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第十八話 譜面にない声

◆


 マーディヤの証言は、その日のうちにナディルへと伝えられた。


 サーハラには、急死につながる病が見られなかったこと。


 死因の調査を禁じられ、死亡確認書の死因欄が空白だったこと。


 身籠もったミレナをサーハラが庇い、その行き先を最後まで明かさなかったこと。


 そして先帝が、ミレナの身籠もった子の父親についても問いただしていたこと。


 報告を聞いたナディルは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ジャリールへ視線を向ける。


「医局と親衛府の記録を照らし合わせろ」


「承知しました」


「北内院へ入った者、出た者。冬月十七日の夜から翌朝まで、残っているものはすべてだ。マーディヤの証言と一致するものがあるか調べろ」


「御意」


 ジャリールが一礼する。


 リリアはサフィーヤの傍らで、そのやり取りを聞いていた。


 母を知る人の言葉を聞くたび、知らなかった母の時間が少しずつ形になっていく。


 けれど、知れば知るほど、新しい疑問も増えていった。


 母は、なぜヤシャラを出なければならなかったのか。


 サーハラは、なぜそこまでして母をかばったのか。


 そして――自分の父親は誰なのか。


 答えはまだ、どこにもなかった。


◆


 翌日、リリアはサフィーヤの招きで、皇女宮の談話室を訪れていた。


 部屋の中央には低い卓と椅子が並べられ、窓辺には小型の弦楽器が置かれている。


「昨日は途中になってしまったでしょう」


 サフィーヤが言った。


「今日は続きをやりましょう」


「歌ですね」


「ええ。年始めの祭りまでに、一曲くらいは歌えるようになりたいでしょう?」


「祭りで歌うんですか?」


「あなたが歌いたいなら」


「……考えておきます」


 サフィーヤが笑った。


「では、まずは覚えるところからね」


 昨日、マーディヤからの返事を待つ間に練習していた歌だった。


 冬の枝に花を待ち、東の空に朝を待つ。年始めの祭りで古くから歌われてきた旋律だという。


 サフィーヤは弦を指で弾いた。


 澄んだ音が部屋に広がる。


「昨日より少し難しくするわよ」


「難しく?」


「ヤシャラの歌は、同じ音でも真っ直ぐには伸ばさないところがあるの。昨日は旋律を覚えることを優先したけれど、今日はそこも真似してみて」


「はい」


「まず、聞いて」


 サフィーヤが歌い始めた。


 リリアは目を閉じる。


 昨日も聞いた旋律だったが、意識して聞くと、一つの音の中にも細かな揺れがある。


 音が上がり、少し戻り、そこから次の音へ移る。


 サフィーヤが歌い終えた。


「では、どうぞ」


 リリアは息を吸った。


 昨日覚えた旋律をなぞりながら、今聞いたばかりの音の揺れを真似る。


 一度目は、途中で音が真っ直ぐになった。


「あ」


「そこをもう一度ね」


「はい」


 同じところを繰り返す。


 今度は、少し揺らせた。


「そう。それくらい」


「難しいですね」


「昨日、一度聞いただけで最後まで歌った人が、何を言っているの」


「それとこれとは違います」


「そう?」


「たぶん」


 サフィーヤが笑った。


「その『たぶん』、便利ね」


「便利です」


 リリアも少し笑った。


 もう一度、最初から歌う。


 今度は、さっきよりヤシャラの歌らしい音の運びになった。


「覚えるのが早いわね」


「音は覚えられるんです。でも、どうしてなのかは分かりません」


「分からなくてもいいんじゃない?」


「いいんでしょうか」


「今はね」


 サフィーヤはそう言って、もう一度弦を鳴らした。


◆


 部屋の入口近くには、ファリダとラフィークが控えている。


 ヴィクトルとシリルも同席していた。


「ローダンの歌も試してみましょうか」


 サフィーヤが言った。


「宮廷の楽譜庫から、ローダンの曲を一つ借りてきたの」


 卓に置かれたのは、ローダン語の歌詞と譜面が記された紙だった。


 リリアは譜面へ目を落とす。


 音符の並びを追ううち、知らないはずの旋律が少しずつ浮かんできた。


「この曲は、ローダンでよく歌われる形ですか?」


 サフィーヤがヴィクトルに尋ねた。


「はい。拍がはっきりしていて、旋律も一つの音から次へまっすぐ進みます。ヤシャラの歌のように、一音の中で細かく揺らすことはあまりありません」


「伴奏をつけるなら?」


「旋律の拍に合わせて和音を置くのが基本です。ただ、このヤシャラの歌に同じやり方を当てはめると、音の揺れを押さえてしまうでしょう」


「楽器を使わなくても、そこまで分かるんですね」


 リリアが言うと、ヴィクトルは目を伏せた。


「音楽を習っていましたから」


「歌も?」


「歌いません」


 ヴィクトルは即答した。


 サフィーヤが笑う。


「一節だけでも?」


「歌いません」


 シリルが吹き出した。


「そこまで頑なになることか」


「人前では歌いません」


「伴奏はできるんだろ」


「歌うのとは別です」


「俺たちしかいないぞ」


 ヴィクトルは部屋を見回した。


 サフィーヤ、リリア、シリル。入口にはファリダとラフィークもいる。


「十分、人前です」


「なるほど」


 リリアが頷く。


「納得するのか」


 シリルが呆れたように言い、卓の端に置かれた譜面に目をやった。


「読めるの?」


 リリアが尋ねる。


「読めない。聞けば覚える」


 シリルは、サフィーヤが先ほど歌った旋律を口ずさんだ。


「本当に一度で覚えたんですね」


「歌は、そういうものだろ」


「譜面を読む人の前で言うと、怒られそうです」


「誰にだ」


「分かりません」


 リリアが答えると、シリルは肩をすくめた。


「では、ローダンの曲を聞いてみましょう」


 サフィーヤが譜面をリリアの前へ置いた。


 ヴィクトルが、譜面の最初の音を指で示す。


「この曲なら、音の流れも分かりやすいと思います」


 リリアは譜面を見た。


 知らない曲のはずだった。


 けれど、旋律を目で追ううちに、歌詞の一節が口をついて出た。


 リリア自身が一番驚いた。


 次の言葉も、考える前に出てくる。


 譜面に記された音符と歌詞を追いながら、リリアは歌い続けた。


 ヴィクトルは何も言わず、譜面を見つめている。


 シリルは途中から、歌詞を知らないまま旋律だけを重ねた。


 最後の音が消えた。


「……この曲」


 リリアは譜面を見たまま言った。


「知っていたみたいです」


「ローゼンベルク家で習ったのかもしれませんね」


 ヴィクトルが答えた。


「でも、覚えていません」


 歌詞を知っている。


 旋律も歌える。


 だが、誰と歌ったのか、どこで覚えたのかは思い出せなかった。


「無理に思い出さなくていい」


 シリルが言った。


「歌えるなら、今はそれでいいだろ」


「……はい」


 リリアは譜面を見つめた。


 記憶にはない。


 それでも、声の中には残っていた。


◆


 談話室を出た時、回廊の向こうから若い女官の歌声が聞こえてきた。


「二振りの剣は姫のそば、近くも遠くも離れずに――」


 リリアは足を止めた。


 皇都へ戻る途中の茶屋で聞いた歌と同じだった。


 女官はこちらに気がつくと、慌てて歌うのをやめた。


「申し訳ございません」


「謝ることはないわ」


 サフィーヤが声をかける。


「その歌、どこで覚えたの?」


 女官は戸惑いながら答えた。


「市で吟遊詩人が歌っていたそうです。侍女たちの間で広まり始めています」


「いつ頃から?」


「数日前からだと聞いております」


 サフィーヤの表情がわずかに変わった。


「歌詞は、それだけ?」


「いいえ。もう少しあります」


「覚えている?」


「少しだけでしたら」


 女官はおそるおそる歌った。


「黒き花は冬に咲き、異国の姫は朝を待つ。二振りの剣は姫のそば、近くも遠くも離れずに――」


 そこで、女官は歌うのをやめた。


 リリアは何も言えなかった。


 黒き花。


 異国の姫。


 二振りの剣。


 名前は一つも出ていない。


 それでも、自分たちを指しているのだと分かった。


「あなたを知らない人なら、ただの歌として聞くでしょうね」


 サフィーヤが言った。


「知っている人なら、私を思い浮かべる」


「ええ」


 ヴィクトルが、歌を口ずさんだ女官の背中を見送った。


「私たちがあなたのそばにいることまで知られているようです」


「二振りの剣は?」


 リリアが尋ねる。


「俺たちだろ」


 シリルが短く答えた。


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「誰が作ったんでしょう」


「調べた方がよさそうね」


 サフィーヤの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。


◆


 夕刻、リリアはファリダとともにナシーラの部屋を訪ねた。


 扉の外には、ナシーラ付きの女性護衛が控えている。


 ファリダは少し離れた場所で待つことになった。


「今日は、昨日の歌の続きを習ったんです」


 リリアが言うと、ナシーラは目を上げた。


「聞かせて」


「まだ上手ではありませんよ」


「いい」


 リリアは息を吸った。


 冬の枝に花を待ち、東の空に朝を待つ。


 音の揺れを思い出しながら、ゆっくりと歌う。


 少しだけヤシャラの歌らしい音の運びになった気がした。


 ナシーラは黙って聞いていた。


 最後の音が消える。


「もう一度」


「はい」


 二度目は、少し力を抜いて歌えた。


 歌い終わると、ナシーラは窓の外へ目を向けた。


「春を待つ歌?」


「はい。冬が終わって、花が咲くのを待つ歌だそうです」


「……好き」


 短い言葉だった。


「私も好きです」


「また聞かせてくれる?」


「もちろんです」


 しばらくして、ナシーラが小さく尋ねた。


「昨日のこと、考えてる?」


 リリアは答えるまで、少し時間がかかった。


「はい」


「私も」


「……そうですよね」


 それ以上、二人は何も言わなかった。


 リリアはもう一度、旋律を口ずさんだ。


 ナシーラは最後の音が消えるまで、静かに聞いていた。


◆


 帰り際、リリアは扉の前で振り返った。


「また来てもいいですか?」


「うん」


 ナシーラが頷いた。


「明日でも?」


「いいよ」


「では、来ます」


 リリアが扉を閉める。


 ファリダが待っていた。


「戻りましょうか」


「はい」


 二人で歩き始める。


 リリアの頭には、二つの歌が残っていた。


 一つは、古くから歌われてきた春を待つ歌。


 もう一つは、譜面にも載っていない、誰が作ったのかも分からない歌。


 ――黒き花は冬に咲き、異国の姫は朝を待つ。


 ――二振りの剣は姫のそば、近くも遠くも離れずに。


 誰かが、自分たちを見ている。


 そして、それを歌にしている。


 リリアは足を止め、静まり返った回廊を振り返った。


 そこには、誰もいなかった。

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