第二十話 皇太女の休息
◆
ダルカーン公爵邸の奥では、当主サリームと嫡男ザーヒルが報告を受けていた。
窓の少ない執務室で、灰色の衣をまとった男が片膝をついている。
「黒百合の巫女が、皇太后宮へ入りました」
「随衛は」
「ファリダ殿が同行しておりました」
「面会の内容は分かるか」
「部屋の中での会話までは確認しておりません」
「それでいい」
サリームは、報告役の男を見た。
「会話の内容まで探る必要はない。見たことだけを報告しろ」
「承知しました」
「ほかには?」
「第一皇后宮から使者が訪れ、リリア殿を明朝、馬場へ招く旨を伝えていきました」
ザーヒルが眉を上げた。
「ルキーヤが、黒百合の巫女を?」
「はい」
「馬場とは意外だな」
「乗馬を通じて、本人を知ろうとしているのかもしれません」
サリームは、すぐには答えなかった。
「そうかもしれん。だが、意図を決めつけるな」
ザーヒルが父を見る。
「ルキーヤは父上の娘であり、私の妹です。ですが、今は第一皇后陛下でもある。彼女の動きを、ダルカーン家の意思と同じだと見なすわけにはいきません」
「その通りだ」
サリームは卓上の報告書へ目を落とした。
「皇太后陛下との面会に続いて、第一皇后陛下からの招待か」
「皇宮の方々が、それぞれリリア殿と接点を持ち始めています」
「黒百合を巡る声が強まる前に、本人を知ろうとしているのかもしれん」
「皇太后陛下が後見を申し出れば、黒百合を巡る主導権は皇太后宮へ傾きます。ダルカーン家としても、立場を明らかにする必要が出てくるでしょう」
「だからといって、先回りして囲うわけにはいかん」
サリームは息子を見た。
「ルキーヤの意思を確かめる前に、家の都合で動くべきではない」
「ですが、こちらも会うべきではありませんか」
「いずれ会う。だが、急ぐな」
「せめて、リリア殿と話す機会は早めに整えるべきです」
「急いで囲えば、十七年前と同じことになる」
ザーヒルは口を閉じた。
「祀院も、皇太后陛下も、あるいは我々も」
サリームは報告役の男へ視線を戻した。
「引き続き、皇宮での動きを見ておけ。ただし、リリア本人へは近づくな。面会の内容を探る必要もない」
「承知しました」
「ルキーヤが何を考えているかは、本人にしか分からん。馬場で会うというなら、まずはその様子を見届ければいい」
男は深く頭を下げた。
「御意」
◆
皇太后宮を辞した日の夜、リリアはファリダを通じて、ヴィクトルとシリルに話をしたいと伝えた。
二人が訪れたのは、リリアの部屋に近い小さな談話室だった。扉の外にはファリダが控えている。
「遅い時間にすみません」
「構いません」
ヴィクトルが答えた。
「何かあったのか?」
シリルは、リリアの顔を見て尋ねた。
「皇太后陛下から言われたことを、二人に聞いてほしいんです」
サミラの前では、母のことをもっと尋ねたい気持ちが先に立った。
けれど、部屋を出て一人になってからは、誰に何をどう伝えるべきかを考え続けていた。
「人前では、二人と距離を置きなさい。特にヴィクトルさんとは、と」
リリアは、サミラの言葉をできるだけそのまま伝えた。
「私たちを思っての忠告だと。歌が広まり、二人との関係が噂になれば、私だけでなく、二人も争いに巻き込まれる。警護が必要なら、信頼できる腕の立つ者を付ける準備もある、と」
ヴィクトルは何も言わなかった。
ただ、表情がわずかに硬くなる。
「それから、ヴィクトルさんは」
リリアは続けた。
「私の恩人で、ヤシャラにとっても大恩人だから、最高位の客人として遇するべきだと。皇帝陛下に、最高位の勲章と褒賞を贈るよう提案するつもりだそうです」
ヴィクトルは膝の上で手を組んだ。
「爵位を受ければ、ヤシャラの臣下となり、ローダンの騎士としての立場を手放すことになるでしょう」
短い沈黙が落ちた。
「それは、私への褒賞であると同時に、私の立場を変える提案です」
ヴィクトルはリリアを見た。
「あなたを守る立場も、今とは違うものになる。あなたとの距離を変えるために、使われる可能性があります」
シリルが椅子から身を起こした。
「遠ざけろだ? 誰の許可を取って、そんなことを言ってやがる」
「シリル」
ヴィクトルがたしなめる。
「黙っていられるか。リリアが誰といるかは、リリアが決めることだ」
怒りを露わにしながらも、シリルの目はリリアから離れなかった。
「リリア。お前はどうしたい?」
リリアはすぐには答えられなかった。
サミラから距離を置くよう告げられた時、二人が遠くへ行ってしまうように感じた。
「私は……」
声がかすれた。
「二人を失いたいわけではありません」
シリルの怒りが、わずかに和らいだ。
ヴィクトルは何も言わず、続きを待っている。
「ヴィクトルさんがこの国に認められるのは嬉しいです。でも、爵位を受ければ……遠くへ行ってしまうような気がしました」
口にして初めて、自分がどれほど気にしていたのかに気がついた。
「人前で距離を置けと言われたことも、怖かったんです」
「……そうか」
シリルは短く答えた。
「距離を保つかどうかは、あなたの判断に従います」
ヴィクトルが言った。
「ただ、爵位を受けるかどうかは私自身が決めます。私の処遇も、あなたとの距離も、皇太后陛下だけで決められることではありません」
「そうだな」
シリルは椅子の背にもたれた。
「今すぐ答えを出す必要はない。お前が何を望むか、ゆっくり考えればいい」
二人に見つめられ、リリアの胸の奥が少し緩んだ。
「話せてよかったです」
「話してくれて、ありがとうございます」
ヴィクトルが答えた。
シリルは「次からも一人で抱え込むな」とだけ言った。
リリアは小さく頷いた。
◆
翌朝。
「今日は、ここまでにしましょう」
サフィーヤに言われ、リリアは思わず窓の外を見た。
まだ昼には少し早い。
「もう終わりですか?」
「その言い方、前にも聞いたわね」
「あ……」
リリアは口を閉じた。
机の上には、ヤシャラ文字で書いた短い文章が並んでいる。
以前よりは読めるようになった。
聞き取れる言葉も増えている。
それでも、今日も語順を二か所間違え、文字の線を二つ逆に書いていた。
「まだできます」
「できるでしょうね」
サフィーヤは否定しなかった。
「でも、今日は別の予定があるの」
「予定?」
リリアが首を傾げた、その時だった。
廊下から、聞き覚えのある声がした。
「叔母上」
前のような駆け足ではない、小さな足音が近づいてくる。
女官が扉を開けた。
入ってきたのはアミラだった。
淡い水色の長衣に、青みを帯びた黒髪が今日もきれいに編み込まれている。
後ろには女官が一人、さらにアミラ付きの女性護衛が控えていた。
「ごきげんよう、叔母上」
「ごきげんよう、アミラ」
アミラはサフィーヤに礼をした。
それからリリアを見る。
整えていた表情が、一瞬柔らかくなった。
「リリア」
今度は、自然に名前を呼んだ。
リリアも笑う。
「ごきげんよう、アミラ殿下」
覚えたヤシャラ語で返すと、アミラの金を含んだ緑の瞳が少し明るくなった。
「上手になった」
「本当ですか?」
そこだけ、ついローダン語で返してしまった。
アミラには分からない。
サフィーヤが笑った。
「褒められた途端、ローダン語へ戻ったわね」
「……つい」
アミラが不思議そうに二人を見る。
サフィーヤがヤシャラ語で説明すると、アミラも笑った。
◆
「今日は、何のお勉強ですか?」
リリアが尋ねると、サフィーヤが訳した。
アミラが姿勢を正す。
「いつもなら、午前は歴史と礼法。午後は音楽です」
「たくさんありますね」
「皇太女ですから」
返事は早かった。
前にも聞いた言葉だった。
――皇太女ですから。
六歳なのに、そう言う時の顔は大人びている。
この子は大切に教育され、周囲には守り育てようとする大人もいる。
それでも、間違えないように、誰かを困らせないようにと、いつも先回りして自分を整えているようにも見えた。
リリアにも覚えがある。
記憶を失ってからの三年間、失敗をすれば、自分が「過ちを犯した人間」だと証明してしまうような気がしていた。
もちろん、アミラと立場は違う。
それでも、失敗を恐れる気持ちは分かる気がした。
◆
「では、今日はアミラ殿下も、ここで勉強するのですか?」
リリアが尋ねた。
「いいえ」
答えたのはサフィーヤだった。
「今日は、二人とも勉強はお休み」
「え?」
リリアとアミラの声が重なった。
アミラがすぐに何かを尋ねる。
「『どうしてですか』です」
「私も同じです」
サフィーヤは二人を見比べた。
「だからよ」
「……?」
「二人とも、休めと言われた時の顔がそっくり」
リリアは思わずアミラを見る。
アミラもこちらを見た。
全然似ていない。
そう思ったらしい。
アミラは首を横に振った。
「私も違うと思います」
サフィーヤが訳すと、リリアも頷いた。
「でしょう?」
「そこは意気投合するのね」
サフィーヤが呆れた。
◆
茶と菓子が運ばれてきた。
前に会った時より、アミラは少し慣れた様子でリリアの隣に座った。
ただ、姿勢は変わらず真っ直ぐだ。
茶器を両手で持ち、一口飲んで静かに戻す。
菓子を取る動きまで、きちんとしている。
リリアも菓子へ手を伸ばした。
その時、アミラの袖が皿の端に触れた。
「あ」
小さな焼き菓子が一つ、卓を転がって床に落ちた。
アミラの顔が固まる。
すぐに立ち上がろうとした。
「申し訳ございません」
ヤシャラ語だった。
けれど、その言葉はリリアにも分かった。
「アミラ」
サフィーヤが呼ぶ。
「……はい」
「座って」
アミラはゆっくりと座り直した。
「一つ落としただけよ」
「でも……」
「何?」
「きちんとしなければ」
サフィーヤは黙った。
リリアは床に落ちた菓子を見た。
「アミラ殿下。私も今日、間違えました」
簡単なヤシャラ語だけでは難しく、サフィーヤに訳してもらう。
アミラがリリアを見る。
「ヤシャラ文字を二つ、逆に書きました。それから、語順も二か所」
部屋に入ってきたファリダが、小さく頷いた。
「今回は正確ですね」
「確認しなくても大丈夫です」
「念のためです」
アミラが口元を押さえ、笑っている。
「笑いましたね?」
リリアが言う。
当然、通じない。
けれど表情で分かったらしい。
アミラはさらに笑った。
サフィーヤもファリダも、とうとうリリアまでが笑ってしまった。
◆
「黒百合の巫女でも、間違えるの?」
アミラが尋ねた。
サフィーヤが訳す。
「もちろんです。たくさん間違えます」
ファリダが小さく頷いた。
「『たくさん』で合っています」
「もう確認しなくても大丈夫です」
「念のためです」
アミラがまた笑った。
「間違えたら、どうするの?」
リリアは少し考えた。
以前なら、謝ること、叱られないようにすること、次は絶対に失敗しないようにすること。
そんな答えを考えていたかもしれない。
今は違う。
「もう一度、教えていただきます」
サフィーヤが訳す。
アミラは目を瞬いた。
「怒られない?」
「怒られることもあるかもしれません」
嘘はつきたくなかった。
「でも、分からないことを最初から全部できなくてもいいと教えていただきました。だから、もう一度やります。できなければ、また聞きます」
「何回まで?」
「何回でしょう」
リリアが困ると、サフィーヤが口を挟んだ。
「できるまででいいんじゃない?」
アミラが叔母を見る。
「できるまで?」
「ええ」
「失敗しても?」
「失敗したから、もう一度やるのよ」
アミラは床に落ちた菓子を見た。
女官がすでに拾っている。
しばらくして、アミラは答えた。
「……分かりました」
完全に納得した顔ではなかった。
それを見て、リリアは少し安心した。
自分も、すぐには変われなかったから。
◆
その時、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。
リリアにはすぐに分かった。
扉が開く。
「姉上!」
二歳のイリヤスだった。
乳母に手を引かれている。
前のように一人で飛び込んできたわけではない。
それでも、リリアを見つけた途端、乳母の手を離れようとした。
「り……」
小さな口が動く。
「りりあ!」
リリアは目を見開いた。
「私の名前を覚えてくださったんですか?」
イリヤスに意味が分かっているはずはない。
ただ、得意そうに笑う。
「りりあ!」
「はい。リリアです」
イリヤスが両手を伸ばした。
「抱っこですか?」
リリアが乳母を見ると、乳母は笑って頷いた。
リリアはイリヤスを抱き上げる。
「重くなりました?」
イリヤスは気にせず、リリアの髪へ手を伸ばした。
「髪は引っ張らないでくださいね」
もちろん、通じない。
アミラが弟にヤシャラ語で注意した。
イリヤスは姉を見て、なぜか笑う。
アミラが少しむっとした。
◆
「アミラ殿下。イリヤス殿下を抱っこしますか?」
リリアが尋ねると、サフィーヤが訳した。
アミラの顔に迷いが浮かんだ。
前に尋ねた時、この子は言った。
――私は皇太女だから。
「私は……」
また、その言葉を口にしかける。
けれど、今日は止まった。
サフィーヤは何も言わない。
リリアも待った。
「……少しだけ」
アミラが言った。
リリアはイリヤスをゆっくりと下ろす。
アミラが床に座った。
「こうですか?」
サフィーヤを介して、リリアが教える。
「腕を、もう少しこちらへ」
アミラがぎこちなく腕を出した。
乳母もそばで支える。
イリヤスは姉の膝に収まると、何のためらいもなくアミラにもたれた。
アミラが固まる。
「……重い」
小さな声だった。
アミラは弟を見る。
イリヤスはもう別のものに興味を持ち、アミラの袖の刺繍に触れていた。
「皇太女でも、お姉様ではありますよね」
リリアの言葉をサフィーヤが訳す。
アミラはリリアを見て、それからイリヤスを見た。
「……うん」
ただの姉の顔で頷いた。
そして、アミラがリリアに尋ねた。
長いヤシャラ語だった。
リリアには半分も分からない。
「何でしょうか?」
サフィーヤの表情が少し変わった。
「あなたと父上と、どちらが偉いのかですって」
「……皇帝陛下と、私がですか?」
リリアは困った。
アミラは真剣だった。
「どうして、そう思ったんですか?」
サフィーヤが尋ねる。
アミラは答えた。
「父上には、みんな膝をつく。でも、リリアはつかない」
六歳らしい、まっすぐな疑問だった。
だからこそ、答えるのが難しい。
「どちらが偉い、ということではないと思います」
サフィーヤが訳すと、アミラは首を傾げた。
「では、どうして違うの?」
「立っている場所が違うからです」
「場所?」
「はい」
皇帝には国を治める役目がある。
黒百合の巫女には、また別の歴史と役目がある。
「皇帝陛下には皇帝陛下のお役目があります。黒百合には、黒百合の役目があります」
アミラはサフィーヤを見た。
サフィーヤは何も言わず、リリアに続きを促す。
「だから、どちらかが、どちらかの持ち物になるわけではありません」
アミラはしばらく黙っていた。
「皇太女は?」
アミラが自分を指す。
「皇太女、ですか?」
アミラは頷いた。
それから、少し迷いながら尋ねた。
「私は、父上のもの?」
さらに、言葉を継ぐ。
「それとも、国のもの?」
◆
六歳の問いだった。
皇位継承も、国も、責務も、まだ完全には分かっていない。
ただ、毎日のように言われる。
皇太女だから。
将来、皇帝になる者だから。
きちんとしなさい。学びなさい。間違えないように。
だから、自分は誰のものなのか。
そう考えたのかもしれない。
「アミラ殿下は」
リリアはゆっくり言った。
「まず、アミラ殿下です」
サフィーヤが訳す。
部屋が静かになった。
アミラが目を瞬く。
「私?」
「はい」
「父上のものではない?」
「私は、そう思います」
答えてから、リリアは少し不安になった。
皇太女に、こんなことを言ってよいのだろうか。
サフィーヤを見る。
彼女の表情は変わらなかった。
ただ、静かにこちらを見ている。
「アミラ殿下には、いつか大きなお役目があるんですよね」
アミラが頷く。
「それでも、何を思うかまで、誰かのものになるわけではありません」
リリアは自分の胸元に手を置いた。
心と意思は、自分自身のもの。
自分が教わった言葉だった。
黒百合だけに必要な言葉ではないのかもしれない。
アミラはしばらく考え込んだ。
「難しい」
やがて、そう言った。
サフィーヤが笑った。
「そうね」
リリアも笑う。
「私にも難しいです」
今度はアミラも少し笑った。
その後、イリヤスが木片を持ってきた。
前と同じものだった。
「馬?」
リリアが尋ねると、イリヤスは言った。
「いぬ」
「……犬?」
リリアは木片を見る。
前回は馬。今回は犬。
どう見ても、同じ四角い木片だった。
「難しいですね」
サフィーヤが吹き出した。
「何が?」
「イリヤス殿下の想像力です」
「それは私にも分からないわ」
今度はアミラも笑った。
膝の上のイリヤスは、何がおかしいのかも分からないまま一緒に笑う。
部屋には皇太女も皇子もいなかった。
六歳の姉と、二歳の弟がいた。
◆
部屋を出る時、アミラがリリアの袖をつまんだ。
「リリア」
「はい?」
短いヤシャラ語。
もう聞き取れる。
「また来て」
リリアの袖をつまみ、返事を待っている六歳の少女の顔だった。
リリアは微笑んだ。
「はい。また来ます」
イリヤスも手を振る。
「りりあ!」
「はい。また、お会いしましょう」
リリアも手を振り返した。
扉が閉じる直前まで、アミラはリリアの姿を見送っていた。




