第十七話 二人の母
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御前聴取要旨控えが見つかった翌日、皇宮医局の古い人事記録から、一人の名が浮かび上がった。
マーディヤ。
十七年ほど前、第三皇后宮付きの医女を務めていた女性だ。
冬月十五日に行われた「秘診」の索引に残された花の印。
それと同じ印を使っていた医女を調べ、マーディヤの名に行き着いた。
さらに、第三皇后サーハラが亡くなったとされる冬月十七日の夜、皇帝直属区画へ入った医局の者としても、彼女の名が記録されていた。
その夜、ほかの医官や医女が入った記録はない。
サーハラを最後に診察した可能性が最も高い人物だった。
マーディヤは十二年前に皇宮医局を退職し、現在は七十一歳。皇都から馬車で半日ほどの村で暮らしているという。
サフィーヤは、その日のうちに使者を送った。
◆
三日後の朝、リリアはサフィーヤの部屋で、譜面を広げていた。
「まずは、旋律を聞いてみて」
サフィーヤが歌い始めた。
冬の枝に花を待ち、東の空に朝を待つ歌だった。
リリアは目を閉じ、音の運びを聞き取ろうとした。
サフィーヤが歌い終える。
「歌えそう?」
「はい。たぶん」
リリアは、教わったばかりの歌を口にした。
最初は、発音をなぞるように、音を探るように慎重だった。
けれど、徐々に旋律は安定し、リズムも崩れなかった。
ファリダが意外そうに目を上げる。
「リリアさん、歌を習ったことがあるんですか?」
「……分かりません。覚えてはいないのに、音を追うのは難しくない気がします」
「身体が覚えているのかもしれないわね」
サフィーヤが言った。
馬場で栗毛に乗った時と同じように、記憶のないところに何かが残っているのだろうか。
「もう一度、最初から合わせましょう」
サフィーヤが旋律を歌い、リリアが続く。
今度は、音を探る間もなく、最後まで歌いきる。
その時、扉の外で控えていたラフィークの声がした。
「サフィーヤ殿下。使者が戻りました」
歌声が止まる。
サフィーヤの顔から笑みが消えた。
「通して」
◆
マーディヤは、皇宮へ来ることを断った。
「第三皇女殿下が、十七年ほど前の第三皇后様についてお尋ねになりたいとお伝えしたところ――」
使者は、そこで言葉を切った。
「お会いすることには同意されました」
「ナシーラ本人に?」
「はい」
「条件は?」
「皇宮へは入らないこと。それだけです」
サフィーヤが頷いた。
「分かったわ」
リリアは膝の上で両手を重ねた。
会える。
サーハラが亡くなったとされる夜に、皇帝直属区画へ入った医女、そして母ミレナを診た人に。
「いつなら、お会いできますか?」
「明日でも構わないとのことです」
「明日……」
思っていたより早い。
サフィーヤがリリアを見る。
「行く?」
「はい」
迷いはなかった。
◆
翌朝、皇宮の外門には二頭立ての馬車が用意されていた。
馬車に乗るのは、リリア、ナシーラ、サフィーヤ、ファリダ。
もう一人の随衛ラフィークは、騎兵たちとともに馬で同行する。
馬車の前後には、皇族警護の騎兵が三騎ずつ。
さらに、サフィーヤ付きの女性近衛が一人、ナシーラ付きの女性護衛が一人ついている。
ヴィクトルとシリルも、それぞれ馬で同行していた。
「ずいぶん多いですね」
リリアが小さく言った。
ファリダが荷物を確認しながら答える。
「皇女殿下がお二人、皇都の外へ出られるのですから、むしろ抑えた方です」
「これで?」
「これで、です」
リリアは騎兵たちを見回した。
「目立ちませんか?」
「目立ちます」
ファリダはあっさりと認めた。
「ですが、目立たないことより安全を優先する場面もあります」
「なるほど……」
「何ですか、その顔は」
「いえ」
リリアは馬車へ乗り込んだ。
ファリダの言うことは分かる。
けれど、皇宮という場所は、何をするにも人が多い。
慣れそうになかった。
◆
馬車は皇都を抜けた。
石造りの大きな建物が減り、低い土壁の家々が増えていく。
冬の畑、乾いた草、遠くに連なる山々。
ナシーラは窓の外を見たまま、ほとんど話さなかった。
リリアも、何を話せばいいのか分からない。
車輪が石を踏む音が続く。
時折、馬具が鳴った。
しばらくして、ナシーラが口を開く。
「リリア」
「はい」
「昨日は眠れた?」
「……少しだけです」
「私も」
車輪の音が、二人の間を流れていった。
◆
村へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
マーディヤの家は村の外れにあった。
小さな土壁の家で、軒下には束ねた薬草がいくつも吊るされている。
庭には冬でも葉を残す低木と、小さな薬草畑があった。
乾いた葉と根の匂いが、ローゼンベルク家の地下にあった香草室を思い出させた。
馬車が止まると、皇族警護の騎兵たちは周囲へ散った。
二騎が街道側、二騎が家の裏手、残る二騎が馬車とその周辺を警戒する。
ラフィークは騎兵たちの位置を確かめてから、家の入口近くについた。
サフィーヤ付きの女性近衛とナシーラ付きの女性護衛も、少し距離を取って周囲を見ている。
シリルは家の裏手へ目を向けてから、木に馬をつないだ。
ヴィクトルは馬車の近くで、街道の先を確かめている。
「リリアさん」
ヴィクトルが声をかけた。
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「……はい」
そう答えてから、リリアは考え直した。
「いえ。緊張しています」
ヴィクトルの表情が柔らいだ。
「そうですか」
「はい」
「私は、ここにいます」
それ以上は言わなかった。
少し離れたところから、シリルもこちらを見る。
「行ってこい」
「……はい」
「俺もここにいる」
リリアは頷いた。
◆
扉を叩く。
しばらくして、足音が近づいてきた。
扉が開いた。
小柄な老女だった。
白髪を後ろでまとめ、濃い茶色の長衣を着ている。
手には、薬草の籠を持っていた。
最初にサフィーヤを見る。
次に、ナシーラ。
老女の顔が強張った。
「……第三皇女殿下」
ナシーラは立ったまま、丁寧に一礼した。
「ナシーラです」
「存じております」
老女も礼を返した。
そして、リリアを見る。
その動きが止まった。
何かを言いかけた唇が動かなくなる。
手にしていた籠がゆっくりと傾き、薬草が一本、足元へ落ちた。
もう一本落ちたが、老女は拾おうともしなかった。
「……ミレナ様」
名前を聞いた瞬間、リリアは息を止めた。
「……私はリリアです」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
「ミレナの娘です」
返事はなかった。
老女はようやく籠を持ち直したが、手が震えている。
その目が、リリアの顔を確かめるように見つめた。
「目元が……」
「え?」
「あの頃のミレナ様によく似ておられる」
国境で会った老兵の言葉を思い出した。
――笑う前の顔が、よく似ている。
「そうですか……」
マーディヤの声が掠れた。
「あの方のお子が、生きておられたのですね」
リリアは答えられなかった。
◆
室内は薬草の匂いで満ちている。
棚には小瓶と乾燥した根、使い込まれた乳鉢や薬研が並んでいる。
見慣れた道具を目で追っているうちに、張っていた肩から少し力が抜けた。
マーディヤが湯を注ぐ。
「突然訪ねてしまって、申し訳ありません」
リリアはヤシャラ語で言った。
マーディヤが少し驚き、それから穏やかに首を振る。
「いいえ」
その返事は聞き取れた。
「いつか、こういう日が来るのではないかと思っておりました」
後半は聞き取れず、サフィーヤが意味を伝える。
ナシーラは膝の上で衣の端をつまんだ。
「私が来る日を?」
「……分かりません」
マーディヤは正直に答えた。
「ただ、あの夜のことを誰にも話さないまま死ぬのだろうかと、考えることはありました」
室内が静かになった。
◆
「母を診たことがありますか?」
リリアが尋ねた。
サフィーヤがヤシャラ語で伝えると、マーディヤは頷いた。
「ミレナ様を診察したのは二度です」
「最初は?」
「皇宮を出られる少し前でした」
「母は、病気だったんですか?」
「いいえ。吐き気と眩暈があり、食欲も落ちておられました」
マーディヤは、記憶を探すように目を伏せた。
「診察したところ、身籠っておられることが分かりました」
リリアはすぐには返事ができなかった。
十七年前の薬の記録から、その可能性は示されていた。
それでも、母を診た人の口から告げられると、胸の奥が詰まった。
「……私を?」
「時期を考えれば、あなた様でしょう」
「サーハラ様も、ご存じだったのですか?」
マーディヤは頷いた。
ナシーラが顔を上げる。
「母が?」
「第三皇后様は、私に一つだけ尋ねられました」
「何を?」
「『子は無事なのか』と」
リリアにも、その言葉は分かった。
子。
黒百合でも、巫女でもない。ただ、子。
「私は、今のところ問題は見られません、とお答えしました。すると第三皇后様は、安心されたようでした」
「どうして、サーハラ様は母を助けてくださったのでしょう」
マーディヤは、ゆっくりと首を振った。
「そこまでは、私には分かりません」
「母と親しかったのですか?」
「私の知る限りでは、何度か人払いをして話しておられました」
「何を話していたかは?」
「存じません」
マーディヤは少し考えた。
「ただ、第三皇后様はミレナ様を『黒百合』とはお呼びになりませんでした」
リリアは顔を上げた。
「では?」
「ミレナ、と」
黒百合でも、巫女でもなく、母の名前を呼んでいた。
「二度目に診たのは、ミレナ様が皇宮を出た夜です」
マーディヤが続けた。
「夜も深くなってから、第三皇后宮へ呼ばれました。ミレナ様は、すでに旅装でした」
リリアは、知らない母の姿を思い描こうとした。
「顔色はよくありませんでした。長い馬車移動は避けるべきだと申し上げました」
「母は何と?」
「『それでも、今夜でなければ駄目なの』と」
リリアは衣の端を握った。
「怖がっていましたか?」
マーディヤは考えてから答えた。
「怖かったと思います」
サフィーヤが補った。
「でも、それ以上に覚悟を決めているように見えたそうよ」
「ここを出る覚悟を?」
「ええ」
リリアは目を伏せた。
母は誰かに無理やり連れ出されたのではない。
自分で行くことを選んだ。
「診察のあと、ミレナ様はずっとお腹へ手を添えておられました」
リリアは無意識に自分の腹へ手を置いた。
マーディヤの視線がそこへ落ちる。
「……同じですね」
「え?」
「今の仕草です。ミレナ様も、そうしておられました」
リリアは自分の手を見つめた。
母も、こうしていた。
◆
「ミレナ様の診察とは別に」
マーディヤが言った。
「サーハラ様が亡くなった夜にも、私は皇宮医局から呼ばれました」
ナシーラが顔を上げる。
「母を診たの?」
「はい」
「どこで?」
「第三皇后宮ではありません。皇帝直属区画の北内院です」
サフィーヤの手が、茶器のそばで止まった。
「北内院……」
その名を口にした後、サフィーヤは視線を落とした。
先帝の治世を知る彼女にとって、そこが何を意味する場所なのか、説明を待たずとも分かるのだろう。
リリアには、その名の意味が分からない。
ファリダが低い声で説明した。
「皇帝直属で、拘束した者を置く場所としても使われていた区画です」
ナシーラの顔から血の気が引いた。
「私は、第三皇后様がまだ聴取に耐えられる状態か確認するよう命じられました」
サフィーヤの訳を聞いても、リリアはすぐには意味を飲み込めなかった。
「……治療するためではなく?」
マーディヤは首を横に振る。
「はい」
ナシーラが声を絞り出した。
「母は怪我をしていた?」
「手首に、拘束された跡がありました。頬にも傷がありました。長い時間、眠ることも許されていなかったのだと思います」
マーディヤは一度、息を継いだ。
「ですが、私が診た時は命に関わる状態ではありませんでした」
◆
「私が診ている間も、先帝は人を退けませんでした」
マーディヤの声が低くなる。
「診察が終わるのを待つこともなく、同じことを何度も尋ねておられました」
「何を聞かれていたんですか?」
リリアが尋ねる。
「黒百合の巫女の行き先。逃亡に手を貸した者。国境を越える手筈」
そこで、言葉が途切れた。
マーディヤがリリアを見る。
「そして、身籠っている子の父親です」
その瞬間、周囲の音が遠のいた気がした。
「父……」
その一語が、はっきりと残った。
母のことを知りたいと思ってきた。
どんな人だったのか。
なぜヤシャラを出たのか。
なぜ自分を産み、そして亡くなったのか。
けれど、父については具体的に考えたことはなかった。
「前皇帝陛下は、父が誰なのかも知ろうとしていたんですか?」
マーディヤが頷いた。
「はい」
「サーハラ様は?」
「答えませんでした。私が聞いた限りでは、何度尋ねられても」
リリアの脳裏に、御前聴取要旨控えの文字が浮かんだ。
――答えを得ず。
父親という存在が、突然、自分の中へ入り込んできた。
何を考えればいいのか分からず、リリアは目を伏せた。
◆
「先帝は、第三皇后様へ皇女様のことも口にされました」
ナシーラが動きを止める。
「私?」
「はい」
「何て?」
マーディヤは、ゆっくりと口を開く。
「『娘を二度と日の下へ出せなくしてもか』と」
リリアにはすべては聞き取れなかった。
けれど、ナシーラの顔を見て、ただならぬ言葉だと分かった。
サフィーヤが低い声で意味を伝える。
「母は?」
「その時だけ、第三皇后様は先帝のお顔をご覧になりました」
「何と言ったの?」
「『あの子に罪はありません』と」
ナシーラの瞳が揺れた。
それが、マーディヤの聞いたサーハラの最後の言葉だった。
◆
「それでも、母は何も話さなかったの?」
ナシーラが尋ねる。
「はい」
「私が閉じ込められると言われても?」
「はい」
ナシーラは俯いた。
リリアは、隣にいる彼女を見られなかった。
サーハラはミレナを守ろうとした。
けれど、そのために娘を――。
「殿下」
マーディヤが言った。
ナシーラが顔を上げる。
「第三皇后様が、殿下を捨てたようには思わないでください。私は、あの方のお心をすべて知っているわけではありません。ですが、殿下のお名前を出された時、あの方は取り乱されました」
「母が?」
「はい」
「どんなふうに?」
マーディヤは、しばらく答えを探した。
「……怖かったのだと思います」
ナシーラが瞬きをする。
「怖かった?」
「もちろんです。怖くなかったはずがありません」
ナシーラは何も言わなかった。
「それでも、話されませんでした」
◆
ナシーラが尋ねる。
「母の最後を、見たんですか?」
「いいえ。私は外へ出されました」
「では……」
「その数刻後、もう一度呼ばれました。死亡を確認するためです」
マーディヤは膝の上で両手を重ねた。
リリアは息を呑んだ。
「その時には、第三皇后様はもう息をしておられませんでした」
ナシーラから表情が消えた。
「死因は?」
サフィーヤが尋ねた。
「分かりません」
「死亡確認書を書いたのでしょう?」
「はい」
「そこには?」
「死因欄は空欄でした」
「空欄?」
「死因を記載することを許されませんでした」
サフィーヤの声が低くなる。
「詳しく調べることも?」
「許されませんでした。衣を解くことも、薬毒の有無を調べることも禁じられました。確認を命じられたのは、脈と呼吸だけです」
「目立った外傷は?」
「命を奪うほどの傷は、見える範囲にはありませんでした」
「では、現在残っている『急病により薨去』という記録は?」
「私が書いたものではありません」
サフィーヤは黙った。
「あなたが退出したあと、ほかの医官が呼ばれた可能性は?」
「私の知る限りではありません。北内院から医局へ戻る道で、交代の者とも会いませんでした」
「勤務記録にも、冬月十七日の夜に北内院へ入った医局の者として載っているのは、あなただけよ」
サフィーヤの言葉に、マーディヤは目を伏せた。
「第三皇后様を診たのは、私が最後だったのだと思います」
彼女が部屋を出たあと、何があったのか。
誰がサーハラのそばにいたのか。
なぜ命を失ったのか。
そこは、空白のままだった。
「どうして、今まで誰にも言わなかったの?」
ナシーラの声に、責める色はなかった。
マーディヤは俯いた。
「怖かったからです」
短い答えだった。
「私には夫がおりました。子どもも二人。先帝が生きておられる間は、とても話せませんでした」
「兄上が即位してからは?」
「何度も考えました。ですが、第三皇女殿下がどこにおられるのかさえ、私には分かりませんでした」
マーディヤは自分の手を見た。
「年月が過ぎるほど、今さら何を言えるのだろうと思うようになりました」
「……そう」
「申し訳ございません」
マーディヤが頭を下げようとした。
「やめて」
ナシーラの声に、老女の動きが止まる。
「謝らないで」
「殿下」
「あなたにも、守りたい人がいたんでしょう?」
マーディヤは答えなかった。やがて袖を目元に当てた。
帰り際、リリアは尋ねた。
「マーディヤさん」
「はい」
「母は、どんな人でしたか?」
マーディヤが少し驚いた顔をする。
「黒百合の巫女としてではなくて。ミレナという人が、どんな人だったのか知りたいんです」
「二度しかお会いしていません」
「それでも」
マーディヤは考え込んだあと、口元を緩めた。
「負けず嫌いな方でした」
「……母が?」
「診察中、横になってくださいと申し上げても、『座っていられます』と。顔色は真っ青なのに、大丈夫だと言い張っておられました」
リリアは何も言えなかった。
ファリダがこちらを見ている。
サフィーヤも、ナシーラも。
「……何ですか?」
「いいえ」
ファリダが答えた。
「少し似ていると思っただけです」
「私、そこまでではありません」
ファリダは返事をしなかった。
「本当です」
「そういうことにしておきましょう」
「ファリダさん」
隣で、ナシーラが小さく笑った。
今日、初めて聞く笑い声だった。
◆
外へ出ると、冬の空気が頬に触れた。
戸口のそばには、ナシーラ付きの女性護衛が待っていた。
ナシーラの顔を見ても何も尋ねず、ただ一歩近づく。
「殿下」
「大丈夫」
ナシーラが言った。
馬車の近くにいたヴィクトルが近づいてきた。
「リリアさん」
「はい」
「帰れますか?」
リリアは少し考えてから答える。
「はい。帰れます」
「分かりました」
シリルもこちらへ歩いてきた。
「疲れたな」
「……少しだけです」
「少し、ね」
「本当に少しです」
「なら、帰りは寝てろ」
「眠れるか分かりません」
「眠れなくても、目くらい閉じとけ」
「シリルは時々、ファリダさんみたいなことを言いますね」
「誰が」
少し離れたところからファリダの声が飛ぶ。
「聞こえていますよ」
シリルが黙った。
リリアは、ほんの少し笑った。
◆
帰りの馬車で、ナシーラは窓の外を見ていた。
リリアも黙って外を見る。
車輪の音が続く。
母ミレナは、自分を身籠っていた。
サーハラはそれを知り、馬車を出した。
母が皇宮を離れるのに手を貸し、先帝から何度問われても答えなかった。
その夜、サーハラは亡くなった。
ナシーラは母を失い、皇宮の奥へ移された。
――私が、母のお腹にいなかったら。
考えないようにしていた言葉が、また戻ってくる。
「ナシーラさん」
「なに?」
「もし、母が私を身籠っていなかったら、サーハラ様は私のことまで隠す必要はなかったのかもしれません」
「リリア」
「母一人なら、違う逃がし方があったかもしれません。前皇帝陛下に、あれほど問い詰められることも――」
「リリア」
「私が生まれたから――」
「それ以上は言わないで」
リリアは口を閉じた。
「……すみません」
「謝らないで」
ナシーラはリリアを見ていた。
怒っているようにも見えた。
その灰紫の瞳には涙が溜まっている。
「母が守ろうとしたあなたを、悪いものみたいに言わないで」
リリアは何も言えなかった。
「でも、私がいなければ――」
「分からない」
ナシーラははっきりと言った。
「リリアがいなければ母が助かったなんて、誰にも分からない。分かっているのは、母があなたのお母さんを助けたことだけ」
ナシーラの声が小さくなる。
「それを、なかった方がよかったことにしないで」
リリアは俯いた。
「……はい」
それ以上の言葉は出なかった。
しばらくして、ナシーラの小指がリリアの手に触れた。
リリアは少し迷ってから、その手を握った。
自分が生まれたことを間違いだったと思うのは、二人の母が守ろうとしたものまで否定することになる。
そう考えるのが、今のリリアには精いっぱいだった。
◆
街道沿いの茶屋から歌声が聞こえてきた。
吟遊詩人が、新しい旋律を試すように口ずさんでいる。
――二振りの剣は 姫のそば 近くも遠くも 離れずに。
リリアは窓の外を見た。
「今の歌は……」
サフィーヤはすぐには答えなかった。
茶屋の前を通り過ぎる。
歌声は車輪の音に紛れ、やがて聞こえなくなった。
「祭りが近づくと、新しい歌が広まるものよ」
サフィーヤはそう言ったきり、窓の外へ目を戻した。
リリアは、隣にいるナシーラの手を握ったまま、遠ざかる歌を聞いていた。
馬車は、冬の道を皇都へ向かって走り続けた。




