第十二話 小さな皇太女
◆
皇帝への謁見の翌日も、リリアはサフィーヤの部屋でヤシャラ文字を練習していた。
少し難しい文章。
名前。
出身。
好きなもの。
行きたい場所。
「ここ」
サフィーヤが紙を指す。
「語順が逆です」
「またです……」
「前より良くなっていますよ」
「本当ですか?」
「本当です」
リリアは、ほっとして、書き直そうと葦筆を持ち直した。
その時、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
ぱたぱた。
続いて、女官の慌てた声。
サフィーヤが顔を上げる。
「……来たわね」
「どなたですか?」
答えが返る前に、扉が開いた。
「叔母上!」
高い声とともに入ってきたのは、小さな少女だった。
青黒い髪をきちんと編み込み、淡い青の衣を着ている。
その後ろから、女官が息を切らして入ってきた。
「皇太女殿下、お待ちくださいませ」
リリアは思わず立ち上がった。
皇太女。
少女はサフィーヤの前まで来ると、ぴたりと足を止めた。
駆けてきたことなどなかったかのように背筋を伸ばし、きちんと礼をする。
「ごきげんよう、叔母上」
「ごきげんよう、アミラ」
サフィーヤが笑った。
その名は知っている。
ヤシャラの皇族と主要貴族については、サフィーヤから学んでいる。
皇太女アミラ。
ナディルと第一皇后ルキーヤの娘。
将来、この国の皇位を継ぐ少女。
けれど、実際に会うのは今日が初めてだ。
アミラがリリアを見る。
金を含んだ緑の瞳が、大きく見開かれた。
「……黒百合の巫女さま」
ヤシャラ語だった。
けれど、その言葉はリリアにも分かった。
◆
アミラは、急に姿勢を正した。
そして、黒百合の巫女へ向ける礼を取ろうとする。
リリアは驚いた。
「待ってください」
思わずローダン語で言ってしまう。
当然、アミラには通じない。
サフィーヤがヤシャラ語で何かを告げると、アミラが不思議そうに叔母を見る。
「この方は、リリアです」
サフィーヤがゆっくりと言った。
名前を示す言葉と、自分の名だけはリリアにも聞き取れた。
アミラがこちらを見る。
「リリア?」
「はい」
今度はヤシャラ語で答える。
「私は、リリアです」
発音は少し硬かった。
けれど、通じたらしい。
アミラはしばらくリリアを見つめた。
それから、確かめるように口にする。
「……リリア」
黒百合でも、巫女でもない自分の名だった。
胸の奥が、温かくなった。
◆
「アミラは皇太女です」
サフィーヤがローダン語で説明した。
「将来、皇位を継ぐ立場にあります」
知識として聞いてはいた。
けれど、目の前にいる少女を見ると、改めて不思議な気持ちになった。
まだ幼いが、椅子への座り方も、手の置き方も、視線までもがきちんとしている。
アンを思い出した。
胸の奥が、ちくりとした。
「リリア?」
アミラがこちらを見ている。
リリアは慌てて微笑んだ。
「すみません」
「今のは謝るところではありませんよ」
サフィーヤにすぐ指摘された。
「……はい」
アミラが首を傾げる。
その仕草は、とても六歳らしく愛らしかった。
◆
アミラが、リリアの机に置かれた紙へ目を向けた。
何かを尋ねる。
「何と言っていますか?」
「ヤシャラ語を勉強しているのか、と」
「はい」
リリアは、覚えた言葉を頭の中から探す。
「私は……ヤシャラ語を……勉強しています」
ぎこちない。
アミラは真剣な顔で聞いていた。
そして。
「違う」
「え?」
リリアは目を瞬いた。
アミラが紙を指し、ヤシャラ語でゆっくりと言う。
サフィーヤが笑った。
「最後の音が違うそうです」
「アミラ殿下が?」
「ええ」
リリアは恥ずかしくなった。
「では、教えていただけますか?」
サフィーヤが訳す。
アミラの顔が、ほんの少し誇らしげに変わる。
もう一度、発音する。
リリアも真似をした。
「こうですか?」
アミラが首を横に振る。
もう一度。
さらにもう一度。
ようやく、アミラが頷いた。
「できました?」
「できた、と言っています」
リリアは笑った。
「ありがとうございます」
ヤシャラ語で言う。
今度はきちんと通じた。
アミラの目尻が、少し下がった。
◆
しばらくすると、廊下から別の足音が聞こえてきた。
小さな足音だった。
ぱた。
ぱた。
ぱた。
その直後、扉の向こうで何かがぶつかる音がした。
「……今度は、どなたですか?」
リリアが尋ねる。
サフィーヤが額へ手を当てた。
扉が開く。
まだ幼い男の子が、女官の手を振りほどいて入ってきた。
柔らかな黒髪。
濃い青の瞳。
丸い頬。
覚束ない足取り。
「イリヤス殿下です」
サフィーヤが言った。
皇子イリヤス。
第二皇后の子で、アミラとは母親が違う。
まだ二歳の、小さな皇子。
名前を知っていることと、実際に会うことは、やはりまるで違った。
リリアが立ち上がろうとする。
「そのままで」
サフィーヤに止められた。
イリヤスは、そんなことにはまるで興味がないらしい。
部屋へ入ると、まず姉を見る。
次に叔母。
そして、リリアをじっと見た。
「……」
次の瞬間、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「え?」
小さな手が、リリアの膝へ置かれた。
そして両腕を上げる。
どう見ても、抱き上げてほしいという仕草だった。
リリアは固まった。
「……私?」
イリヤスは、もう一度腕を伸ばす。
サフィーヤが笑いを堪えていた。
「どうやら、そうみたいね」
「でも……初めてお会いしたのに」
「イリヤスには関係ないのでしょう。嫌なら断っていいですよ」
リリアはイリヤスを見る。
イリヤスはただ、両腕を伸ばしている。
抱き上げてほしい。
今、この子が望むのは、それだけなのだろう。
リリアはそっと腕を伸ばした。
「失礼します」
抱き上げる。
思っていたよりも軽く、そして温かかった。
小さな手がリリアの髪へ伸びる。
指先へ黒髪を絡めて、イリヤスは笑った。
◆
アミラが弟を見て、眉を寄せた。
何かを言う。
「何と?」
「『皇子なのだから、そんなふうに甘えてはいけない』と」
リリアはアミラを見る。
まだ六歳。
この子自身も、甘えたい年頃なのに。
「アミラ殿下は、弟さんを抱っこしないんですか?」
サフィーヤが訳す。
アミラは少し困った顔をした。
そして答える。
「私は皇太女だから」
サフィーヤが訳す前に、リリアにも何となく意味が分かった。
「……皇太女だから?」
アミラが頷く。
「皇太女は、きちんとしていないといけない」
サフィーヤが訳す。
リリアはしばらくアミラを見つめた。
「アミラ殿下」
簡単なヤシャラ語を探す。
「……疲れませんか?」
サフィーヤが訳した。
アミラの目が大きくなる。
「疲れる?」
答え方が分からないのか、少し迷っている。
やがて、小さく頷いた。
サフィーヤは何も言わなかった。
◆
窓辺には、子どもが遊べるような厚い織物が敷かれていた。
リリアはそこへ腰を下ろした。
椅子へきちんと座って話すより、その方が自然な気がした。
イリヤスは、すぐに小さな木片を持ってきて、リリアへ渡した。
「これは?」
イリヤスが何かを言う。
「馬だそうです」
サフィーヤが訳す。
「……馬?」
イリヤスが強く頷く。
リリアは改めて木片を見る。
「立派なお馬ですね」
サフィーヤが吹き出した。
「笑わないでください」
「すみません」
「イリヤス殿下は真剣です」
「ええ。そうですね」
アミラも、ほんの少し笑った。
リリアはそれを見逃さなかった。
「アミラ殿下も、何か作りますか?」
アミラが首を横に振る。
「皇太女だから?」
今度はサフィーヤが訳さなくても、アミラは意味を察したらしい。
少しむっとする。
リリアは笑った。
「では、私が作ります」
木片を重ねる。
馬のつもりだった。
けれど、三つ目を置いた途端に崩れた。
イリヤスが声を上げて笑う。
その隣で、アミラも笑った。
先ほどまで背筋を伸ばしていた皇太女ではなく、六歳の子どもの笑顔だった。
◆
やがて、扉の外の空気が変わった。
女官たちの声が小さくなる。
サフィーヤが顔を上げた。
「お迎えね」
扉が開いた。
入ってきた女性を見た瞬間、アミラが立ち上がる。
「母上」
リリアも立とうとした。
「そのままで結構です」
穏やかな声だった。
赤銅色を帯びた茶髪。
深い緑の瞳。
第一皇后ルキーヤ。
その名も、サフィーヤから教わっている。
アミラの母。
そして、ヤシャラの有力な公爵家の出身だということも。
アミラは笑顔を引っ込め、背筋を伸ばした。
「母上。申し訳ございません」
ルキーヤの眉がわずかに動いた。
「何を謝っているのです?」
アミラが床を見る。
散らばった木片。
「遊んでいました」
「ええ。見れば分かります」
アミラの肩が、ほんの少し固くなった。
「私は皇太女です」
「皇太女である前に、六歳の女の子です」
ルキーヤの声は静かだった。
「学ぶ時には学ぶ。遊ぶ時には遊ぶ。それでよいのです」
アミラはしばらく母を見つめた。
「……はい」
返事はまだ少し硬かった。
ルキーヤは今度はリリアを見る。
「今日は、子どもたちに付き合ってくださったのですね」
「はい。私も楽しかったです」
サフィーヤが訳す。
ルキーヤの表情が和らいだ。
「イリヤスまで随分懐いたようね」
ルキーヤはそう言いながら、イリヤスの乱れた襟元を指先でそっと直した。
その声に反応したのか、イリヤスがルキーヤを見る。
そして、またリリアの衣の裾を掴んだ。
「どうやら、初対面ということはイリヤスには関係ないようね」
ルキーヤはアミラへ手を差し出した。
「そろそろ戻りましょう」
「はい、母上」
アミラは母の手を取る前に、リリアを振り返った。
「また」
短いヤシャラ語だった。
今度はリリアにも分かった。
「はい」
同じ言葉で答える。
「また来ます」
アミラが小さく頷いた。
◆
回廊を歩きながら、リリアはしばらく黙っていた。
「疲れましたか?」
ファリダが尋ねる。
「いいえ」
「では?」
「アン様を、思い出していました」
ファリダは何も言わなかった。
「アミラ殿下を見ていたら……少し」
「会いたくなりました?」
「はい」
素直に答えた。
胸の奥が痛む。
けれど、苦しいだけではなかった。
「アン様、お元気だといいですね」
「ええ」
「たくさん話したいです」
「きっと、話せますよ」
「ヤシャラのことも」
「喜ぶでしょうね」
リリアの顔に笑顔が戻った。
その時、回廊の向こうからヴィクトルとシリルが歩いてきた。
ヴィクトルは稽古のあとらしく、金髪が少し乱れている。
シリルの黒髪には、どこでつけてきたのか小さな葉が一枚引っかかっていた。
「何をしていたんですか?」
リリアが尋ねる。
「剣の確認です」
ヴィクトルが答える。
「庭」
シリルが答えた。
「庭ですか?」
「好きなんだから仕方ないだろ」
「葉っぱ、ついてますよ」
「どこ?」
シリルが頭へ手をやる。
「そこではありません」
リリアは一歩近づき、手を伸ばした。
黒髪についていた小さな葉を摘まむ。
「ここです」
「ああ。ありがと」
シリルの返事が、ほんの少し遅れた。
リリアは気づかず、取った葉を指先へ載せる。
その横で、ヴィクトルの視線が動いた。
リリアではない。
その肩越し。
回廊の奥へ。
ほとんど同時に、シリルの表情から笑みが消えた。
リリアも二人の視線を追う。
「……また、誰かいるんですか?」
ヴィクトルが小さく頷いた。
誰もいない柱の陰。
風が、薄い帳を揺らしている。
「前と同じ奴かどうかは分からないけどな」
シリルが言った。
リリアの指先で、小さな葉が揺れた。
「……調べられますか?」
シリルがリリアを見る。
「調べるつもりだった」
「私も知りたいです」
「ああ」
今度は、すぐに返事があった。
リリアは隣を歩くファリダを見る。
「ファリダさん。今の方、皇宮の警護の方ではないんですか?」
ファリダは柱の陰へ目を向ける。
「少なくとも、私が把握している随衛や近衛ではありません」
「皇帝陛下の影でしょうか」
ファリダはすぐには答えなかった。
「確認します」
「お願いします」
リリアはもう一度、柱の陰を見る。
誰もいない。
それでも、見られている気配が残っているような気がした。
黒百合だからなのか。
ローダンから来た人間だからなのか。
それとも、自分の知らない理由があるのか。
分からない。
◆
その日の夕刻、皇帝の執務室には、灯りが灯っていた。
机の上には、いくつもの報告書が開かれている。
ナディルは、そのうちの一枚へ目を落としていた。
向かいにはジャリール。
その少し後ろには、黒衣の男が一人立っている。
皇帝直属の影だった。
「今日もいたか」
ナディルが尋ねる。
「はい」
男が答える。
「サフィーヤ殿下のお部屋からリリア様が退出された後も、回廊で動向を確認しておりました」
「ダルカーンの影だな」
「間違いありません」
ナディルの表情は変わらなかった。
「何を見ていた」
「リリア様と皇太女殿下、皇子殿下の接触を」
ジャリールが視線を上げる。
「第一皇后陛下がお迎えに来られた際も、その場の出入りを確認していたようです」
「ルキーヤへ接触は」
「ございません」
「リリアにも?」
「見ているだけです」
ナディルは指先で机を一度叩いた。
「なら、まだいい」
ジャリールが静かに尋ねる。
「このまま置かれますか」
「ああ」
短い返事だった。
「ダルカーン公爵家が、黒百合の帰還を何も確認せずにいる方が不自然だ」
「向こうも、こちらに気づかれていることは承知しているでしょう」
「当然だ」
ナディルは報告書を閉じた。
「皇宮の中で、私の目から完全に隠れて動けると思うほど、あの家は愚かではない」
見ていることを隠し切ろうとはしていない。
それ自体が、一つの意思表示でもある。
――自分たちは、自分たちで確かめる。
ナディルも、その意味を理解していた。
「第一皇后陛下の意向ではない、という判断に変わりはございません」
ジャリールが言った。
「ああ」
ナディルの声が少し低くなる。
「ルキーヤと実家の動きを混同するな」
「承知しております」
「見るだけなら好きにさせろ」
ナディルは椅子へ背を預けた。
「ただし、リリアへ直接接触する。シリルやヴィクトルへ工作する。祀院へ情報を流す。リリアの行動を誘導する」
一つずつ、線を引くように言った。
「そこまで踏み込めば必ず止めろ」
「御意」
「アミラにもだ」
ジャリールが僅かに眉を動かした。
「皇太女殿下への接触も、ですか」
「当然だ」
ナディルは答えた。
「アミラを支持していることと、皇太女を政治に利用してよいことは別だ」
「御意」
短い沈黙が落ちた。
ナディルは別の報告書へ手を伸ばす。
「それで」
声が少しだけ変わった。
「アミラはどうだった」
ジャリールが一瞬黙る。
「リリア様へ、ヤシャラ語の発音を教えておられたそうです」
ナディルの手が止まった。
「アミラが?」
「はい」
「逆ではないのか」
「逆ではございません」
黒衣の男は無表情のままだった。
ジャリールが続ける。
「何度か教え直した末、ようやく合格を出されたとか」
ナディルの口元が、わずかに緩んだ。
「……あいつらしい」
「皇子殿下は、初対面のリリア様へ抱き上げてほしいと手を伸ばされたそうです」
今度こそ、ナディルが顔を上げた。
「イリヤスが?」
「はい」
「初対面で?」
「初対面でございます」
ナディルはしばらく黙った。
やがて、額へ片手を当てる。
「……誰に似た」
ジャリールは答えなかった。
黒衣の男も、何も言わない。
その沈黙が妙に長かった。
「もういい」
ナディルは小さく息を吐いた。
少しして、再び報告書へ目を落とす。
「黒百合が戻った以上、見る者はこれからも増える」
先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「今は、見ているだけなら構わない」
ナディルは窓の外へ目を向ける。
冬の夕暮れ。
皇宮の建物の間を走る水路へ、夜の色が落ち始めていた。
「問題は」
琥珀金の瞳が細くなる。
「誰が、手を伸ばすかだ」
部屋の中に、沈黙が残った。




