第十三話 閉ざされた庭の皇女
◆
午前の授業が終わる頃には、リリアの前に三枚の紙が並んでいた。
一枚目はヤシャラ文字。
二枚目は簡単な会話。
三枚目には、皇宮で使われる呼称と礼の違いが書かれている。
リリアは最後の一行を書き終え、顔を上げた。
「できました」
向かいに座るサフィーヤが紙を受け取る。
上から順に目を通し、一か所で指を止めた。
「ここ」
「また間違っていますか?」
「ええ」
リリアの肩が落ちる。
「昨日も間違えたところです」
「覚えていましたか?」
「覚えていたから、余計に悔しいです」
サフィーヤの口元が緩んだ。
「では、明日は間違えないかもしれませんね」
「……そうだといいんですけど」
「今日はここまでにしましょう」
「え?」
リリアは窓を見る。
まだ昼前だった。
「もう終わりですか?」
「もう、ではなく、今日はここまでです」
「まだできます」
「でしょうね」
あっさり認められた。
「では――」
「できることと、休まなくていいことは別ですよ」
リリアは口を閉じた。
どこかで似たようなことを聞いた気がする。
サフィーヤが問う。
「何か?」
「ファリダさんも、似たようなことを言います」
「あら」
「できることと、人にやってもらうことは別だと」
「気が合いそうですね」
「二人で同じことを言わないでください」
思わず答えてから、リリアは目を瞬いた。
皇女相手に、こんな返し方をしてしまった。
「申し訳――」
言いかけて止まる。
サフィーヤが待っている。
「……今のは、謝らなくてもいいですか?」
「ええ」
リリアは笑った。
「では、謝りません」
「よろしい」
◆
午後、リリアは皇宮の西側へ続く回廊を歩いていた。
「西庭へ行ってみたいのですが」
隣を歩くファリダへ言う。
「お一人で?」
「できれば」
ファリダはすぐには答えなかった。
「……駄目ですか?」
「皇帝陛下から、リリア様を一人にするなとは命じられていません」
ファリダが言う。
「ただし、移動する際には随衛を伴うように、と」
「そうでした」
「ですから、私も参ります」
「はい」
少し残念そうな声になったのだろう。
ファリダが横目でリリアを見る。
「ずっと隣を歩く必要はありません」
「え?」
「姿を確認できる範囲で離れます。それなら、お一人で歩いている気分くらいにはなれるでしょう」
リリアは少し考えてから頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません」
二人で歩き出す。
しばらくすると、ファリダは本当に距離を取った。
十数歩ほど後ろ。
振り返ればいる。
だが、声をかけなければ会話にはならないくらいの距離だった。
離れたいわけではないし、一緒にいて嫌なわけではない。
むしろ安心する。
それでも今日は、自分の足音だけを聞きながら歩いてみたかった。
◆
皇宮の表側では、年始めの祭りの準備が始まっていた。
回廊の柱に色鮮やかな布が巻かれている。
女官たちが箱いっぱいの色硝子を運び、庭師たちは水路沿いへ小さな灯籠を並べていた。
どこかから弦楽器の音も聞こえる。
まだ練習中なのだろう。
同じ部分を何度も繰り返していた。
リリアは足を止めて聞いた。
知らない旋律。
知らない祭り。
あと十日ほどで、新しい年が来る。
その頃には、自分はもう少しヤシャラ語を話せるようになっているだろうか。
そう考えながら西へ進む。
一つ目の水路。
二つ目。
ここまでだ。
ファリダから、これより先へは行かないよう言われている。
リリアは足を止めた。
少し離れたところにいるファリダへ振り返る。
ファリダは頷いた。
ここまではいい、ということらしい。
表側とは違い、人の姿はほとんどない。
冬の低い陽が、白い石壁へ斜めに落ちている。
静かだった。
「……落ち着く」
思わず呟いた。
賑やかな場所が嫌いなわけではない。
アミラやイリヤスと過ごした時間も楽しかった。
それでも、こういう場所では肩から力が抜ける。
少し先に、蔓草が絡みついた古い石壁が見えた。
壁の中央には細い木戸がある。
閉じている。
そう思ったが、よく見ると、わずかに隙間が開いていた。
この中へ入ってもいいのだろうか。
水路は越えてはいない。
けれど、皇宮だ。
勝手に入ってはいけない場所もあるはずだ。
戻ろう。
そう思った時だった。
「……開いています」
内側から声がした。
ヤシャラ語。
短い言葉だったので、意味が分かった。
リリアは木戸を見る。
「入っても……いいですか?」
覚えたばかりのヤシャラ語で尋ねる。
少し間があった。
「どうぞ」
リリアは振り返った。
ファリダも声を聞いたらしい。
こちらへ歩いてくる。
「中へ入ってもいいと言われました」
「誰にです?」
「分かりません」
「分からない方のいる庭へ入るのですか?」
「……駄目でしょうか」
ファリダは木戸へ近づいた。
隙間から庭の中を確かめる。
その視線が、奥の一点で止まった。
「ファリダさん?」
「……危険はありません」
ファリダは半歩退いた。
「私はここにおります」
「中までは?」
「一人で歩きたいのでしょう?」
リリアは目を瞬いた。
「はい」
「何かあれば呼んでください。聞こえる距離にいます」
「ありがとうございます」
リリアは木戸を押した。
◆
その先には、小さな庭があった。
外から見るより奥行きがある。
背の高い木々に囲まれ、皇宮の建物もほとんど見えない。
中央には小さな噴水。
けれど、水は止められていた。
冬でも葉を落とさない木々。
壁際には、今は花をつけていない低木が並んでいる。
そして、一人の女性がいた。
石の長椅子に座り、本を読んでいる。
リリアより、いくらか年上だろうか。
紫を帯びた黒髪。
淡い灰紫の瞳。
華やかな装飾のほとんどない淡い藤色の長衣。
女性がリリアを見る。
その視線が、リリアの黒髪へ向いた。
リリアは無意識に身構えた。
――黒百合。
そう呼ばれるかと思った。
けれど、女性は何も言わなかった。
「……こんにちは」
リリアはヤシャラ語で挨拶した。
「こんにちは」
返ってくる。
沈黙が落ちる。
どうしよう。
もう少し何か話した方がいいだろうか。
「本を……読んでいたのですか?」
簡単な言葉を選ぶ。
「はい」
「お邪魔でしたか?」
「いいえ」
また沈黙。
リリアは困った。
けれど、女性は困っているようには見えなかった。
「ここに、いてもいいですか?」
途中で一つ、言葉を間違えたような気がした。
それでも意味は通じたらしい。
「どうぞ」
女性は再び本へ視線を落とした。
リリアは少し離れた石台へ腰を下ろした。
◆
風が木の葉を揺らす。
女性は本を読む。
リリアは庭を見る。
会話はない。
それなのに、不思議と気まずくなかった。
同じ庭にいて。
それぞれ別のものを見ている。
それだけでよかった。
リリアは冬の枝を見上げた。
その時、遠くから、鋭い金属音が響いた。
ガンッ――。
続いて、男たちの大きな声。
訓練場だろうか。
その直後、何かが地面へ落ちた。
振り返る。
女性の手から滑り落ちた本だった。
「……?」
女性は動かなかった。
先ほどまでとは違う。
背筋が硬くなっている。
指が長椅子の端を強く掴んでいた。
呼吸が浅い。
「大丈夫ですか?」
リリアは立ち上がりかけた。
けれど、止まった。
近づいていいのか分からない。
女性が小さく答える。
「……大丈夫です」
その言葉を聞いて、リリアは動けなくなった。
大丈夫です。
自分も、何度そう答えただろう。
痛い時も。
怖い時も。
本当は逃げたかった時も。
そう言えば、それ以上、迷惑をかけずに済むと思っていた。
けれど。
――大丈夫ではないですよね。
そう決めつけることもできなかった。
「……そうですか」
リリアはそれだけ答えた。
ゆっくり本へ近づく。
「拾いますね」
本を拾い上げる。
女性へ直接差し出すのはやめて、近くの石台へ置いた。
「ここに置きます」
そして元いた場所へ戻った。
◆
しばらくは、何も話さなかった。
遠くの男たちの声も、やがて聞こえなくなる。
女性の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
長椅子を掴んでいた指も緩む。
リリアは庭の木を見ていた。
やがて、
「……聞かないの?」
声がした。
リリアは振り返る。
「何をですか?」
今度は女性が、ゆっくりとローダン語で答えた。
「なぜ……怖がったのか」
リリアは目を瞬いた。
「ローダン語を話せるんですか?」
「少しだけ」
ゆっくりと、言葉を探しながら話している。
「そうだったんですね」
「……聞かないの?」
もう一度尋ねられた。
リリアは少し考えた。
「気にはなります」
女性の目が動く。
「でも」
リリアは言葉を選んだ。
「気になることと、聞いていいことは別だと思うので」
女性がリリアを見る。
長い沈黙。
「変な人」
「そうですか?」
「普通は聞く」
「私も、聞かれたくないことがありますから」
それだけで十分な気がした。
女性は視線を落とした。
「あなたも……大きな音が嫌い?」
「全部ではありません」
リリアは答える。
「でも……鞭の音は苦手です」
口にした瞬間、背中が強張った。
革が空気を裂く音が、耳の奥によみがえる。
石室の冷たさ。
背中を焼いた痛み。
リリアは無意識に右腕へ手を添えた。
女性はそれを見た。
けれど、
「どうして?」
とは聞かなかった。
「……そう」
それだけだった。
リリアは顔を上げた。
◆
「私はリリアです」
今度はローダン語で名乗った。
「あなたは?」
女性は少し迷った。
「ナシーラ」
リリアは、その名にほんの少し引っかかった。
どこかで聞いたことがある。
けれど、すぐには思い出せなかった。
「ナシーラさん」
そう呼ぶと、ナシーラの表情がわずかに動いた。
「……さん?」
「違いましたか?」
「いいえ」
「では、ナシーラさん」
リリアは笑った。
ナシーラは何も言わなかった。
けれど、長椅子の端を掴んでいた手は、もう開かれていた。
◆
それから二人は、またしばらく黙っていた。
リリアは庭を見る。
ナシーラは本を読む。
時々、リリアが花の名前を尋ねる。
ナシーラが短く答える。
発音を間違える。
もう一度教えてもらう。
それだけだった。
やがて、木戸の向こうから声がした。
「リリア様?」
ファリダだった。
リリアは顔を上げる。
「はい」
木戸が少し開き、ファリダがこちらを見る。
その視線がナシーラへ移った。
「そろそろお戻りになった方がよろしいかと」
「もうそんな時間ですか?」
「ええ」
リリアは立ち上がった。
その時だった。
「ナシーラ? ここにいたのね」
木戸の向こうから、もう一つ聞き覚えのある声がした。
ファリダが振り返る。
続いて姿を見せたのはサフィーヤだった。
「サフィーヤ殿下」
サフィーヤはリリアを見る。
次にナシーラを見る。
珍しく、驚いた様子だった。
「二人で何をしていたの?」
「本を読んでいました」
ナシーラが答える。
リリアは庭を見る。
自分は読んでいない。
けれど、訂正するほどのことでもない気がした。
「知り合いだったの?」
「今、知り合いました」
リリアが答える。
「ナシーラさんに、庭へ入ってもいいと言っていただいて――」
そこで、サフィーヤの表情に気づいた。
「……サフィーヤ殿下?」
サフィーヤがナシーラを見る。
「名前だけ?」
「名前だけ」
ナシーラが答えた。
サフィーヤは小さく息を吐いた。
「リリア」
「はい」
「こちらは、ナシーラ・サルヴァーン」
その名を聞いた瞬間、リリアの中で何かが繋がった。
ナシーラ・サルヴァーン。
サフィーヤから教わった皇族の名前の中にあった。
先帝の皇女。
ナディルとサフィーヤの異母妹。
「……ナシーラ殿下?」
「ええ」
サフィーヤが頷いた。
「名前は教わっていたのに、お顔を知らなくて……」
リリアはゆっくりとナシーラを見る。
淡い藤色の長衣。
装飾の少ない髪。
静かな灰紫の瞳。
皇女だとは、少しも思わなかった。
先ほどまでのやり取りが次々と浮かぶ。
隣で黙って座っていた。
花の名前を教えてもらった。
「私……」
謝りかけて、止まる。
――知らないことを間違えるのは、恥ではありません。
サフィーヤから教わったばかりだ。
リリアは姿勢を正した。
立ったまま、丁寧に一礼する。
「改めまして、リリアです。ナシーラ殿下」
顔を上げる。
ナシーラがこちらを見ていた。
「……さっきと同じでいい」
「え?」
「ナシーラさん」
リリアは目を瞬いた。
「でも、皇女殿下ですよね?」
「そう」
「では……」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「なら、それでいい」
リリアはサフィーヤを見る。
サフィーヤは止めなかった。
むしろ、わずかに口元を緩めている。
「では……」
リリアはナシーラを見る。
「ナシーラさん」
ナシーラの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
◆
日が傾き始める前に、リリアは庭を出ることにした。
「今日はありがとうございました」
「何もしていない」
ナシーラが答える。
「ここにいさせていただきました」
「それだけ?」
「はい」
ナシーラは少し考えた。
「……また来てもいい」
リリアは瞬いた。
「私がですか?」
ナシーラが眉を寄せる。
「ほかに誰がいるの」
「あ……そうですね」
リリアは笑った。
「では、また来ます」
「うん」
「次は、もう少しヤシャラ語を覚えてきます」
「今でも分かる」
「少しだけです」
「私もローダン語は少しだけ」
「では、お互いに練習できますね」
ナシーラが考える。
「……それなら、いい」
「はい」
リリアは、今度は堅苦しくならない程度に一礼した。
「また」
「また」
木戸が閉じる。
◆
帰りの回廊では、ファリダが数歩後ろを歩いていた。
サフィーヤがリリアの隣にいる。
「驚きました」
やがて、サフィーヤが言った。
「私もです」
「あなたではありません」
「え?」
「ナシーラです」
リリアは振り返る。
「ナシーラさんが?」
「ええ」
「どうしてですか?」
「初めて会った人と、あれだけ長く同じ場所にいるのは珍しいから」
「でも、ほとんど話していません」
「だからでしょうね」
リリアは意味が分からなかった。
「話さなかったから?」
「ええ」
サフィーヤは歩きながら答える。
「ナシーラは、話すことを求められるのが苦手です」
「……」
「答えを求められることも」
リリアは先ほどの庭を思い出した。
大きな音。
落ちた本。
――大丈夫です。
そして、
――聞かないの?
「何かあったんですか?」
口にしてから、リリアは止まった。
自分で言ったばかりだ。
気になることと、聞いていいことは別。
「……今のは――」
「それは」
サフィーヤが静かに遮った。
「いつか、ナシーラ自身から聞いてください」
リリアは顔を上げた。
「私から話すことではありません」
「……はい」
それ以上は尋ねなかった。
◆
別れ際、サフィーヤは西庭の方を振り返った。
「あの庭は、ナシーラが幼い頃からよく使っている場所です」
「そうなんですか」
「人が少ないから」
それだけだった。
リリアも西庭へ続く回廊を見る。
知りたいことはある。
けれど、今すぐでなくていい。
ナシーラが話したくなった時に、聞けばいい。
リリアはもう一度、西庭を振り返った。
閉ざされているように見えた木戸は、ほんの少し開いていた。
◆
その日の夕刻、ナディルは執務室で書類に目を通していた。
扉が叩かれる。
「入れ」
入ってきたのは、サフィーヤだった。
ナディルが顔を上げる。
「珍しいな」
「何がです?」
「おまえが、こんな時間に自分から来るのは」
「では、帰りましょうか」
「座れ」
サフィーヤは向かいの椅子へ腰を下ろした。
ナディルは書類を置く。
「リリアのことか」
「半分は」
「もう半分は?」
「ナシーラです」
その名を聞いた瞬間、ナディルの表情が変わった。
「何かあったのか」
「悪いことではありません」
「先に言え」
「まだ何も説明していませんけど」
「ナシーラの名前を出して黙るな」
サフィーヤは小さく息を吐いた。
「今日、リリアが西庭でナシーラに会いました」
「西庭で?」
「偶然です。リリアが木戸まで行って、ナシーラが中に入ってもいいと言ったそうです」
「……ナシーラが?」
「ええ」
ナディルはしばらく黙った。
「ファリダは?」
「木戸の外です。何かあれば、すぐ動けるように」
「そうか」
そこで、ナディルの表情が少し緩んだ。
「ナシーラは、怖がらなかったのか」
「リリアを?」
「ああ」
「むしろ、帰る時には自分から言いました」
サフィーヤは兄を見る。
「また来てもいい、と」
ナディルの手が止まる。
「……ナシーラが?」
「ええ」
「自分から?」
「兄上」
「何だ」
「同じことを何度聞いても答えは変わりません」
ナディルは黙った。
サフィーヤの口元が少し緩む。
「ほとんど話さなかったそうです」
「それで?」
「ナシーラは本を読み、リリアは庭を見ていたと」
「……それだけか」
「それだけです」
ナディルは椅子へ背を預けた。
「途中で、訓練場の方から大きな音がしたそうです」
その瞬間、ナディルの目が鋭くなる。
「ナシーラは?」
「驚いて、本を落としたそうです」
ナディルが立ち上がりかける。
「兄上」
「……何だ」
「もう落ち着いています」
ナディルは動きを止めた。
「リリアは?」
「近づかなかったそうです」
「近づかなかった?」
「本だけ拾って、少し離れたところへ置いた。それ以上、何も聞かなかったそうです」
ナディルはゆっくりと椅子へ戻った。
「なぜ怖がったのかも?」
「ええ。ナシーラの方から、どうして聞かないのかと尋ねたそうです」
「それで?」
「リリアは、聞かれたくないことは自分にもあるから、と」
ナディルは何も言わなかった。
視線が机の上へ落ちる。
「少し、似ているのかもしれませんね」
サフィーヤが言った。
「何が」
「二人とも」
ナディルが顔を上げる。
「怖いことを聞かれたくないのに、平気だと言ってしまうところが」
ナディルは黙った。
「それに」
「まだあるのか」
「今日、二人が並んでいるところを見て思いました」
サフィーヤは少し首を傾げた。
「顔立ちも、どことなく似ていますね」
ナディルの目が僅かに細くなる。
「……そうか?」
「少し」
ナディルは思い返すように視線を逸らした。
黒に近い髪。
白い肌。
静かに相手を見る時の目元。
「……言われてみれば、少しな」
「でしょう?」
「少しだ」
サフィーヤが笑った。
「ナシーラは、リリアが黒百合だと知っていたのか」
「最初から知っていたかは分かりません」
サフィーヤは答えた。
「ただ、私がリリアの名を呼んだ後も、態度は変わりませんでした」
「そうか」
ナディルはしばらく考えた。
「会わせないようにしますか?」
サフィーヤが尋ねる。
ナディルの返事はすぐには返ってこなかった。
やがて、
「ナシーラが、また来てもいいと言ったんだな」
「ええ」
「なら、止めるな」
サフィーヤが目を見開いた。
「兄上にしては珍しいですね」
「どういう意味だ」
「ナシーラのことになると、何でも先回りして遠ざけようとするでしょう」
「危険があるなら当然だ」
「今回は?」
ナディルは答えなかった。
窓から、西の空へ目を向ける。
「ナシーラ自身が選んだ相手だ」
静かな声だった。
「なら、私が閉じる理由はない」
サフィーヤの表情が和らいだ。
「ファリダには伝えておけ」
「何を?」
「ナシーラが拒まない限り、リリアが西庭へ行くのを止めるな」
「分かりました」
「ただし、ほかの者は近づけすぎるな」
サフィーヤが兄を見る。
「やっぱり、そこは変わらないんですね」
「何がだ」
「いえ」
サフィーヤは立ち上がった。
扉へ向かいかけて、振り返る。
「兄上」
「何だ」
「ナシーラ、笑っていましたよ」
ナディルの目が上がった。
「リリアが『ナシーラさん』と呼んだ時に」
しばらく返事はなかった。
やがて、
「……そうか」
独り言のように呟いた。
サフィーヤは何も言わず、扉を閉じた。
ナディルはすぐには書類へ戻らなかった。
しばらく、西庭のある方角を眺めていた。




