66.まだ名前のない想い ☆
『こいつはこんな顔で眠るか』
王太子が去り際に零した言葉が、イースの頭で繰り返される。
顔周りの筋肉すべてが機能を失ったように何もかもが緩んで、表情を自分の意思で作ることの出来ないこの状態が、イースは気に入っていた。
疑問はそのまま疑問として残り、一人を除いて誰もが満足しない話し合いを終えたあと、ずっと抱いていては可哀想だ、横にしてやれと口々に言われて、イースは最初渋々とクロイをカシアの部屋のベッドに運んだ。
けれどこれはこれでいいものだとすぐに気が付き、イースは機嫌を良くした。
カシアとフライアが後ろで呆れていることには気が付いたが、イースは気にならなかった。
節度がどうとか、貴族の紳士であることを忘れるなとか、クロイを淑女と思えだとか、カシアとフライアから数々聞かされた言葉も、陽が落ちて二人が部屋を去ったあとにはイースはすぐに忘れた。
ベッドの隣に魔法を使わず椅子を運んで座ってから、イースはずっとクロイの寝顔を見詰めている。
壁の高い位置の小窓から月明りが差し込むだけの薄闇の室内は、二人だけが世界に切り離されたように感じられて、あのクロイの闇の中とはまた別の安らぎをイースに与えた。
こんなにも飽きずに見ていられる存在を、イースは今まで知らない。
あどけない寝顔が、クロイの年齢を一層分からなくした。
力なく下がった眉や柔らかそうに膨らむ頬、無防備に小さく開いた唇が、幼さを演出するが、薄闇の中でも頬に影を落とす長い睫や、ツンと上向く鼻先まで続く美しい鼻梁の曲線は、大人の女性を思い起こさせる。
触れなければ熱を感じることが出来ず、息遣いも耳に聴こえることはなかった。
けれど毛布の膨らみがゆったりと上下して、ここにクロイが生きていることを実感出来るから、イースが不安を感じることはない。
起こしたくない。まだ寝顔を見ていたい。そう願うのに。
早く目覚めないだろうかという期待を強く抱いている。
今は隠された淡い紫色の瞳が現れたときには、一番に自分を見て欲しいと願った。
目覚めてからもずっと側にいてくれないだろうか。この先二人だけで生きていけたなら。
イースが今までに抱いたことのない願いが、クロイを前にすると次々湧いた。
そして胸の辺りがずっと落ち着かず、魔力も共に揺れている実感がイースにはある。
それはしかし、魔力を暴走させたあのときのように、イースに憂いや不快な感覚を与えるものではなかった。
どうしてこんなにも胸がくすぐったくなるのだろう。
どうしてこんなにも胸に詰まりを感じるのか。
どうしてこんなにも胸は温まるのだろう。
どうしてこんなに胸は痛むか。
イースはまだこれらの感情の出所に名を付けられていない。
カシアの部屋に二人きりになってから、どれだけ時間が経ったろうか。
イースが小窓を見上げると、半円の形をした月がちょうど小窓の真ん中に見えていた。
前触れというものはなかった。
ただゆっくりと瞼が開き、イースの気に入る淡い紫色の瞳が現れる。
しばらくは無音だった。
それから少しして、クロイの顔が傾き、淡い紫色の瞳が椅子に座るイースを見た。
イースの胸が歓喜に湧く。願いが叶った。
「おはようございます、クロイ。よく眠れましたか?」
先に声を掛けたのはイースだった。
「夜。寝過ぎた」
両手でごしごしと目を擦って、ふわぁっと大きな口を空けて欠伸をしたのち、クロイが身体を起こそうとしたところで、イースが手を伸ばしてその背中を支えた。
するとクロイが尋ねる。
「イース、もう怖くないか?」
「怖くなければ、クロイは帰ってしまいますか?」
クロイが首を傾げて言う。
「エリー、寝てる」
「エリーさんが起きる前に帰れば平気なのですね?」
「エリー、いない、ビービー泣く」
「では、エリーさんが目覚めるまで、こちらにいてくださいますか?」
「イースも泣くか?」
「そうですね。クロイがいなければ、私は泣いてしまうかもしれません」
「エリー、起きるまで。イースといる」
「はい。エリーさんが起きるまで、どうか私の側にいてください」
それからイースは、クロイの頬に掛かる黒髪を指先で耳の後ろへと流した。
イースがどれだけ触れてもなされるがままのクロイを見ていると、イースの胸に嬉しさが広がると同時に、暗く重い感情が沈み込む。
キィトと呼ばれた青年だけではないとしたら──。
クロイを自分しか知らない場所に閉じ込めてしまいたいとイースは願った。
それを口にしてはならないことは、まだその理由に名を付けられていないイースにも自分で判断出来たようだ。
「今日はお疲れでしょうし、お腹が空いておりませんか?昼間に残した甘いものもありますが、カシアが食事も用意してくれました。クロイが好きなものを好きな順で好きなだけ食べられますよ」
毛布の上からお腹の辺りに手を置いて、クロイは首を振った。
それからクロイは何も言わず、イースもしばらく黙した。
月明かりだけが静かに二人に降り注いでいる。
無言の中でイースは今は思い出したくない昼間の声を蘇らせた。
『こいつが闇に隠れないならば、よく見ておいてやれ』
嫌な声はイースの頭の中で続く。
『クロは石にも甘過ぎる。どうせ平気な顔を見せるだろうが、しばらくは影響が残るだろう。直後より少し経ってから重いものがぐっと来るからな。気にしてやってくれ』
あなたに言われなくても、私はクロイを見ておりますし、これからはクロイ一人にはさせませんよ。
心の中で昼間言った言葉を繰り返したあとに、イースは言った。
「クロイ。まだあなたを抱き人形にすることは許されるでしょうか?」
イースが返事を待った時間は、少しの間に限られた。
椅子から腰を上げ、ベッドの端に座り直したイースは、横からクロイを抱き締める。
「イース。私は強い」
「えぇ、存じておりますよ。クロイは強いですからね。今も弱い私が強いクロイに甘えているのです。しばらくこうしてクロイに甘えてもよろしいですか?」
クロイが頷いてから、イースはクロイの黒髪を撫でていく。
クロイは何も言わなかったが、その手がイースの上着の端をきゅっと握ったことが分かって、イースは一人破顔した。
静かな時間が、またどれだけ続いたか分からなくなった頃に、クロイがぽつりと言った。
「私は強い。石も強かった」
どんな言葉を返して、クロイの心の中を暴こうか。
考えるイースの頭に、また昼間の声が過った。
『お前たちもクロを気に入ったなら、こいつをよく手懐けろ』
どうしてこんなときに、嫌な声ばかり思い出してしまうのだろうか。
嫌がらせのように、声はまだ続いた。
『一人だと危うい奴だ。お前たちでどうにかしてやれ』
言われなくてもそうする。
昼間会った男のことなどはもう二度と思い出してやらぬと決意して、イースは口を開いた。
「クロイ。私も石のことが知りたくて、クロイから石のお話をお聞きしたいのです──」
クロイの肩越しにイースが小窓を見上げたときには、半月は見えなくなっていた。
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