第十四話 いなかった皇女
◆
西庭へ続く木戸は、今日も少しだけ開いていた。
リリアは、その前で足を止めた。
数歩後ろには、ファリダが控えている。
「ここでお待ちしますね」
「いいんですか?」
ファリダは木戸の向こうへ目を向けた。
庭の奥、木立の陰に女官が一人立っている。
目立たない色の衣をまとい、装飾はほとんど身につけていない。
その女官はファリダと目が合うと、ごく小さく頷いた。
ファリダも同じように返す。
「……危険はありません」
「え?」
「何かあれば、お呼びください」
「はい」
リリアは胸に抱えた本を持ち直した。
午前の勉強を終えたあと、サフィーヤから借りたものだ。
右の頁にはヤシャラ語、左の頁にはローダン語で、同じ物語が書かれている。
昨日、ナシーラが本を開いていたことを思い出して選んだ。
リリアは木戸へ向き直り、中を覗く。
ナシーラは本を膝に置き、冬の庭を眺めていた。
リリアは、覚えたばかりのヤシャラ語を頭の中で組み立てる。
「……入っても、いいですか?」
発音に自信はない。
ナシーラがこちらを見た。
少し間を置いて、ヤシャラ語が返ってくる。
「どうぞ」
きちんと聞き取れた。
リリアは木戸をくぐった。
◆
「こんにちは」
今度はローダン語で言った。
「こんにちは」
ナシーラもローダン語で返す。
昨日と同じ長椅子に、二人は少し間を空けて座った。
ナシーラが、リリアの抱えている本を見る。
「それは?」
「サフィーヤ様からお借りしました。右がヤシャラ語で、左がローダン語の本です」
リリアが差し出すと、ナシーラは受け取って頁を開いた。
「子どもの本」
「はい」
「勉強?」
「……半分くらいは」
「半分?」
ナシーラが顔を上げる。
リリアは少し迷ってから答えた。
「今日は、勉強をしに来たわけではないので」
「では、何をしに?」
「遊びに来ました」
ナシーラが瞬きをした。
言ってから、リリアも少し恥ずかしくなった。
誰かのところへ、用事もなく行く。
何かを届けるためでも、呼ばれたからでもない。
ただ、会いたいと思ったから。
「迷惑でしたか?」
「ううん。遊びに来る人は、あまりいないから」
「……いてもいいですか?」
「うん」
そこで言葉は途切れた。
けれど、気まずくはなかった。
◆
二人で本を開いた。
最初の物語は、小さな鳥が冬を越す話だった。
リリアがヤシャラ語を読む。
「……花、の……枝?」
「木の枝」
「木?」
「その文字は、花じゃない」
「似ています」
「似てない」
「似ています」
ナシーラがリリアを見る。
「少しだけ」
「では、似ているんですね」
「少しだけ」
リリアは笑った。
今度はナシーラがローダン語を読む。
途中で一度、言葉に詰まった。
「これは?」
「『暖炉』です」
「だんろ」
「はい」
「だん……ろ」
「上手です」
「本当に?」
「たぶん」
ナシーラが顔を上げた。
「たぶん?」
「昨日、教えていただいたので使ってみました」
「そういう時に使う言葉?」
「……違うんですか?」
「たぶん」
リリアは一瞬考えた。
ナシーラの口元が緩んでいる。
「仕返しですか?」
「違う」
「本当に?」
「たぶん」
今度は、ナシーラが声を立てて笑った。
昨日よりも、はっきりした笑い声だった。
リリアもつられて笑う。
二人の声は、冬の庭へ静かに広がった。
◆
本を読み終えると、リリアは庭の奥にある花壇へ目を向けた。
花は咲いていない。
けれど、枯れた茎はきれいに取り除かれ、土は丁寧に整えられている。
冬の庭の中で、そこだけが春を迎える支度をしているように見えた。
「きれいに手入れされていますね」
「あそこ? ……母の花壇」
リリアはナシーラを見た。
「お母様の?」
「うん」
ナシーラは立ち上がり、花壇の前まで歩いた。
リリアもそのあとに続く。
「母は、花が好きだったらしい」
「らしい?」
「私は、あまり覚えていないから。二つか三つの頃に、亡くなった」
リリアはすぐには言葉を返さなかった。
――ナシーラが話したくないことを、自分から聞き出してはいけない。
昨日、サフィーヤに言われた言葉を思い出し、じっと待つ。
やがて、ナシーラが自分から続けた。
「名前は、サーハラ。第三皇后だった。急な病気で……朝になったら、会えなくなっていた」
ナシーラは花壇の端にしゃがみ、土を見つめている。
リリアは衣の端を握った。
「私も、母のことを覚えていません。私を産んで間もなく亡くなったと聞いています」
「名前は?」
「ミレナです。……私は、母がどんな人だったのかを知るためにヤシャラへ来ました」
「黒百合だったから?」
「それもあります。でも、それだけではありません。黒百合の巫女としてではなく、ミレナという一人の人として知りたいんです」
ナシーラは何も言わなかった。
やがて、花壇へ目を戻して小さく言った。
「私も」
リリアは頷いた。
◆
同じ頃、ヴィクトルとシリルは、皇宮の東側にある人通りの少ない回廊を歩いていた。
シリルが歩調を緩める。
「また数が合わない」
ヴィクトルは振り返らなかった。
「以前からいた人物とは別ですね」
「ああ。歩き方が違う」
「どこです?」
「二つ向こうの柱だ」
二人はそのまま歩く。
角へ差しかかる直前、シリルが進路を変えた。
本来なら西へ向かうところを、東の細い回廊へ入る。
十数歩進んだところで、背後からかすかな靴音が聞こえた。
「やっぱりな」
「試したのですか」
「ああ。前からいたやつは、こっちが進路を変えても深追いしない。だが、こいつはついてきた」
「昨日、リリアさんを見ていた人物ですね」
「たぶんな」
背後から声がした。
「同じ人物だ」
二人が振り返る。
濃色の長衣に単刃曲刀を帯びたラフィークが立っていた。
「お前も見てたのか」
「昨日からだ」
ラフィークは背後の回廊へ目を向けた。
「以前からいたもう一人については、陛下も存在を把握しておられる」
シリルの目が細くなる。
「どこの者だ?」
「今は明かせない」
「信用できるのか?」
「監視の範囲に留まる限り、直ちに排除する必要はないと判断しておられる」
ヴィクトルがわずかに眉を寄せた。
「今ついてきている者とは別なのですね」
「ああ」
短い沈黙が落ちる。
「さらに別の影ということですか」
「そうなる」
シリルは鼻を鳴らした。
「皇宮ってのは、ずいぶん影の多い場所だな」
回廊の先で、黒い衣の裾が角の向こうへ消えた。
「追わないのか」
「まだ追わない。先に逃げ道を絞る」
ラフィークは回廊の奥へ目を向けた。
「この先には連絡廊下が二本ある。東には下階へ続く階段。南には別の廊下。北は行き止まりだ」
「隠し通路は?」
「……私が把握しているものなら、南側に一つ」
シリルは回廊の先へ目を凝らした。
「あいつは、北へ行く気はなさそうだ」
「なぜ分かる?」
「進路を変えてから、一度もそっちへ身体を向けてない」
シリルは柱の向こうへ消えた黒衣を見る。
「俺が東へ追い込む。南へ向かったら、ラフィークが押さえろ」
ヴィクトルは回廊の窓へ目を向けた。
「東の階段は、下階の回廊へつながっていますね」
「ああ」
「では、私が下から回ります。男が階段へ入った時点で退路を断ちます」
ラフィークがヴィクトルを見る。
「この皇宮の構造を、いつ覚えた?」
「案内された範囲だけです。窓の位置と階段の向きから、おおよそのつながりは読めます」
ヴィクトルは東の回廊へ目を向けた。
「取り押さえるだけなら、剣がなくても問題ありません」
「では、ヴィクトル殿は東へ。シリルは男を階段側へ追い込め。私は南へ回り、隠し通路を押さえる」
ラフィークは二人を見た。
「捕らえることにこだわるな。顔か所属が分かれば十分だ」
「ああ。リリアのいる西側へは行かせない」
「承知しました」
ヴィクトルも頷く。
「階段へ入ったら、私が止めます」
三人は、それぞれ別の道へ向かった。
◆
「母が歌ってくれたことは覚えてる」
花壇の前にしゃがんだまま、ナシーラが不意に言った。
「歌ですか?」
「うん。でも、声は思い出せない」
ナシーラは自分の髪に触れた。
「頭を撫でてくれた手と、甘い匂い。それから……夜の馬車」
「馬車?」
「車輪の音と、馬の蹄。慌ただしく行き交う足音」
ナシーラの眉が寄る。
「でも、夢かもしれない」
記憶を探るうちに、ナシーラの呼吸が少しずつ浅くなっていく。
「もう大丈夫です」
「でも……」
「ナシーラさんが苦しくなるまで、聞きたいわけではありません」
リリアがそっと声をかけると、ナシーラはゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう」
二人は長椅子へ戻った。
しばらくして、ナシーラが自分から口を開く。
「母がいなくなってから、部屋が変わった。母の家族も、母についていた女官たちもいなくなった」
ナシーラは膝の上で両手を重ねた。
「新しい人たちが来た。でも、外には出られなかった。父が死ぬまで」
前皇帝ザフィール。
「私は皇女ではなかった。……違う」
ナシーラは一度、言葉を切った。
「この皇宮には、いないことになっていた」
リリアは何も言えなかった。
「皇女と名乗ってはいけなくて、人が来ると奥の部屋へ隠された」
遠くで、金属の触れ合う音がした。
ナシーラの肩が強張る。
回廊の向こうから男たちの声が聞こえ、ナシーラは自分の衣を強く掴んだ。
リリアは、その音が遠ざかるまで黙って隣にいた。
やがて、ナシーラの指からゆっくりと力が抜けていく。
「昨日も、男の人の声に怯えていましたね」
「……扉の外で、よく聞こえたから」
リリアの耳の奥でも、遠い音が蘇る。
鞭が空気を裂く音。
鍵の回る音。
「私にも、苦手な音があります」
ナシーラは理由を聞かなかった。
「そう」
それだけだった。
「今は、もうその部屋ではないんですよね。鍵も……」
「もうない。兄上が皇帝になって、外させた」
「それなら――」
自由になったんですね。
そう言いかけて、リリアは言葉を呑み込んだ。
「鍵がなくなっても、すぐに外へ出られるわけではないですよね」
ナシーラがリリアを見る。
しばらくして、小さく頷いた。
「……うん」
◆
シリルは連絡回廊を足音もなく進んでいた。
角を曲がったところで、黒衣の男と目が合う。
男が反転した。
シリルはすぐには距離を詰めなかった。
南へ逃げる余地を残しながら、わずかに左から追う。
男が一度、南の回廊へ目を向けた。
だが、そちらへは向かわなかった。
ラフィークの存在に気づいたのかもしれない。
男が東を選ぶなら、こちらの狙いどおりだ。
シリルは追う角度を変えた。
黒衣の男が、押し出されるように東の階段へ向かう。
その下から、ヴィクトルが現れた。
「そこまでです」
ヴィクトルは階段の中央ではなく、わずかに右へ寄っていた。
男が引き返しても、横の回廊へ逃げても、先に動ける位置だった。
前にはヴィクトル、後ろにはシリル。
男は足を止め、左右へ視線を走らせた。
その目が、壁際の飾り柱へ向く。
「壁です!」
ヴィクトルが動いた。
男の腕が上がる。
それより早く、シリルが短剣を放った。
短剣が男の黒い袖を掠める。
狙いが逸れ、男の手から放たれた細身の刃が、ヴィクトルの肩越しに抜けた。
投げ刃が石床へ落ち、甲高い音を立てる。
ヴィクトルは足を止めない。
一息で距離を詰め、男の腕を掴んだ。
だが、男の指はすでに飾り柱へ触れていた。
石の一部が沈み、壁が細く開く。
「離すな!」
シリルが踏み込む。
男は黒衣を脱ぎ捨てた。
ヴィクトルの手に外衣だけを残し、開いた隙間へ身体を滑り込ませる。
シリルが壁へ駆け寄る。
だが、閉じていく隙間を見た瞬間、足を止めた。
「追うな」
ヴィクトルも閉じていく壁を見る。
「待ち伏せか?」
「それもある」
シリルは床に落ちた自分の短剣を回収した。
「あいつは、ここまで追わせるために何度も姿を見せた。この通路の存在を、俺たちに知らせたかったのかもしれない」
鈍い音とともに壁が閉まり、継ぎ目が消えた。
ヴィクトルは手に残った黒衣へ目を落とす。
「逃がしました」
「だが、何も残らなかったわけじゃない」
シリルは黒衣と閉じた壁を交互に見た。
「あいつは、封じられた通路を使った。この皇宮の内側を相当知ってる」
シリルは閉じた壁を睨んだ。
そこへ、南側からラフィークが駆けつける。
閉じた壁を見るなり、その表情が変わった。
「そこを使ったのか」
「知ってるのか?」
「記録で見たことはある。とうに封じられたはずだった」
ラフィークが飾り柱へ近づく。
「仕掛けが生きていたとはな」
その視線が、床に残された一本の刃へ移る。
「俺の短剣で腕を狙ったが、投げるのを止めきれなかった」
ラフィークは布を取り出し、黒い投げ刃を拾い上げた。
指ほどの長さしかない細身の刃だった。
表にも裏にも、紋章や工房印は見当たらない。
「毒は?」
ヴィクトルが尋ねた。
「見ただけでは分からない。医局で調べさせる」
ラフィークは投げ刃を布で包んだ。
続いて、床に落ちた黒衣へ目を向ける。
「触れたか?」
「腕を掴んだ時に。長くは触れていません」
「念のため、医女に診せろ」
「分かりました」
ラフィークは新しい布で黒衣を裏返した。
襟元を調べ、その手が止まる。
「留め紐に切れ目が入っている」
「捕まれた時に切れるようにしてたのか」
シリルが言った。
「最初から、逃げるところまで決めていたらしい」
ラフィークが黒衣の内側を改める。
布の折り目から、細い銀色の金属片が落ちた。
端には、欠けた刻印がある。
「有力家門が、従者や私兵へ持たせる印に似ている」
「どの家門のものだ?」
「刻印の端が欠けている。ここでは断定できない」
シリルは金属片を見た。
「逃走用の服に、所属を示すものを入れておくか?」
「普通は入れない」
ラフィークが答える。
「偽の手掛かりかもしれない」
「偽物か、本物か。それも含めて照合する」
ラフィークは布越しに金属片を包んだ。
ヴィクトルが頷く。
「推測で家門を決めるのは危険です」
「ああ。記録を確かめてからだ」
ラフィークは黒衣も布に包んだ。
「投げ刃は医局へ回す。金属片は記録と照合する。古い通路についても調べよう」
シリルが尋ねる。
「リリアには?」
「分かっている範囲で話す」
「それならいい」
シリルは短く答えた。
ラフィークは証拠品を、それぞれ別に収める。
ヴィクトルは閉じた壁から目を離さなかった。
「通路の出口も確認する必要がありますね」
「ああ。次は逃がさない」
◆
「私の母は、年始めの祭りで歌ったことがあるそうです」
リリアは、街道沿いの茶屋で出会った歌い手を思い出した。
「十七年ほど前、『黒百合と銀の剣』という古い恋の歌を、自分で選んで歌ったと聞きました」
「どんな歌?」
「黒百合の巫女と、一人の皇子の歌です」
「リリアは聞いたことがあるの?」
「はい。旅の途中で聞きました。母の歌声は知りませんが」
「寂しい?」
不意に尋ねられ、リリアは答えを探した。
「……分かりません」
「分からない?」
「覚えていない人を、どう寂しがればいいのか分からなくて」
ナシーラは驚いたようにリリアを見つめた。
それから、静かに目を細める。
「私も」
二人は、しばらく花のない花壇を眺めていた。
「急な病気で亡くなったのなら、どうしてナシーラさんまで、いないことにされなければならなかったのでしょう」
リリアは少し迷ってから、ナシーラを見る。
「……サーハラ様のことも、調べていいですか?」
ナシーラの身体がわずかに硬くなる。
「嫌なら調べません」
ナシーラはしばらく答えなかった。
やがて、花壇の土から視線を上げる。
「一緒に調べる」
その声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
「私の母だから」
「はい」
リリアは頷いた。
「一緒に調べましょう」
◆
日が傾き始め、リリアは立ち上がった。
「そろそろ戻ります。また、遊びに来てもいいですか?」
「うん」
木戸を出ると、待っていたファリダが隣へ並んだ。
二人で回廊を歩き出す。
角を曲がったところで、リリアは気配を感じて振り返った。
けれど、そこには誰もいない。
「どうされました?」
「今、誰かいたような……」
「大丈夫です。ナシーラ殿下の護衛です」
ファリダが微笑んだ。
「庭にいた女官も?」
「ええ。女官として仕えながら、ナシーラ殿下をお守りしています」
「ナシーラ殿下は知っているんですか?」
「はい。人が大勢近くにいることを好まれないので、見えすぎない場所からお守りしています」
「ナディル陛下が付けたんですか?」
「はい」
リリアは、もう一度、誰もいない柱の陰を見た。
「ナディル陛下は、心配性なんですね」
ファリダが一瞬、言葉に詰まる。
「……それは、私からは何とも。聞かなかったことにしてください」
「そういたします」
リリアは小さく笑って歩き出した。
◆
西庭では、ナシーラがまだ花壇の前に立っていた。
木立の陰では、女官姿の護衛が静かに周囲へ目を配っている。
ナシーラは花のない土を見つめた。
「サーハラ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
◆
ラフィークが退出すると、執務室にはナディルとジャリールだけが残った。
机の上には、布に包まれた投げ刃と銀色の金属片が置かれている。
黒衣はすでに別室へ運ばれ、医局と内廷警護官が調べていた。
ナディルは報告書を閉じた。
「ダルカーンの影ではないのだな」
「はい。ダルカーン公爵家の者は別の回廊にいました。こちらの騒ぎに気づきましたが、接触せずに引いています」
「こちらに存在を知られていると承知しているからこそ、余計な動きはしないか」
「サリーム公爵なら、そう命じるでしょう」
ナディルは机の上の金属片へ目を落とした。
「祀院は?」
「現時点では、可能性は低いかと。祀院の者が使う連絡路とは方向が違います。それに、あの通路は前帝の治世の初めに封じられています」
「封じられたはずの道を、迷わず使った」
ナディルが指先で机を一度叩く。
「前の時代から皇宮を知る者。あるいは、その者から古い道を教えられた者か」
ジャリールは答えなかった。
その沈黙を肯定と受け取り、ナディルは椅子の背へ身体を預けた。
「母上だと思うか」
「可能性はあります」
「ずいぶん慎重な答えだな」
「皇太后陛下を疑うには、まだ材料が足りません」
「私とおまえしかいない」
「二人しかいないからこそ、言葉には気をつけます」
ナディルの口元がわずかに緩んだ。
「相変わらずだな」
「陛下の筆頭近侍ですので」
すぐに笑みを消し、ナディルは窓の外へ目を向けた。
「母上は、リリアをどう見る」
「黒百合の巫女として。そして、ミレナ殿の娘として」
「それだけではない」
「……父親の分からない娘として」
ナディルは黙った。
ジャリールも、その先を口にしなかった。
「母上なら、二つの可能性を考える」
やがて、ナディルが言った。
「セイランか、前帝か」
「はい」
「どちらであっても、政治に使える」
「甥の誰かに嫁がせるか」
「あるいは、ダルカーン公爵家の養女として迎え,そのうえで、私の第三皇后にするか」
ジャリールは否定しなかった。
ナディルは小さく息を吐いた。
「私の意思も、リリアの意思も、最初から数には入っていないらしい」
「皇太后陛下は、それがリリア殿を守る最善の方法だとお考えになるでしょう」
「地位を与え、家を与え、逃げ道をなくす。それを保護と呼ぶのか」
「前皇帝の宮廷では、それが最も確実な生存方法だったのかもしれません」
ナディルの目がジャリールへ向いた。
咎める色はなかった。
「母上を擁護するのか」
「いいえ。ただ、皇太后陛下が何を正しいと考えておられるかは、見誤るべきではありません」
「分かっている」
ナディルは再び報告書を開いた。
「投げ刃を使った時点で、ただの監視ではない」
「標的はヴィクトル殿でした。殺傷が目的だったかは不明です」
「毒の有無が分かるまでは、どちらとも決められない」
「はい」
「シリルが狙いを逸らさなければ、当たっていたか?」
「可能性は高いと思われます」
ナディルの指が報告書の上で止まった。
「リリアから二人を引き離したい者は多い」
「シリル殿は黒百合の守り人。ヴィクトル殿はローダン王室騎士です。どちらも、ヤシャラの家門が命じて動かせる人物ではありません」
ナディルが顔を上げる。
「わざと追わせたと思うか」
「断定はできません。ただ、監視を続けるには、姿を見せすぎています。隠し通路へ誘い込むことも、二人の動きを確かめることも、目的の一つだった可能性があります」
「相手も得るものを得て帰ったか」
「こちらも同じです」
ジャリールは机上の金属片を見た。
「封じたはずの通路が使えること。逃走のためなら刃を使うことも分かりました」
ナディルはしばらく考え込んだ。
「通路は塞ぐな」
「監視を置きますか」
「ああ。内側だけではない。出口と、その先も見張らせろ。壁を閉じれば、相手は別の穴へ移る」
「承知しました」
「母上の宮の出入りも調べろ。ただし、気づかせるな」
「ダルカーン公爵家は?」
「公爵なら、三つ目の影に気づいている可能性がある。こちらから問い詰める必要はない。向こうが何を報告してくるかを見る」
「何も報告がなければ?」
「自分の影が皇宮内で何を見たのか、私には知らせないと決めたことになる」
ナディルは淡々と言った。
「その判断も、覚えておけ」
ジャリールが一礼する。
「リリア殿には、どこまでお伝えしますか」
「分かっていることは話す。何者かが見ていたこと。三人が追ったこと。古い通路から逃げたこと。刃を使ったこともだ」
「皇太后陛下への疑念は?」
「それはまだ、私たちの推測にすぎない」
ナディルは一度言葉を切った。
「西庭の警備も見直せ。ただし、庭は閉じるな」
ジャリールの目がわずかに和らいだ。
「セイラン殿には?」
「知らせろ」
「帰還を早めるよう求めますか」
「いや」
ナディルは即座に答えた。
「母上たちが焦っているのは、セイランが戻るまでしか自由に動けないと思っているからだ」
「その時間を、あえて残すのですか」
「動かなければ、何を考えているか分からない」
ナディルの琥珀金の瞳が細められる。
「セイランの帰還予定は変えない。ただし、正確な日は漏らすな」
「承知しました」
「それと、母上には私から会う」
「事件のことをお尋ねになるので?」
「古い通路について尋ねるだけだ」
ナディルは机上の銀片へ視線を戻した。
「母上は何も知らないと答えるだろう」
「それでも、お会いになりますか」
「ああ」
ナディルは静かに笑った。
「私が疑っていると、母上に知らせるためにな」
ジャリールは一瞬黙ったあと、深く頭を下げた。
「では、そのように手配いたします」
扉へ向かいかけたジャリールを、ナディルが呼び止める。
「ジャリール」
「はい」
「リリアの父親については、今までどおりだ」
「はい」
「いずれ気づくだろうが」
「それでも、陛下が答えを与えるべきではありません」
「ああ」
ナディルは低く答えた。
「母上には渡さない」
今度こそ、ジャリールは執務室を出ていった。
一人になったナディルは、閉じられた扉をしばらく見つめていた。




