62.おおいなる苦難
「シュクジョ?知らない」
クロイはフライアを見上げて首を傾げた。
この黒髪の女性が貴族のことなどほとんど知らないのだと、カシアは今になって知る。
いつでも何でも自分の意思で見られて聞ける、そんな環境に身を置いていたら、この世のすべてを知る賢者にも容易くなれるだろう。
クロイがそうしなかったのは、自分の欲望のために魔法を使う気にはならなかったからだろうか。
それともその能力が当たり前である故に、知りたいという欲望自体持たないか。
そもそもクロイは、これまでどうやって生きてきたのだろう。
カシアはクロイという人間がどんな両親の元に、どこで生まれて、どのように育ったか、兄弟姉妹はいるのか、エリーと出会う前は何をしていたか、次々湧く疑問を前に、本当にクロイのことを何も知らないのだと実感する。
最近は知らない魔法に夢中になって検証を続けていたけれど、クロイ自身のことも知りたいという欲がカシアに生じた。
この欲望をカシアの上官はとうに抱いてきたであろうし、カシアより強く求めているに違いない。
それでもまだ、クロイに対し一から十まで問い質さずにいられるのは、上官がカシアと同じように、そうすることでクロイともう二度と会えなくなる気がしているからではないか。
カシアは漠然と想像してしまうのだった。
思考を飛躍させていくカシアの前では、舞台役者さながらフライアが大事件が起きたように手を広げて言った。
「クロイは淑女を知らないか。それは大変だ」
「知らない。大変なのか?」
「あぁ、大変だとも。クロイはエリーや私とお揃いになりたいだろう?知らなければ、いつまでもお揃いになれぬのだよ」
「大変!フライア、シュクジョ、教えて!」
「よしよし、今日はクロイに淑女について教えてやろう。美味しいものを食べながら話そうではないか」
「フライア、いいやつ!」
フライア・エリスロースが淑女を語るか。
おそらくイースも同じように思っていたのではないかと、カシアは想像する。
カシアの上官はいつもカシアが上官に向けるような視線をフライアに向けていたから。
そしてそれは王太子までもがそうだった。
「ふっ。揃いも揃って何か言いたそうな顔を向けおって。私も貴族家の娘だぞ。お忘れならばこの後にとくと思い出させてやろう」
いや、だから、貴族の娘はまずそんな話し方をしないもので……カシアは口にする気はなく、心で思った。
しかしクロイの世話をしてくれるというなら、それは任せたいところ。
「エリーのパン、もうない」
しょんぼりと落ちた声がして、イースが慌てて「エリーさんの美味しいパンには劣るかもしれませんが、今日はこちらで他の美味しいものをご用意しますよ」と優しい声で励ましている。
用意するのは自分なのだろうなと思いながら、カシアはいつの間に上官がクロイが喜ぶ言葉を知ったのだろうと疑問に思った。
どうやら今日エリーが焼いたパンは、子どもたちがすべて食べてしまったようで、クロイはイースが励ましてもすぐには立ち直ろうとせず、イースもどうにかクロイに元気を出して貰おうと料理名を次々述べるようなことをしてみたが、クロイには貴族が好む料理の名が通じず、まだパンが食べたかったと落ち込んでいる。
そんな二人にまたフライアが助け船を出した。
「エリーの美味しいパンもいいが、この時間だ。甘いものはどうだ、クロイ?好きか?」
「甘いの、エリーが好き」
「クロイは好きではないのか?」
「……好きか?」
何故疑問形なのだろう。
カシアはクロイという女性がますます分からなくなった。
「普段はあまり食べないのだな?ならば開拓するのも良かろう。果実水が好きなら果物のたっぷり乗ったタルトなどがいいかもしれん。フォッシル魔術師副団長、今日はデザートを数種頼めるか?」
「うちは甘味処でもないのですがね。用意しますよ……殿下もお席に付かれますか?」
今だけは許される気がして、むしろそれがこの場の最善であるような気もして、カシアは不敬を分かりつつ発言した。
そしてその予感は当たっていた。
王太子は口元に握った手を添えると、くくくと声を押し殺すようにしてしばらく笑い続けた後に、カシアに言った。
「有難く、魔術師副団長の誘いに乗ろう」
「アレク、遠く!」
「はいはい、魔術師副団長。私とクロは一番離れた席を用意してくれ」
「はるか遠く彼方の帰っては来られない場所に飛ばしましょうか、王太子殿下?殿下が二度と近付くことのない場所に落ち着いてくだされば、クロイも心から安らぐはずですよ?」
上官の不敬が過ぎて、カシアはもう思うこともない。
それを決める立場にもないと知りながら、カシアはこの場は無礼講なのだと心に決めた。
いちいち不敬を気にしていたら、心が持たない未来がすぐそこに見えたからである。
「くくっ。お前たちは私に魔法を使えんだろう?」
「いいえ。使えますよ?」
イースは魔法でテーブルの上から黒猫を運ぶと、王太子の前に浮かべてみせた。
王太子は目を細め、クロイに聞く。
「クロ。あれは私にも効くと思うか?」
「分からない」
「試しましょうか、殿下」
「疲れることはやめてくれ。クロ、黒猫は仕舞え」
「クロイ。この黒猫は出しておきましょう。殿下と対等にお話をするためです」
クロイの顔が横に前にと忙しなく向きを変えていた。
困り果てたクロイが見た先は──。
カシアは転移魔法を使って部屋から消えたかった。
クロイの視線にも困惑したが、イースと王太子までもがカシアを見たのだ。
「私も害する意思を持たねば、服を切り刻むことなど造作もないと分かったところでな。次は髪が刈れるかどうか試したいと思っている。今からその検証に付き合わないか、王太子殿下?」
無礼講だ。気にするな。
カシアは心に言い聞かせたが、もっと気になることがあって、それどころではなかった。
どうして言った後に、フライアはカシアを見るのか。
そしてまた王太子がカシアを見ているのは何故か。
その尊き黄金の瞳が、この場をどうにかしろと訴えて来ている気がしても、カシアは誰とも目を合わさないようにして、ついに言ったのだ。
「これから午後のお茶をするにしても、動いた後です。まずは皆様で手を洗いませんか?」
ここで沈黙なく、皆がすぐに笑ってくれたことには、カシアも感謝した。
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