61.生まれと育ちが違うこと
「おおいなる誤解、解く」
自嘲気味に笑う王太子にクロイは言った。
「誤解でもないから気にするな。それにだ、クロ。解いたところで敬う奴らと思うか?」
クロイはしばらく首を傾げて考える素振りを見せたのち言った。
「アレク、いつも分からないことを言う」
「くくっ。お前には分からないままでいて欲しいものだが。私はそんなお前が羨ましくてならないな」
クロイの頭を撫でようとでもしたのか。
王太子の伸ばした手をパシっとはねのけたのは──。
「アレク、触らない。離れる」
クロイだった。
イースも射殺さんばかりの冷たい視線で王太子を見上げていたが、さすがに王族相手に手までは出なかったようだ。
あるいは王族など関係なく、先にクロイが動いたから睨むだけに留めたのかもしれない。
「クロイ、手は痛くありませんか?」
「平気。私は強い」
イースがどさくさに紛れてクロイの左手を取り、他に異常はないかと念入りに確認している間も、カシアはクロイの反応に驚き、クロイばかり観察してしまった。
クロイと王太子は良く知る仲のようだが、仲が良いというわけではないのだろうか。
「お望み通り来てやったというのに、お前は冷たいな」
「冷たくない!もっと遠く!」
「はいはい。私もこのくらいの距離がちょうどいいからな。これで満足したか?」
王太子は三歩後ろに下がってから、わざとらしく左右の手のひらをクロイに向けると、肩を竦めて笑った。
「いい。誤解、解く。灰色の。嘘を吐いた」
「その件はよくやったと言ってやる。石が付いていたとはいえ、よくぞあれだけの言葉を引き出すまで待てた……あぁ、そうだな。お前はそういう女だった」
首を傾げたクロイは、ここでは何も返さなかった。
「クロイ、手を拭きますね」
上官はハンカチを持ち歩く人だったのか。
上官がこんなときに魔法を使わないなんて。
二重に驚くと同時に、カシアの心に不安が過った。
あのハンカチは、はたして綺麗だろうか。
その不安が伝わってしまっただろうか。
「イース、いい。離す」
素直にイースが手を離すと、クロイは左の手のひらをじっと見たあとに、その手のひらを自分のお腹に押し当てた。
何事かとカシアたちが見ていれば、ごしごしとお腹に押し付けるようにして手のひらを左右に動かす。
カシアの頭の中に、悲痛に顔を歪めたエリーの姿が浮かび上がってきた。
おかげでカシアの思考からすぐそこにいる王太子は存在感を消していく。
エリーの苦悩の原因は明らかにこれである。
たびたび怪我をしているならば、それはそれで問題で、早急に解決しなければならないことではあるけれど。
服の関係ない部位に血を付けて、これまでエリーに多大なる心配をさせてきたとすれば、この問題は今日ここで解消しておきたいとカシアは願った。
世話焼きの性分を持つ者は、他者のため自発的に動かずにはいられないのだろう。
しかしどうしたものか。
カシアが策を練る間に、手のひらを確認し一度頷いたクロイが、今度は腕を持ち上げ、その袖で口をぐいぐいと拭っていく。
ポーションを飲み終えて、汚れた口周りを綺麗にしたかったと思われた。
「クロイさん。お疲れでしょうし、お帰りの前にこちらで何か食べて行かれませんか?」
「食べる!」
「ではまず手を洗いましょう。ご存知の通り、そちらに水道がありますからね。ポーションのお口直しにお水もいかがですか?」
「手、もう拭いた。果実水、欲しい」
「果実水は用意しますが。服で拭いてしまっては、せっかくの素敵なお召し物が汚れてしまいますよ。食事前ですし、水で綺麗に手を洗いまして、残る水分はタオルで拭きましょうね」
「いい。黒い服。汚れない。手は綺麗!」
クロイは両手をぱっと開いて、カシアに見せ付けた。
カシアはエリーが妥協してクロイはこれなのだと思い至る。
それでもお節介とはいえ、エリーのためにも、服で手を拭う習慣は修正しておきたいところ。
しかし思い出せば、クロイはあの少年にも汚れた際に世話をされていたようだった。
クロイにこの手のことを教え込むことは、それほどに難しいということだろうか。
貴族は生まれながらに清潔にすることを教えられるが市井ではどうだろうかと、カシアは三十年以上生きてきて初めて考える。
各個人の家にまで魔塔のような水道はないかもしれないが、魔法で水が発生する給水所なら王都には住民が日常に使うに十分な個数が地域ごとに設置されていた。
購入時にはそれなりの額にはなるが、水が発生する魔道具を持つ個人もいるだろう。
魔法で少量の水を出せる庶民も少なくない人数でいると思われる。
カシアは確認をしたことはないが、この環境にあれば王都の庶民も手洗いくらいは日常的にしているものと思い込んでいた。
つまりクロイ個人の問題であろうか。
そういえば、シャワーを浴びずに済む魔道具を開発しているように話していた。
その実体は使うと恐ろしい目に合う魔道具のようだったが、すると手洗いも面倒で避けたくて、子どものように手のひらを見せて綺麗だと主張しているのかもしれない。
子ども相手……魔の二歳児辺りを想定すればいいだろうか。
いやしかし、二歳児は言って聞かせられるものではなく、時が来れば子も成長し手洗いくらいは自ら進んでするように変わっていくもので……。
上官の説得の実績もないカシアは、かつてない困難に突き当たっていた。
魔法で水を作って見せて、ついでに手を洗ってしまえばいいと思い付くも、それでは一人のときにはクロイは実行しないだろう。
手を綺麗にする魔道具作りを提案してもいいが、以前の上官との会話を思い出せば、そのような単純な魔道具は、一度完成すればすぐに飽きて、別の魔道具作りに夢中になりそうな気配もあった。
魔道具に長く楽しめるような追加機能をいくつも盛るか?
悩むカシアは、ここで助け船となる女性の声を聴いた。
「クロイ。淑女はハンカチを持ち歩き、汚れた手はそのハンカチで拭くものだぞ」
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