第十六話 語らなかった皇后
◆
翌朝、リリアは再び古記録庫を訪れた。
扉の外には、今日もラフィークが控えている。
室内では、年配の記録官が棚から下ろした帳簿を一冊ずつ確認していた。
サフィーヤとナシーラも、すでに長机についている。
やがて、記録官が最後の一冊を閉じた。
「ありません」
ヤシャラ語だった。
その言葉は、リリアにも聞き取れた。
サフィーヤが尋ねる。
「正本だけではなく、控えも?」
「はい。御前聴取の本文そのものが、現存していないようです」
ナシーラが俯いた。
「じゃあ……もう分からないの?」
「いいえ」
記録官が答えた。
ナシーラが顔を上げる。
「御前聴取ほどの事案であれば、一つの部署だけで処理されることはありません」
「どういうことですか?」
リリアが尋ねる。
記録官の説明を、サフィーヤがローダン語で補った。
「第三皇后を聴取するには、皇帝直属の親衛兵を動かす。皇后宮の出入りを止める。女官や使用人を調べる。必要なら医局にも問い合わせる」
記録官は、机の上に並ぶ帳簿を見渡した。
「中心となる記録が失われても、その周囲で動いた者たちの記録まで、すべて消すことは難しいのです」
サフィーヤが頷く。
「なら、周りから追いましょう」
リリアは、昨日見つけた索引へ目を落とした。
――第三皇后サーハラに対する、皇帝御前聴取。
本文がないならば、その周囲に残されたものから探す。
十七年前のあの日に何が起きたのか。
◆
最初に見つかったのは、皇帝直属親衛兵の配置記録だった。
冬月十七日。
第三皇后宮。
通常とは異なる印がついている。
「これは?」
リリアが尋ねる。
記録官が古い文字を確認した。
「皇帝直属親衛兵十二名。第三皇后宮へ派遣」
「十二人……」
ナシーラが呟いた。
「皇后宮を守るためですか?」
「いいえ」
記録官が首を振る。
続く説明を、サフィーヤが訳した。
「当時、皇后宮の警護は宮廷衛兵が担当していた。皇帝直属の親衛兵が直接入るのは異例だったそうよ」
「目的は?」
サフィーヤが尋ねる。
記録官が一行を示した。
「第三皇后および宮内関係者の外出、ならびに外部との接触を禁ず」
リリアは黙った。
昨日見た命令記録と一致する。
皇后宮の全門閉鎖と、女官や使用人の移動禁止。
そして、第三皇后自身の外出禁止。
「母を……閉じ込めたの?」
ナシーラが尋ねた。
記録官は答えなかった。
サフィーヤも、すぐには口を開かなかった。
「少なくとも」
やがて、静かに言う。
「自由に外へ出られる状態でなかったことは確かね」
ナシーラの視線が帳簿へ戻った。
◆
次に調べたのは、第三皇后宮に仕えていた者たちへの聴取記録だった。
すべてが残っているわけではない。
頁が欠けているもの、途中で文章が切れているもの、名前だけが残っているもの。
それでも、いくつかの言葉は読み取れた。
皇后宮馬車。
西門。
逃走。
協力者。
リリアの指が止まった。
サフィーヤが記録へ目を落とす。
「御者の供述ね」
そのまま読み上げた。
「『冬月十六日夜、第三皇后の直接の命により、皇后宮所属馬車を西門へ向かわせた』」
ナシーラが息を呑んだ。
昨日確認した宮門記録を、リリアも思い出していた。
冬月十六日の夜。
第三皇后宮所属の馬車が、西門から皇宮を出た。
そして翌朝、日の出前に戻っている。
「では、あの馬車は……」
「この供述が正しいなら」
サフィーヤが慎重に答える。
「サーハラ様の命令で出されたことになるわ」
記録官が別の帳簿を開いた。
「宮門の正規帳簿とは別に、当直の門衛が残した覚え書きがあります」
「同じ馬車についてですか?」
「はい」
記録官は古い文字を追った。
「『第三皇后宮所属の者ではない、黒髪の若い女一名を確認』」
リリアの胸が大きく鳴った。
黒髪の若い女。
第三皇后宮の者ではない。
その女が馬車に乗っていたのか、覚え書きだけでは分からない。
けれど、冬月十六日の夜に西門を出た馬車と、同じ頃に確認された黒髪の女。
偶然とは思えなかった。
◆
「母が、リリアのお母さんを逃がしたの?」
ナシーラが尋ねた。
リリアはすぐには答えなかった。
第三皇后宮の馬車。
サーハラ本人の命令。
西門。
身元の記されていない黒髪の若い女。
そして、その翌日の御前聴取。
「もう少し調べましょう」
リリアは言った。
「まだ、分からないことがあります」
ナシーラはしばらく黙っていた。
それから頷いた。
◆
昼前、記録官が席を立った。
「親衛府の旧記録も確認してまいります」
「親衛府?」
リリアが尋ねる。
「皇帝直属親衛兵を動かした記録を保管する部署よ」
サフィーヤが説明した。
「内廷で行われた聴取の本文がなくても、親衛兵を派遣した側には、命令を実行するための控えが残っているかもしれない」
記録官が奥の棚へ入っていく。
しばらくして戻ってきた時、その手には薄い紙束があった。
「御前聴取の本文ではありませんが、関連する控えが見つかりました」
紙束が机の上へ置かれる。
表紙には、内廷ではなく親衛府の印が押されていた。
「昨日調べた記録とは、別の場所に保管されていたものです」
「何の控えですか?」
「御前聴取要旨控えです」
リリアには聞き慣れない言葉だった。
サフィーヤが説明する。
「聴取で何を問い、どのような結果だったのかを、親衛府側で簡潔に記したものよ。聴取を終えたあとも警備を続ける必要があるか、判断するために残されたのでしょう」
「では」
リリアは紙を見る。
「前皇帝陛下が、サーハラ様へ何を尋ねたのか分かるんですか?」
「そういうことね」
一。
二。
三。
数字の横に、古いヤシャラ文字が並んでいる。
サフィーヤが読み上げた。
「一、黒百合の巫女の所在」
リリアの指が動く。
「二、第三皇后宮馬車を使用させた理由」
ナシーラが息を詰めた。
「三、逃走を補助した者の名」
リリアは顔を上げる。
「ほかにも、母を助けた人がいたと考えられていたんですか?」
「先帝はそう疑っていたようね」
「誰ですか?」
サフィーヤは紙面を滑らせていた視線を上げ、静かにかぶりを振った。
「ここには書かれていないわ」
記録官が続きを示した。
「四、皇宮内部の協力者」
「五、逃走先および国境通過の手筈」
そして、六。
サフィーヤの声が止まった。
「サフィーヤ様?」
「……六、黒百合の巫女の懐妊について」
リリアは動けなかった。
昨日見つかった処方記録。
身籠った女性にも使われる薬草。
切り取られていた診療記録。
そして今、前皇帝自身が、黒百合の巫女の懐妊について、サーハラへ尋ねていた。
「前皇帝陛下は……」
喉が乾く。
「母が身籠っていることを知っていたんですか?」
「そこまでは分からないわ」
サフィーヤが答える。
「疑って、確かめようとしていた。この紙から分かるのは、そこまでよ」
「……はい」
◆
「質問の横に、同じ言葉があります」
ナシーラが言った。
六つの項目の脇に、小さな古い文字が繰り返されている。
「何と書いてあるんですか?」
記録官が文字を確かめる。
「『答えを得ず』」
リリアは紙を見た。
一、黒百合の巫女の所在。
――答えを得ず。
二、第三皇后宮馬車を使用させた理由。
――答えを得ず。
三、逃走を補助した者の名。
――答えを得ず。
四、皇宮内部の協力者。
――答えを得ず。
五、逃走先および国境通過の手筈。
――答えを得ず。
六、黒百合の巫女の懐妊について。
――答えを得ず。
「母は……」
ナシーラが呟いた。
「知らなかったんじゃないの?」
その可能性はある。
知らないことなら、答えることはできない。
けれど、サーハラ自身が命じて馬車を出したという御者の供述も残っている。
何も知らなかったとは考えにくい。
リリアは答えられなかった。
「下にも記載があります」
記録官が紙の末尾を示した。
そこには、本文よりも小さな文字で短い一文が残されていた。
「何と?」
記録官がゆっくりと読み上げる。
「『右の各項を重ねて問うも、第三皇后、再度沈黙』」
ナシーラが動かなくなった。
「沈黙……」
「はい」
「一つも、答えなかったの?」
記録官は何も言わなかった。
ナシーラが紙を見つめる。
「答えられなかったんじゃなくて」
その声が小さく震えた。
「答えなかったの?」
「この記録だけでは断定できないわ」
サフィーヤが答えた。
ナシーラが姉を見る。
「どうして?」
「この控えに残されているのは、先帝が何を尋ねたのかと、答えを得られなかったという結果だけだから」
サフィーヤは、紙の末尾へ目を落とした。
「サーハラ様が答えなかった理由までは、書かれていない」
知らなかったのかもしれない。
恐ろしくて、声が出なかったのかもしれない。
あるいは、すべてを知ったうえで語らなかったのかもしれない。
リリアは、六つの問いを見つめた。
◆
同じ日の夜、皇太后宮の奥で、側近の女官が膝をついていた。
窓辺に立つ皇太后サミラは、黒髪に混じる銀を指で払った。
「報告を」
「リリア殿、ナシーラ殿下、サフィーヤ殿下が、先帝の治世に関する記録を調べております」
「どこまで知ったか」
「冬月十六日の夜、第三皇后の命で皇后宮の馬車が西門へ向かったこと、当直の門衛が、皇后宮に属さない黒髪の若い女を目撃した件まで把握しております」
サミラの視線が女官に向いた。
「続けなさい」
「翌十七日には、皇帝直属親衛兵十二名が第三皇后宮へ派遣され、宮の者たちの外出と外部との接触が禁じられています。親衛府に残された聴取要旨控えには、黒百合の巫女の所在、馬車を出した理由、逃走への協力者、懐妊について先帝が尋ねたとあります」
「サーハラの答えは?」
「いずれの問いにも『答えを得ず』。末尾には、重ねて問うも第三皇后は再び沈黙した、と」
サミラは窓の外へ目を向けた。
「沈黙は、何も知らなかった証にはならぬ」
「はい」
「リリアは、ミレナがその馬車に乗ったと考えているのか」
「まだ断定してはおりません。記録の時期と黒髪の女の記述から、疑っているようです」
しばらく、部屋に沈黙が落ちた。
「ミレナがヤシャラを出た前後の記録を洗い直せ。医女、産婆、門衛、御者。関わった者を探し、父親につながる証言を見つけなさい」
「先帝とセイラン殿、双方について調べますか」
皇太后は頷いた。
「記録と証言で確かめなさい。他の可能性も排除せず、生きている者がいれば、まずは所在を確認するように」
「承知いたしました」
「黒百合の守り人とローダンの騎士はリリアから遠ざけるよう講じなさい」
女官が顔を伏せた。
「傷つける必要はない。だが、邪魔者は取り除かなければならぬ」
「例の吟遊詩人については、いかがいたしましょう」
「年始めの祭りに向けて、新しい歌を一つ。黒百合の姫と、二振りの剣。名は出さず、聞いた者があの三人を思い浮かべる程度に」
「恋歌として広めますか」
「決めつける必要はない。噂というものは、聞いた者たちに勝手に語らせればよい」
サミラは窓辺を離れた。
「リリアの価値を損なうような真似はするな。父親が誰であろうと、あの娘の行く先を他人に決めさせるつもりはない」
「皇統照合の儀についてはいかがなさいますか」
「進めろ。誰にも気づかれぬよう慎重にな」
女官は、深く頭を垂れた。




