラが?」


「はい。私が勧めました」


「そう」


 ルキーヤの顔に、母親らしい笑みが浮かんだ。


「重い、とおっしゃっていました」


「それはそうでしょうね」


「でも、嬉しそうでした」


 ルキーヤはしばらく黙った。


「ありがとう。アミラに、姉でいる時間を作ってくれて」


「私は何も……」


「そういう時は、素直に受け取ればいいの」


 リリアは少し迷ってから答えた。


「……はい」


◆


「第一皇后陛下は、皇帝陛下ともよく馬に乗られるんですか?」


 リリアが尋ねた。


「昔はね。陛下が皇太子だった頃は、今より時間があったから」


 ルキーヤが遠くを見る。


「今は馬に乗る時間より、執務机で書類に囲まれている時間の方が長いわね」


「お忙しいんですね」


「皇帝だから仕方がないわ」


「陛下とは、皇太子でいらした頃にご結婚されたんですよね」


「そうよ」


「……お聞きしてもいいですか?」


「内容によるわね」


 リリアは少し迷った。


「皇帝陛下とは、どのようなご夫婦なんですか?」


 ファリダが一瞬、こちらを見る。


 聞いてはいけなかっただろうか。


 けれど、ルキーヤは怒らなかった。


「そうね。夫婦というより、戦友に近いかもしれないわ」


「戦友?」


「恋をして結婚したわけではないもの」


 ルキーヤはあっさりと答えた。


「皇太子だった陛下と、ダルカーン公爵家。その双方に必要な結婚だったの」


「嫌ではなかったんですか?」


「最初は、好きも嫌いもなかったわ」


「では、今は?」


 ルキーヤがリリアを見る。


「ずいぶん聞くわね」


「あ……」


「いいわ」


 ルキーヤは笑った。


「信頼している」


 短い答えだった。


「陛下も?」


「そうでなければ、留守を任せたりはしないでしょう」


「好き、とは違うんですか?」


 口にしてから、さすがに聞きすぎたと思った。


「申し訳ありません」


 ルキーヤが吹き出す。


「あなた、時々すごいことを聞くのね」


「すみません……」


「好きよ」


 あっさりと返ってきた。


 リリアが顔を上げる。


「ただ、若い頃に物語で読んだような恋とは違う」


 ルキーヤは外した手袋を重ねた。


「背中を預けられる。留守を任せられる。間違っていると思えば、そう言える。言われた時には、相手の言葉を聞ける」


 少しだけ笑う。


「私には、それで十分よ」


 リリアには、まだすべては分からなかった。


 それでも、少し羨ましいと思った。


◆


 馬場を出ると、石塀の向こうに二人の姿があった。


「リリアさん」


 ヴィクトルと、その少し後ろにシリルがいる。


「どうしてお二人が?」


「ファリダさんから、馬場にいると聞きました」


 ヴィクトルが答える。


「俺は馬の声が聞こえたから」


 シリルが言った。


「それで来たんですか?」


「悪いか?」


「悪くはないですけど」


 ルキーヤが三人を見比べた。


「では、私は戻るわ」


 リリアは一礼する。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 ルキーヤは歩き出し、途中で振り返った。


「リリア」


「はい?」


「次に乗る時は、速歩をもう少し続けてみましょう。もちろん、あなたが乗りたいと思ったらね」


「……考えておきます」


「上出来」


 ルキーヤは護衛たちを伴い、馬場を去っていった。


◆


「乗ったんですか?」


 ヴィクトルが尋ねる。


「はい」


「大丈夫でした?」


「少し、思い出しました」


 二人の表情が変わる。


「落馬のことか」


 シリルが低く言った。


 リリアは頷いた。


「処罰された日のことも少し」


 ヴィクトルの表情が硬くなる。


 シリルは何も言わなかった。


「でも、大丈夫です」


 今度は、リリアから伝えた。


「怖かったですけど、楽しかったです」


 シリルが少し笑った。


「そうか」


「はい」


「なら、よかった」


 ヴィクトルも頷く。


「乗っているところを見たかったですね」


「そうですか?」


「はい」


「次は見られるんじゃないか」


 シリルが言った。


「次?」


「また乗るんだろ?」


「……たぶん」


「その顔は乗るな」


「どうして分かるんですか?」


「顔に書いてある」


「書いてありません」


「ある」


「ありません」


 シリルが笑う。


 リリアも少し笑った。


 ヴィクトルは二人を見てから、リリアへ視線を戻した。


「では、次は私も見に来ます」


「訓練は?」


「時間を作ります」


「無理をなさらないでくださいね」


「はい」


「ほら」


 シリルが言った。


「また俺と扱いが違う」


「シリルは、頼まなくても来るでしょう」


「まあな」


「でしょう?」


 今度はヴィクトルが笑った。


◆


 その夜、リリアは窓辺で自分の手を見ていた。


 手のひらには、まだ少しだけ手綱を握った感覚が残っている。


 怖かった。楽しかった。懐かしかった。


 けれど、思い出せなかった。


 誰に教わったのか。


 誰と馬を走らせたのか。


 そして、三年前の馬場。


 落ちていくアン。


 現れた黒百合。


 十二回の鞭。


 失われた記憶の中には、痛いものも、怖いものもある。


 けれど、それだけではないのかもしれない。


 風の中で、確かに楽しいと思った自分がいた。


 その感覚は、三年前の出来事に奪われず、身体の中に残っていた。


 リリアは、ゆっくりと手を握る。


 今日、馬に乗ると決めたのは、記憶の中の自分ではない。


 誰かに命じられたからでもない。


 今の自分だった。


 怖さが消えたから乗れたのではない。


 怖さを抱えたまま、それでも乗りたいと思った。


 そして、もう一度乗ってみたいと思っているのも、今の自分だった。

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