70.私のもの ♔
男はこの場では一度しかアレクセイに視線を送らなかった。
目が合った時間はほんの僅かに終わる。
抵抗する上官を魔塔から引っ張り出して来たことで、夜会の開始前から酷く疲れていたのだろう。
何度も長く息を吐いた男は、今は上官を落ち着かせようとしてまた疲労を重ねている。
魔塔でのようには振る舞えないことに男が苛立っていることを、アレクセイは見抜いていた。
温厚そうに見えて、内側に熱いものを隠している男である。
この男が自ら選んで魔術師をしていることには、以前からアレクセイも喜びを持って彼の選択を讃えてきた。
男が副団長に就いてから、魔術師団が格段にまとまりを得た事実は世に知られたことである。
本人に自覚がなさそうなところは面白いが、魔法のことしか考えられず好き勝手する魔術師たちが、この副団長の言うことならばよく聞いた。
それが男の唯一の上官となる団長までもがそうだというのは、また面白い。
内部統制だけではない。
他部門との調整役もよく務める男だ。
常に権力というものを意識しながらも、ただ媚びるようなことは決してせず、言うべきことは言うし、主張は簡単には曲げず、しかし相手のために落としどころとなる案もきちんと考えてあるという、その見事な他者との調整能力は、アレクセイが側近に欲しかったと望むほどだった。
今もその気持ちは変わらないアレクセイであるが、男が魔術師団で長く今の地位にあることもまたアレクセイは望んでいる。
この男があれば、魔術師たちの使い道が増えるからだ。
だがはたして今代の魔術師団の団長と副団長は、いつまで引退せずにその座に留まってくれるか。
首輪は生涯外れないとしても、魔術師たちは独立を望み、なるべく早い退団を願うものである。
出来れば自分が王になるそのときに、まだそこに居てくれと、アレクセイは願っているけれど。
アレクセイにも、人の心は縛れない。
アレクセイが出来ることは、元々持つ感情をほんの少し煽ってやるくらいのことだ。
それはこんな風にして──。
下の会場では王家に隠し事をしている者たちが、目立つ振舞いを始めている。
王家を良く思わない者たちが、口に出してはならない言葉を、王家主催の夜会で貴族たちに聞かせた。
王家としてはあまり近付き過ぎないようにと望む貴族同士が、言い争いを始めている。
さてさて今夜も面白くなってきた。
アレクセイが黄金の瞳を光らせて、会場の隅々まで視線を流していたところだ。
『アレク、約束破った』
急に声がした。それはアレクセイの頭の中だけに届く、音のない声だった。
──なんだいきなり?今日は忙しいと言ってあったな?
アレクセイも声を出さず、頭の中で問う。
『アレク、約束破った。私、破っていい』
──待て。説明しろ。私は忙しいから見られない。
『孤児院、守らない。私のもの、手を出した』
──待て。忙しくはなくなった。見てやるからまだ動くな。ほぅ。また面倒な石を持ってきたか。私が始末してやるから、お前は子どもを連れて闇に消えるといい。
『アレク、遅い。私のもの、手を出した。私がする。悪いやつ、消す。石も──』
アレクセイが自然に視線を送った先は──まだアレクセイを睨みつけている男だった。
三人行かせても邪魔になるだけだ。
いいや、誰が行っても、邪魔にしかならない。
元より自分が行けば済む話である。
まだしばし王族としてこの場にいるべきではあったが、適当な理由を付けてこの場を抜けることなどアレクセイには容易い。
しかし──アレクセイは、いつものようにこの場で生じた思い付きを信じて動くことにした。
決めたアレクセイの行動は早い。
──魔術師団長。クロを助けに行く気はあるか?
『どちらに行けばいいのです?早く言ってください』
間髪入れずに頭に声が返ってきて、アレクセイは我慢出来ずに笑った。
「くくっ。本当に面白い奴だ」
ぎょっとした顔で王とその向こうにいる男がアレクセイを見ていたが。
アレクセイはその黄金の瞳に彼らを映さなかった。
『殿下。笑っていないで、早く教えてください』
──ほぅ。距離があるのによく笑ったことに気が付いたな。
『擬態していようといまいと、殿下のことは読めますよ』
──本当に不敬な奴だ。お前は私が王太子と知っているか?
『殿下のお話に付き合うつもりはございません。私はどちらに行けばよろしいのです?』
──行けばお前がクロにやられるかもしれない。それでもお前は行くか?
『そうなれば嬉しいだけです。行きます』
──規格外にも程があるな。楽しませて貰った礼だ。特別に夜会を途中で抜けたことについては、誤魔化しておいてやる。
『そんなこともどうでもよろしいことです。殿下、早く場所を教えてください。教えてくださらないならば、そちらに行って、すぐにでもお話ししたくなるように致しましょうか?』
──少しは敬う素振りを見せてくれよ。あぁ、分かった分かった。教えるからこちらには来るな。お前が来ては面倒なのだよ。孤児院だ。クロは今、あれにしては珍しく、激しく怒っている。お前も危険だと思え。
魔術師団長は消えていた。
アレクセイの言葉を最後まで聞いていたかどうかは怪しい。
しかし誤魔化してやるとは言ったが。
大勢の前で転移魔法を使うとは。
疲れることをしてくれるなよ。
アレクセイは、顔には見せずとも内心で酷く慌てている魔術師副団長に、伝言くらいはしておくことにした。
『承知しました』
こちらも間髪入れずにアレクセイの頭に言葉が返ってきたが、それが一言で終わったことに、アレクセイはまた笑い声を上げてしまった。
まったく愉快な夜だ。
どこに消えたと騒いでいる女には、アレクセイは何も伝えなかったが、あれは魔術師副団長がどうにかするだろう。
アレクセイは並び座る男たちを改めて見やった。
隣の男の向こうに座る男から今宵読み取ってきた喜色の意味を理解して、アレクセイは力を使う。
ふん。愚かな。
もうこれで十分だろう。
始末を付けるときが来た。
アレクセイは誰かと同じように思った。
私の意に背き、私のものに手を出すお前たちは、私の国には要らない。
アレクセイの傲慢な思考など知らず、下の会場では貴族たちがそれぞれの夜を過ごしている。
すべてはアレクセイの手の中にあることも知らず。
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