第十九話 生き残った皇后
◆
「母上が、あなたに会いたいそうよ」
サフィーヤからそう告げられたのは、ナシーラの部屋を訪れた翌々日のことだった。
リリアは、練習していたヤシャラ文字から顔を上げた。
「皇太后陛下が、私にですか?」
「ええ」
サフィーヤは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「サーハラの記録を調べていることも、マーディヤに会ったことも、母上は知っているわ」
リリアは筆を置いた。
「サーハラ様のことを、ご存じなんですね」
「もちろん」
サフィーヤの声が少し低くなった。
「同じ皇帝の后として、同じ宮廷にいたのだから」
「では……」
リリアが尋ねる前に、サフィーヤが続けた。
「ミレナのことも知っている」
リリアは黙った。
母を知る人。
ヤシャラへ来てから、その言葉に何度も心を揺さぶられている。
知りたい。
けれど、知るたびに、知らなかった過去が増えていくような気もした。
「お会いしますか?」
ファリダが尋ねる。
リリアは少し考えてから、サフィーヤを見た。
「はい。お会いしたいです」
◆
皇太后サミラ・アルザーンの宮は、皇宮の西側にあった。
かつて第一皇后として暮らした宮とは別だと、サフィーヤから聞いていた。
白い石壁。深い青の絨毯。
中庭を囲む、冬でも葉を落とさない木々。
豪華ではあるが、ナディルの謁見殿のような威圧感はなかった。
リリアはファリダとともに回廊を進んだ。
扉の前には女性近衛が二人控えている。
女官がリリアの到着を告げた。
「リリア様がお見えです」
扉が開いた。
◆
皇太后サミラは、窓辺に座っていた。
濃い黒髪には銀が混じり、後ろで低くまとめられている。
華美な宝飾品は身につけていない。
深い藍色の長衣の胸元に、小さな金の飾りが一つあるだけだった。
目元にはサフィーヤと似たところがある。
けれど、リリアが最初に思い浮かべたのは、ナディルだった。
人を見る時、急いで言葉を出さず、まず相手を見る。
その静けさが似ている。
リリアは三歩ほど手前で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます。リリアと申します」
「顔を上げて」
落ち着いた声だった。
リリアが顔を上げる。
サミラはしばらく何も言わずに、リリアの顔を見ていた。
「……似ていないところもあるのね」
予想していなかった言葉だった。
「母と、ですか?」
「ええ」
「私は……似ていませんか?」
「そうは言っていないわ」
サミラが向かいの席を示す。
「お座りなさい」
「失礼いたします」
リリアは腰を下ろした。
ファリダは少し離れた場所に控える。
◆
「目元は似ている」
サミラが言った。
「髪もね」
「はい」
「でも、人を見る時の顔は違う」
リリアは少し首を傾げた。
「母は、どんな顔で人を見ていたんですか?」
「疑っていたわ」
「……疑って?」
思いがけない答えだった。
「いつも、という意味ではないわ」
サミラは茶器へ手を伸ばす。
「けれど、皇宮では簡単に人を信用しなかった」
「母が……」
「当然でしょう。黒百合の巫女に近づく者が、皆その人自身を見ているとは限らないもの」
力や立場、祀院との結びつきを利用しようとする者もいれば、恐れ、崇める者もいる。
リリアにも、今なら分かる。
「ただ」
サミラが続けた。
「一度信じた相手には、驚くほど頑固だった」
「頑固?」
「何を言われても、自分が信じたことを変えない」
リリアは少し考えた。
マーディヤも言っていた。
負けず嫌いだった、と。
「……母らしい気がします」
「覚えているの?」
「いいえ。覚えてはいません。でも、母を知る方から少しずつ聞いています」
「そう」
サミラはそれ以上は尋ねなかった。
◆
「サーハラのことを調べているそうね」
やがて、サミラが言った。
「はい」
「死亡記録も?」
「見ました」
「医女にも会った」
「はい」
リリアは膝の上で両手を重ねた。
「急病ではなかったと聞きました」
「そうでしょうね」
あまりに静かな返答だった。
リリアは顔を上げた。
「ご存じだったんですか?」
「病死ではないだろうとは、当時から思っていたわ」
「では……」
「サーハラが殺されたところを見たわけではない」
サミラは言った。
「けれど、あの人が捕らえられた翌日に病死と発表された。病床にあったわけでもない女性がね」
「サーハラ様と母が親しかったことも、ご存じでしたか?」
「ええ」
「母を逃がそうとしていたことも?」
「いいえ」
即答だった。
リリアは少し驚いた。
「ご存じではなかったのですか?」
「知らなかった」
サミラは認めた。
「二人が何度か人払いをして話していたことは知っていた。サーハラがミレナを気にかけていることも」
「では、母が身籠っていたことは?」
「知らなかったわ」
サミラは茶器を置いた。
「サーハラは、そこまで私を信用していなかったのでしょうね」
責める声ではなかった。
「あるいは、私を巻き込まないためだったのかもしれない」
「巻き込まないため……」
「今となっては分からないわ」
サミラはリリアをまっすぐ見た。
「でも、私に責任がなかったことにはならない」
リリアは黙った。
「ミレナが皇宮を出た翌朝、サーハラが捕らえられたことを私は知っていた。何を疑われているのかも、ほどなく分かった。それでも、私はサーハラを助けなかった」
サミラの声には、言い訳がなかった。
「助けられなかった、とは言わない。私は、助けないことを選んだの」
◆
リリアはすぐには言葉を返せなかった。
聞きたかったことではなかった。
少なくとも、自分から尋ねようと思っていたことではない。
それでも、目の前の女性は自分から話し始めた。
「……どうしてですか?」
ようやく、それだけを尋ねた。
「私にも、守らなければならない子どもたちがいたから」
サミラは答えた。
「ナディルとサフィーヤ」
リリアは二人の顔を思い浮かべた。
「ザフィールは、疑いを一人で終わらせる人ではなかった」
サミラは静かに続ける。
「サーハラを庇えば、次は私の宮が調べられる。女官も、実家も、子どもたちも」
「……皇子や皇女でも?」
「皇子や皇女だからよ」
リリアは息を止めた。
「あの人にとって、皇子や皇女は子である前に、皇位と血統に関わる存在だった」
前皇帝のもとで、同じ父を持ちながら、同じようには扱われなかった子どもたち。
「だから私は、自分の子どもを選んだ」
「それが正しかった、と」
口にしてから、少し強かったかもしれないと思った。
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
サミラは表情を変えなかった。
「正しかったとは言わない」
リリアは目を瞬いた。
「サーハラは死んだ。ミレナは皇宮を出た。ナシーラは母を失った。私は生き残り、子どもたちも生き残った」
静かな部屋に、言葉が落ちた。
「それが結果よ」
◆
「ナシーラさんが隔離されたことも……」
リリアはそこで言葉を止めた。
「知っていたわ」
サミラの方から答えた。
「最初から?」
「ええ」
十年以上、ナシーラは、いない者として扱われていた。
「私は、あの子を皇宮の奥から出すことができなかった。ザフィールが生きている間は」
「では……」
そこまで言って、リリアは口を閉じた。
サミラは続きを理解したらしい。
「何もしなかったのか、と聞きたい?」
「……申し訳ありません」
「謝らなくていいと言ったでしょう」
初めて、サミラの口元がほんの少し動いた。
「最低限のことはしたわ」
「最低限?」
「ナシーラ付きの女官に、私の信頼できる者を一人入れた。食事を減らされないように。冬に火を絶やさないように。そして必要な時には医女を入れることも」
「その方は、ナシーラさんに、お母様のことを話さなかったんですか?」
「私が禁じたわ」
「なぜですか?」
「役目を知られれば、その者はすぐに遠ざけられる。代わりにどのような者が置かれるかも分からなかった」
サミラの声は静かだった。
「私は、ナシーラに真実を伝えることより、その日の食事と火を絶やさないことを選んだの」
リリアは答えられなかった。
「それだけよ。それを『守った』などとは言わない」
サミラは目を伏せた。
「ナシーラは、自由を奪われたまま育った。私には、それを終わらせる力がなかった」
◆
「後悔していらっしゃいますか?」
リリアは尋ねた。
サミラはすぐには答えなかった。
「しているわ」
「では、もし同じ時に戻れたら……」
「同じことをするでしょうね」
あまりに早い答えだった。
リリアは目を見開いた。
「後悔しているのに?」
「ええ」
「どうして……」
「私には、サーハラも、ナシーラも、ミレナも、すべてを救える力がなかったから」
サミラは静かに言った。
「何かを選べば、何かを捨てるしかなかった。だからといって、捨てたものを忘れていいわけではない」
リリアは黙った。
「後悔と選択は、別のものよ」
◆
窓の外で、冬の風が木の枝を揺らした。
「リリア」
「はい」
「宮廷では、正しさだけで生き残れるとは限らないわ」
リリアはサミラを見た。
「私は、子どもたちを生かすためにサーハラを助けなかった。その選択を、今も正しかったとは思っていない」
サミラは窓の外へ目を向けた。
「前皇帝が亡くなった時も、すべてが終わったとは思わなかった。人が一人死んだからといって、その人が残したものまで消えるわけではないもの」
それらは、六年が過ぎた今も残っている。
「ただ、一つ思ったことはある」
「何ですか?」
「ナディルは、私とは違ったのだと」
「皇帝陛下が?」
「ええ」
サミラはそれ以上は説明しなかった。
リリアには、その意味が分からなかった。
「陛下は、皇太后陛下の選択をどう思っていらっしゃるんでしょう」
「正しいとは思っていないでしょうね」
「お聞きになったことがあるのですか?」
「昔、責められたわ。まだ皇帝ではなかった頃にね」
サミラの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「『なぜ何もしなかった』と」
リリアは少し驚いた。
ナディルにも、そんな時代があったのだ。
「何とお答えになりましたか?」
「今あなたに話したことと、同じことを」
「納得されたんですか?」
「いいえ」
サミラは首を振った。
「でも、それでいいの。子が、親の選択をすべて正しいと思う必要はないでしょう。同じものを見ても、違う選択をすることはできるのだから」
リリアは黙っていた。
皇帝の前では、自分の考えを伝えることができた。
保護と監禁は違うと。
けれど、母を知るサミラの前では、もっと聞きたい気持ちが先に立つ。
この人の声を、もう少し聞いていたい。
母のことを話すサミラを見ていると、胸の奥にしまってきた寂しさがほどけそうになる。
彼女のそばに、もう少しいたい。
そんな願いが生まれていることに気づき、リリアは膝の上で両手を握った。
◆
話が終わり、リリアは席を立った。
「今日は、ありがとうございました」
「ええ」
サミラも立ち上がった。
「リリア」
「はい」
「私は、あなたのお母様に手を貸さなかった。サーハラも助けなかった。ナシーラを自由にすることもできなかった」
リリアは黙って聞いた。
「それは事実よ」
謝罪が続くのかと思った。
けれど、サミラは謝らなかった。
「私は、あなたに許してもらうために話したのではないわ」
「では……」
「あなたが、これから選ぶ時のため」
「私が?」
「黒百合の巫女だからではない。あなた自身が、これからいくつも選ばなければならないから。その時、綺麗な答えだけが正しいとは思わないことね」
リリアには、まだその言葉のすべては分からなかった。
「……覚えておきます」
「それでいいわ」
サミラは一度、言葉を切った。
「それから、もう一つ」
「はい」
「あなたには、今のヤシャラに頼れる家がない」
リリアは黙った。
「祀院にも有力家門にも属していない。それを自由と呼ぶ者もいるでしょう。けれど、後ろ盾のない者の自由は、力のある者が手を伸ばせば簡単に奪われる」
「皇太后陛下は、どうすればよいとお考えですか?」
サミラはすぐには答えなかった。
「あなたたちを思わせる歌が、街で広まり始めているそうね。宮の耳にも届いているわ」
「二振りの剣が、姫のそばにいる歌ですか?」
「ええ。名は伏せてあっても、あなたとシリル、ヴィクトルを指していると気づく者は多いでしょう」
リリアは答えなかった。
「二人と距離を置きなさい。特にヴィクトルからは」
「ヴィクトルさんが、異国の騎士だからですか?」
「そうよ。彼を信用していないという意味ではないわ。けれど、異国の騎士が黒百合の姫のそばにいる姿は、宮廷の者にとって格好の噂になる。彼自身の立場まで、あなたを巡る争いに利用されかねない」
「シリルも、ですか?」
「二人ともよ。あなたを守ってきた人たちだからこそ、巻き込まれてほしくない」
サミラは少し声を和らげた。
「あなたたちのことを思った上で言っているのよ」
リリアは膝の上で手を組んだ。
「二人を遠ざけるのは、簡単ではありません」
「分かっているわ。関係を断てと言っているのではないの。まずは人目のある場所で距離を保ちなさい」
「警護は必要です」
「ええ。必要なら、私が信頼する者を付ける準備もある。腕が立ち、口の堅い者を選ばせるわ。女性近衛を望むなら、そのように手配もできる」
リリアは、サミラの顔を見た。
「ヴィクトルさんのことを、悪く思っているわけではないのですか?」
「まさか」
サミラはわずかに首を振った。
「彼はあなたの恩人でしょう。あなたをヤシャラまで守り届けた。ヤシャラにとっても大恩人よ」
リリアは、サミラの言葉を待った。
「最高位の客人として遇するべき人です。皇帝陛下には、国が授けられる最高位の勲章と褒賞を贈るよう、私から提案するつもりよ」
「そこまで……」
「本人が望むなら、ヤシャラの爵位を授けるよう、皇帝陛下に奏上する用意もある」
リリアの胸が揺れた。
ヴィクトルの働きが、この国に認められる。
そのことが嬉しかった。
「爵位を受ければ、彼はヤシャラの臣下となるわ。皇帝に忠誠を誓い、ローダンの騎士としての立場を手放すことになるでしょう」
サミラは、そこまで告げた。
ヴィクトルがヤシャラに迎えられる未来を思い描いた。
異国の騎士ではなく、この国の貴族として扱われる彼。
誇らしさが胸に広がる。
けれど、彼がローダンを離れ、自分の知らない場所へ進む姿を思うと、心が落ち着かなかった。
「もちろん、決めるのは彼自身よ。あなたが決めることではないわ」
リリアは小さく息をついた。
その言葉に安堵した自分がいた。
ヴィクトルの功績を認めてもらえたことが嬉しい。
その先を彼自身が選べると聞いて、ほっとしている。
自分が彼の行く末を気にかけていることを、サミラに見抜かれたような気がした。
「私が、あなたの後見人になりましょう」
サミラの申し出に、リリアは息を止めた。
「皇太后陛下が?」
「ええ」
「どうして、そこまで……」
「黒百合の巫女を、祀院や特定の家門に独占させないため」
サミラは隠さなかった。
「そして、十七年前に手を貸さなかったミレナの娘を、今度は見捨てないためよ」
どちらも、本心なのだろう。
だからこそ、リリアにはすぐに答えられなかった。
「あるいは、アルザーン公爵家の養女として迎えることもできる」
「養女……」
「アルザーン公爵家は、私の生家よ。今も家との縁は続いている。公爵家の名を持てば、あなたの立場は大きく変わるでしょう」
「アルザーン公爵家も、一つの家門ではありませんか?」
リリアが尋ねると、サミラはわずかに目を細めた。
「ええ。だから、選ぶのはあなたよ。力ある家に属するということは、守られるだけでは済まないのだから」
「その代わりに、私は何をすることになりますか?何かをいただけば、何かを求められるのではありませんか?」
サミラの眉がわずかに動いた。
ファリダは動かなかった。
けれど、その視線がリリアへ向いたことは分かった。
サミラは、しばらくリリアを見つめた。
「ミレナとは違うところもあると思ったけれど」
「はい?」
「今の目は、よく似ている」
リリアは答えを待った。
「今すぐ、何かを求めるつもりはないわ」
「今すぐは?」
「先のことまで、何も求めないとは約束できない」
サミラは穏やかに言った。
「家に属するというのは、守られるだけではないもの」
「では、今お答えはできません」
リリアは言った。
「考えたいです」
サミラは頷いた。
「ええ。考えなさい」
「よろしいのですか?」
「皇帝から、あなた自身の同意を得ろと言われているの」
ナディルの顔が浮かぶ。
「ナディル陛下が……」
「だから、こうして尋ねている」
サミラの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「答えを急がせるつもりはないわ。ただ、覚えておきなさい。今の私には、あなたを守る力がある」
リリアは一礼した。
「お申し出は、決して忘れません」
「それでいいわ」
◆
冬の空は青かった。
回廊を歩きながら、リリアはサミラの言葉を思い返した。
後見人の申し出。アルザーン公爵家の養女という道。シリルとヴィクトルから距離を置くようにという忠告。
そして、ヴィクトルへの勲章と爵位。
彼がヤシャラの臣下となる未来を、サミラは差し出した。
それは彼にふさわしい栄誉なのかもしれない。
けれど、リリアには、彼が遠ざかっていくようにも思えた。
サミラの声には、母のような温かさがあった。
その温かさに、もう少し甘えていたいと思う自分がいる。
ナディルの前では、必要なことを言えた。
けれどサミラの前では、母を知る人の言葉をもっと聞いていたいと願ってしまう。
リリアは、回廊の先へ目を向けた。
自分が何を望んでいるのか、自分でも分からなかった。
◆
扉が閉じたあとも、サミラはしばらくその場に立っていた。
リリアが母の話を聞く時の目を、見逃してはいない。
その心に近づけることを、サミラは嬉しく思った。
リリアを守りたいという思いに、偽りはない。
だが、その思いを自分のために使えることも分かっていた。
ヴィクトルへの褒賞に偽りはない。
彼はリリアの恩人であり、ヤシャラにとっても大きな恩人だ。
だが、爵位を受ければ、彼は皇帝の臣下となる。
異国の騎士として、リリアのそばに立ち続けることはできなくなる。
名誉を与え、忠誠を結び、二人の距離を変える。
そのすべてを、サミラは一つの申し出に込めていた。
皇帝より先にリリアの心へ届くかもしれない。
サミラの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。




