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第十五話 消された記録

◆


 翌朝、リリアはナシーラと並んで、サフィーヤの部屋を訪れていた。


 扉の外には、今日の随衛を務めるラフィークが控えている。


「第三皇后サーハラ様について、調べたいのです」


 リリアの言葉に、サフィーヤは書類から顔を上げた。


 机の上には、年始めの祭りに関する書類が広げられている。


 サフィーヤはリリアを見たあと、ナシーラへ目を向けた。


「ナシーラも?」


「うん」


 ナシーラが答える。


「母のことを知りたい」


 サフィーヤはしばらく無言だった。


「何を聞いたの?」


「急な病気で亡くなったこと。それから――」


 リリアはナシーラを見る。


 ナシーラが頷いた。


「サーハラ様が亡くなったあと、ナシーラさんはサーハラ様のご家族と会えなくなったそうです。サーハラ様付きの女官たちもいなくなって、前皇帝陛下が亡くなるまで、皇宮の奥から出ることを許されなかったと」


 サフィーヤの表情が険しくなった。


「ナシーラが、そこまで話したの?」


「私が話した」


 ナシーラが言った。


「だから、調べたい」


 サフィーヤは妹を見つめた。


 やがて、手元の書類を閉じる。


「分かったわ」


「調べてもいいんですか?」


「兄上は、正式謁見であなたが古い記録を調べることを認めているでしょう」


「はい」


「ナシーラが自分の母について調べることを、止める理由はないわ」


 サフィーヤは机の引き出しを開けた。


 取り出したのは、折り畳まれた一枚の文書だった。


 広げると、下部に皇帝の印が押されている。


「兄上から預かっている閲覧許可証よ。先帝の治世における黒百合と、関連する内廷記録を、私の立ち会いのもとで閲覧できる。第三皇后宮の記録も対象に含まれているわ」


 リリアは赤い印を見つめた。


「そこまで許可してくださったんですね」


「兄上自身も、先帝の治世で何が行われたのか、すべてを知っているわけではないから」


 サフィーヤは文書を畳んだ。


「一つだけ覚えておいて」


「はい」


「記録に書かれていることが、すべて真実とは限らない」


 そこで言葉を切る。


「書かれていないことにも、意味があるわ」


 リリアは頷いた。


◆


 皇宮の古記録庫は、朝でも薄暗い。


 高い棚が幾列も並び、その間を記録官たちが静かに行き交っている。


 入口で、サフィーヤが閲覧許可証を差し出した。


 年配の記録官が皇帝の印を確かめる。


 もう一人の記録官が呼ばれ、文面と日付を照合した。


 やがて、奥へ続く格子扉の鍵が開けられた。


 ラフィークは扉の外で足を止めた。


「閲覧を許された方以外は、奥へは入れません。私はここにおります」


「分かりました」


 少し離れた回廊には、サフィーヤ付きの近衛が一人控えている。


 リリアはナシーラとともに、格子扉の奥へ入った。


 長机の向かい側に、サフィーヤと年配の記録官が座る。


「分からないところは、私が訳すわ」


 サフィーヤが言った。


「ありがとうございます」


 最初に運ばれてきたのは、一冊の古い記録簿だった。


 革の表紙は擦れ、紙は黄ばんでいる。


「第三皇后宮の日誌です。十七年ほど前の冬月の記録が収められているそうよ」


 リリアには、まだ読めない文字が多い。


 サフィーヤが頁の一か所を示した。


「ここ」


 リリアは文字を追った。


 第三皇后。


 サーハラ。


 その二つは読めた。


「その先は?」


「『冬月十七日、第三皇后サーハラ、急病により薨去』」


 隣で、ナシーラの指が膝の上で組まれた。


「私も、そう聞いている」


 ナシーラがローダン語で言った。


 リリアは前の頁へ目を移した。


 冬月十六日。


 サーハラが亡くなったとされる日の前日だ。


 皇后宮を訪れた者や、運び込まれた品について記録されている。


 けれど、頁の途中から何も書かれていなかった。


「十六日だけ、途中から空白になっています」


 サフィーヤが帳簿を引き寄せた。


「皇后宮への出入りを記す欄ね」


 十五日には記録がある。


 十四日にも、十八日にも。


 十六日だけ、途中から何もない。


 リリアは紙に顔を近づけた。


 空白になっている部分だけ、表面が細かく毛羽立っている。


「ここだけ、紙が傷んでいるように見えます」


 記録官は手袋をはめ、帳簿を光へ傾けた。


 指では触れず、角度を変えながら紙の表面を調べる。


 やがて、低い声で何かを告げた。


「文字を削った跡があるそうよ」


 ナシーラが顔を上げた。


「誰かが消したの?」


 記録官は首を振った。


「削られた時期も、削った者も分からない。何かが書かれていた可能性は高いけれど、それ以上は断定できないそうよ」


 リリアは、空白になった欄を見つめた。


「同じ日の記録が、ほかの場所に残っていれば……」


 記録官は少し考え、皇后宮の出入りとは別に、宮門を通過した人や馬車を記す帳簿があると答えた。


 サフィーヤが立ち上がる。


「皇后宮の記録が消されているなら、門の記録を見ましょう」


◆


 記録官が奥の棚へ入り、別の者が保管目録を確認する。


 ようやく運ばれてきた帳簿は、先ほどのものよりも大きく、二人がかりで机へ置かれた。


 宮門を通過した人間。


 馬。


 馬車。


 荷。


 その時刻。


 細かな文字が頁を埋めている。


「冬月十六日……」


 リリアが日付を探す。


 サフィーヤが一行を指した。


「ここよ」


 第三皇后宮。


 その文字は、もう読める。


 横にある文字にも見覚えがあった。


「馬車……」


「ええ」


 サフィーヤが読み上げる。


「第三皇后宮所属馬車、一台。西門より出門」


 記録の末尾には、時刻も記されていた。


「夜の鐘が二つ鳴ったあとね」


 リリアはナシーラを見た。


 ナシーラもこちらを見ている。


 ――それから、夜の馬車。


 昨日、ナシーラが話した記憶。


 車輪の音。


 馬の蹄。


 慌ただしく行き交う足音。


「戻った記録は?」


 ナシーラが尋ねた。


 記録官が次の頁をめくる。


「翌朝、日の出前に西門から戻っているそうよ」


 リリアは、馬車の記録をさらに目で追った。


 記されているのは、御者と馬の数だけ。


 乗っていた者の名は、どこにもなかった。


「使用目的は『皇后私用』。サーハラ様御本人が乗ったとの記載もないわ」


「母は、その夜……」


 ナシーラが呟く。


「何をしたの?」


 誰も答えられなかった。


 その夜、サーハラの宮に属する馬車が皇宮を出た。


 そして、翌朝に戻った。


 誰が乗っていたのかは、書かれていない。


 リリアは、削られていた皇后宮日誌の頁を思い出した。


 同じ日の同じ夜。


 偶然だと考えるには、二つの記録は近すぎる。


◆


 記録官が帳簿を閉じた。


「ここで一度、昼食休憩にしましょう」


 サフィーヤが告げる。


「分かりました」 


 ナシーラは頷き、姉を見た。


「私は自分の宮へ戻るわ。ナシーラも一緒にどう?」


「うん」


「リリアさんも、私の宮で昼食をどう?」


「ありがとうございます。でも、少しここで考えを整理したくて」


「そう。では午後の鐘に戻りましょう」


 リリアは回廊の長椅子に腰を下ろした。


「リリア殿。ファリダ殿から昼食を預かっています」


「……昼食?」


「やはり忘れておられましたか」


「忘れてはいません。ただ……」


 ラフィークは、壁際に置いていた包みを差し出した。


「朝、ファリダ殿から預かりました。『昼を忘れる可能性が高い』と」


「……そんなに信用がないんでしょうか」


 少し離れた場所から、低い笑い声が聞こえた。


 シリルが窓辺に立っていた。


 その隣にはヴィクトルもいる。


「シリルまで」


「昨日から、サーハラ様のことしか考えてなかっただろ」


「そんなことは……」


「リリアさん」


 ヴィクトルが穏やかに呼ぶ。


「はい」


「まずは食べてください」


「……はい」


 反論できなかった。


 ラフィークから包みを受け取り、近くの長椅子へ座る。


 薄いパンで肉と野菜を包んだものと、乾燥した果実が入っていた。


 一口食べる。


 思っていた以上に空腹だった。


「美味しいです」


「それはよかった」


 ヴィクトルの口元が緩む。


 リリアは食べながら、二人を見た。


「お二人は、どうしてここに?」


「皇宮内の古い通路について、ラフィーク殿と確認していました」


 ヴィクトルが答えた。


「古い通路?」


 ヴィクトルはラフィークを見る。


 ラフィークが小さく頷いた。


「リリア殿へは、分かっている範囲でお伝えするよう、陛下から命じられています」


 リリアは、口に運びかけたパンを下ろした。


「私に関係することですか?」


「はい。昨日、リリア殿の動きを見ていた者がいました」


「昨日……」


「陛下が配置した者ではありません」


 リリアがシリルを見る。


「おまえのいる西側から引き離して、東へ追い込んだ」


「男は、封じられていた古い通路から逃走しました」


 ラフィークが続ける。


「投げ刃と外衣を残しています。外衣からは、欠けた刻印のある金属片も見つかりました。所属と目的、刃に毒が使われていないかは、現在調査中です」


「怪我は?」


 リリアは三人を見回した。


「ありません」


 ヴィクトルが答える。


「男の腕を掴みましたが、外衣を脱ぎ捨てて逃げられました」


 リリアの視線が、ヴィクトルの手へ落ちる。


 リリアは小さく息を吐いた。


「どうして、私を見ていたんでしょう」


「まだ分からない」


 シリルが言う。


「分からないから調べてる」


 ラフィークも頷いた。


「古い通路についても、陛下の命令で警備記録と宮殿の図面を調べています。何か分かれば、お伝えします」


「ありがとうございます。お願いします」


 リリアは答えたあと、少し考えた。


「ナシーラさんの庭も、見られていたのでしょうか」


「現時点では確認できていません」


 ラフィークが答える。


「西庭と周辺の警備はすでに見直されています」


「庭へ行けなくなるんですか?」


「いいえ」


 ラフィークは、はっきりと答えた。


「ナシーラ殿下やリリア殿の行動を制限するのではなく、周囲へ近づく者を見張るよう命じられています」


 リリアは安堵した。


「それなら、よかったです」


「リリアさん」


 ヴィクトルが声をかける。


「はい?」


「パンが進んでいませんね」


 包みの中には、まだ半分ほど残っていた。


「……すみません」


「謝るところではありません」


 ヴィクトルが言った。


 シリルが鼻で笑う。


「ヴィクトル、最近ファリダに似てきたな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「そうか?」


「あなたも人のことを言えませんよ」


「俺は、違う」


 シリルはリリアの手元を見る。


「さっさと食えと言ってるだけだ」


「同じでは?」


「違う」


「シリル」


「何だ?」


「十七年前のことを聞いてもいいですか?」


 シリルの目がリリアへ向く。


「何についてだ」


「黒百合の巫女が、ヤシャラを出た時のことです」


 シリルはすぐには答えなかった。


「母がヤシャラからいなくなった頃、守り人には何か記録が残っていませんか?」


「詳しいものはない」


「何も?」


「俺が教えられたのは、黒百合がヤシャラを離れたことだけだ」


「助けた人や、通った道は?」


「残ってない。行き先もな」


 リリアは手にしたパンを見る。


「守り人には、どのように伝えられてきたんですか?」


「逃げた、とは聞いてない」


 リリアは顔を上げた。


 シリルの目が、まっすぐこちらを見ている。


「生きるために、ヤシャラを離れた。そう聞いている」


「……生きるために」


「ああ」


 リリアは残ったパンを口へ運んだ。


◆


 古記録庫へ戻ると、一人の女性が待っていた。


 五十歳ほどだろうか。


 落ち着いた灰色の長衣をまとい、腰には薬草を入れる小さな革袋を下げている。


「皇宮医局の医女よ」


 サフィーヤが紹介した。


 リリアが一礼すると、医女も礼を返した。


「午前中に見つけた馬車の記録から、第三皇后宮の支出記録も調べてもらったの」


 机の上には、薄い帳面が置かれている。


「何か見つかったんですか?」


「薬草の購入記録があったわ」


 リリアとナシーラは並んで椅子へ座った。


 医女が帳面を開く。


 頁には、薬草の名と量、代金が記されている。


 患者の名前はない。


「第三皇后宮の私用として、薬草が渡されているそうよ」


 医女が記録の上を指でたどり、ヤシャラ語で説明する。


 サフィーヤが一つずつ訳した。


「吐き気を鎮める草。胃を整える草。眠りを深くせず、心を鎮める草」


 医女は、薬草の量が記された欄を指す。


「この組み合わせと分量は、子を身籠った女性に処方されることが多いそうよ」


「身籠った女性……」


 ナシーラの声が小さくなる。


 医女が続けた。


「ただ、同じ薬草を胃の病や、長く続く疲労に使うこともある。この記録だけで、薬を使った者が身籠っていたとは断定できないそうよ」


 リリアは帳面に名前を探した。


 しかし、どこにも見当たらない。


「受け取った人の名前も、署名もないのですね」


 医女が頷く。


 さらに何かを告げ、サフィーヤが訳した。


「第三皇后宮の支出だから、まず考えられるのはサーハラ様御本人。ただし、皇后宮に仕えていた別の女性へ渡された可能性もあるそうよ」


「母が……?」


 ナシーラの手が、膝の上で固く重なった。


 サーハラが亡くなった時、ナシーラは二つか三つ。


 その頃、サーハラが新たな子を身籠っていたとしても、不思議ではない。


「第三皇后宮のものだと分かるのは、これね」


 サフィーヤが帳面の端を示す。


 そこには、小さな花の印が押されていた。


「第三皇后宮付きの医女が使っていた印だそうよ」


 サフィーヤが医女を見る。


「診療記録は?」


 医女は、もう一冊の帳簿を開いた。


 診療の日付と担当した医女、その記録が収められた場所を示す索引だった。


 冬月十五日。


 第三皇后宮付き医女。


 秘診。


 その先に、診療記録の番号が記されている。


 医女は隣に置かれた古い綴りを開き、索引に記された番号を探した。


 頁をめくる手が、ある場所で止まる。


 綴じ糸は残っている。


 けれど、該当する番号の頁だけが、根元から切り取られていた。


 前後の診療記録は残っている。


 発熱。


 怪我。


 腹痛。


 出産。


 なくなっているのは、第三皇后宮付きの医女が「秘診」として残した一件だけだった。


「消されている……」


 リリアの声が掠れた。


 年配の記録官が切り取られた跡を調べ、ヤシャラ語で説明する。


「午前中に見た日誌とは、消し方が違うそうよ」


 サフィーヤが訳した。


「皇后宮の日誌は、紙を残したまま文字だけが削られていた。こちらは、綴じたあとで一枚だけ切り取られている」


「同じ人が消したとは限らないんですね」


「ええ。消された時期も分からない」


 残された索引から分かるのは、診療が行われた日と、それを記録した医女だけ。


 診察を受けた者の名も、症状も、処方も残っていない。


 リリアは、冬月十五日という日付を見つめた。


 十七年前。


 母ミレナは、ヤシャラから姿を消した。


 自分は現在十六歳。


 母は、自分を産んで間もなく亡くなったと聞いている。


「私の年齢と……重なりますか」


 医女はすぐには答えなかった。


 リリアの年齢から時期を考え、静かに頷く。


「おおよその時期は重なるそうよ」


 サフィーヤが訳す。


「でも、この薬を使ったのがミレナ様だったとは、まだ言えない。サーハラ様御本人だった可能性もあるわ」


「……はい」


 リリアは、自分の腹に手を置いた。


「母は、ここを出る時、私を身籠もっていたのでしょうか」


 口にしてから、リリアは首を振った。


「……いいえ。まだ、母のための薬だったとは分かりません」


 シリルの言葉を思い出す。


 ――生きるために、ヤシャラを離れた。


 リリアは右腕へ手を添えた。


◆


「この記録を切り取るのは、誰にでもできることではありませんよね」


 リリアが言った。


 医女が頷く。


 皇宮医局の記録に触れられる者は限られていた。


 医局の上席者。


 診療を行った医女。


 皇帝の命令を受けた者。


 皇族に関わる診療であれば、関係する宮から記録の封印を求めることもできたという。


「封印なら、記録は残したまま閲覧だけを禁じるそうよ」


 サフィーヤが切り取られた跡へ目を落とす。


「頁を切り取るのは、正規の手続きではないわ」


 サーハラの宮に属する馬車が、冬月十六日の夜に皇宮を出た。


 同じ時期、第三皇后宮の私用として、身籠った女性にも使われる薬草が渡されている。


 その診療記録だけが、切り取られている。


 そして、ミレナはヤシャラから姿を消した。


 薬を使ったのはサーハラかもしれない。


 皇后宮に仕えていた、別の女性かもしれない。


 ミレナだったかもしれない。


◆


 夕刻が近づいた頃、年配の記録官が一冊の帳簿を抱えて戻ってきた。


 机に置かれた表紙には、先帝の治世に発せられた命令を記したものだと書かれている。


「午前中に見つけた第三皇后宮の日誌と、同じ日の命令を調べてもらっていたの」


 サフィーヤが説明する。


 記録官が頁をめくり、冬月十七日の項目で手を止めた。


「第三皇后宮、全門閉鎖」


 サフィーヤが読み上げる。


 ナシーラの表情が消えた。


「続けて」


 今度はナシーラがヤシャラ語で言った。


「宮内女官および使用人、移動を禁ず」


 さらに、その下。


「第三皇后サーハラ、外出を禁ず」


 リリアは死亡記録と命令記録を見比べた。


「急病で伏せっていたはずなのに、外出禁止命令なんて……」


「それだけではないわ」


 サフィーヤは命令記録を指でたどった。


「女官や使用人まで、宮から出ることを禁じている」


 命令が出された時刻は書かれていない。


 その下には、さらに命令が続いていた。


「皇后宮内の文書および私物を封印。皇帝直属官の許可なく、移動と廃棄を禁ず」


 これは、病に伏した皇后を静かに休ませるための命令ではない。


 少なくとも、リリアはそう感じた。


 命令の理由を示す記述を探して、リリアは次の行へ目を移す。


 記録官が頁をめくる。


 その手が止まった。


 綴じ糸の間に、不自然な隙間がある。


 数枚の頁が、まとめて根元から切り取られていた。


「また……」


 ナシーラが呟いた。


 記録官は切り取られた箇所を調べ、先ほどより長く説明した。


「これも、午前中の二つとは消し方が違うそうよ」


 サフィーヤが訳す。


「皇后宮の日誌は、文字だけを削ってある。診療記録は、一枚だけ切り取られている。でも、こちらは数枚がまとめて失われている」


 サフィーヤが命令記録を見た。


「同じ日に消されたのか、それとも後になって消されたのか。それも分からない」


 本文が失われている以上、そこに何が書かれていたのか、記録官にも断定できない。


 ただ、保管文書には、本文とは別に題名だけを記した索引があるという。


 記録官は一礼し、奥の棚へ戻っていった。


◆


 やがて、薄い冊子が運ばれてきた。


 古い索引だった。


 記録官が冬月十七日の項目を一行ずつ確かめていく。


 その指が、ある一行で止まった。


 短い言葉を聞いたサフィーヤが顔を上げる。


「……あったそうよ」


 リリアは息を止めた。


 サフィーヤは記録官へ目を向ける。


「読んで」


 記録官が、ゆっくりと読み上げた。


 リリアに聞き取れたのは、最初の日付だけだった。


 冬月十七日。


 ナシーラの両手が、膝の上で固く組まれる。


 サフィーヤがローダン語で続けた。


「第三皇后サーハラに対する――皇帝御前聴取記録」


「聴取……」


 リリアの唇から、かすれた声が落ちた。


 何を聞いたのか。


 問いは、最後まで言葉にならなかった。


 その内容が書かれていたはずの頁は、すでに切り取られている。


「病気だった人に」


 リリアの声が低くなる。


「皇帝陛下が、何を聞く必要があったんでしょう?」


 サフィーヤは索引に残された文字を見つめた。


「まだ分からないわ」


 静かな声だった。


 リリアはナシーラを見る。


 その手は、膝の上で固く握られている。


 触れてよいのか分からなかった。


 だから、自分の手をナシーラのすぐ近くへ置いた。


 重ねない。


 握らない。


 ただ、そこに置く。


 しばらくして、ナシーラの小指が動いた。


 ほんの少し、リリアの指に触れる。


 リリアは、索引に残された一行へ目を戻した。


 ――第三皇后サーハラに対する、皇帝御前聴取。





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