6.存在しないはずの魔法使い
慌てて手を引いたフライア・エリスロースの手に握られた魔剣は、カシアが見た限りは正常な状態だった。
フライア・エリスロースは、言葉を発することなく、再び地を蹴り後ろに跳ねる。
着地後は剣を構え直したところ、彼女も相当にこの状況を警戒しているということだろう。
カシアも今日はじめて真剣に警戒していた。
どんな些細なことも逃さまいと、全身の感覚を研ぎ澄まさせている。
フライア・エリスロースの後ろに控える騎士たちの視線も同じ場所へと集約した。
そしてイース・アバランも、同じものを見ている。
イース・アバランの目のまえ、すぐに手の届く場所に、肩までの黒髪を真直ぐに垂らし、上下真っ黒い服を着た子どもがいた。
その子どもはイースに向けて両手を上げた状態で止まっている。
いつもならカシアはここまで警戒をしていなかった。
今朝はおかしいのだ。
どうしてか、イース・アバランが微塵も動かない。
年下の上官に何が起きているか、カシアには判別がつかなかった。
子どもの周りに魔法の気配は……最初からない。
貴族風に言えば賑やかなお喋りで有名なフライア・エリスロースも言葉を発さず。
その後ろにいる騎士たちも同様。
しばらく静寂が続くことになった。
結局この場の静寂を破る役目は、カシアが担うことになる。
「団長。大丈夫ですよね?イース団長?どうされましたか?」
イースが倒れることを想定はしていないが、カシアは心配になり声を掛けた。
カシアには感知出来ない魔法が行使された可能性があったからだ。
何せ……子どもが現れた瞬間も、剣の先端が消えた瞬間も、魔力を感じなかった。
その理由に……すでにカシアは思い至っている。
騎士団の者たちも同じ想定に終着しているのではないか。
カシアは考え、それならば天才イース・アバランでも危ういことはあると思った。
ところがカシアが抱いたこの拭いきれない不安は、意外にもあっさりと当人が打ち消した。
「……これは失礼をいたしました」
イースは突然に声を発すると、抱いていた黒猫を前に差し出したのだ。
「あまりに素晴らしい魔道具でしたので、少々拝見させていただきました。作成者であるあなた様に許可を得ず勝手に触れてしまい、大変に申し訳ありません」
黒髪が揺れる。子どもは頷いたのだとカシアにも分かった。
黒猫はあっさりとイースの手から子どもの手へと引き渡される。
「素晴らしい?」
「えぇ、とても素晴らしいと思いました。出来ればもう少し時間を掛けて、じっくりと拝見したいところなのですが。改めてお願いしましたら、私にその猫を見せていただけますでしょうか?」
「見るだけか?」
「拝見しながら、あなた様とお話も出来たら嬉しいですね。その魔道具についてお聞きしたいことが沢山ありまして、いかがでしょう?」
子どもの手に渡った黒猫は、またあっさりとイースの手元に戻っていく。
子どもはイースの誘いに同意したということだろうか。
言葉少ないが、イースとの様子を見るに、ただの子どもに思えた。
しかし子どもは突然にそこにいた。
それはあの黒猫のように──。
そして消えた剣の先端。
先端だけが何もない空間に吸い込まれたようだった。
しかも隠れされた部分は、魔剣から放たれる魔力がカシアには感じ取れなくなった。
そのすべてにおいて、新しく生じた魔力も感じず。
それはつまり──。
「闇魔法か?厄介な」
離れたところから放たれたフライア・エリスロースの小声をカシアの耳は捉えた。
やはりこの場の皆が同じ推測に辿り着いている。
闇魔法使い。
それが子ども自身か、見えぬところに潜む誰かか、そこまでは分からなかったが。
この場に闇魔法使いが確実にいる。
闇の魔法は特殊だ。
そして今は、闇魔法使いはこの王国に存在しないことになっている。
しかしながらここは貧民街。
生き残りがいてもおかしくはない場所だった。
王家がいくら代替わりしようとも、貧民街に手を入れられなかった理由もそこにあるのではないか。
カシアは思わず上官ではなく、フライア・エリスロースを見やった。
同じ気持ちだったのかは知らないが、珍しいことにすぐに彼女と目が合うことになる。
カシアの考えへの同意だろうか。
フライア・エリスロースは、深刻な顔をして静かに頷いた。
これは……始末書も報告書も必要なくなるかもしれない。
しかし単純にそれを喜べないカシアである。
魔術師団で副団長をしていれば、王国の機密情報に触れる機会はたびたびあった。
機密を知るということは、単純に話さなければいいということでは終わらない。
関わる人間に選ばれてしまったということだから──。
私だって団長のように研究だけをしていたいのに……。
苦労人カシアは、心に湧いた怨念をぶつける気持ちで上官を眺め、そこに憎たらしくも満面の笑みを見た。
「この体温をどうして維持しているのです?──素晴らしい!どこで素材を?ご自身で。それもまた素晴らしいですね。私もたまに取りに行きますが。えぇ、最近は──」
この状況で楽しんでいることもさることながら、会話がよく成り立っていることも、カシアにはとても理解出来なかった。
子どもは時折単語を呟くか、頷くだけ。
それなのに、イース・アバランは、嬉しそうにお喋りを続けている。
「どうでしょう、香りを付けるのは?──あなた様に褒めて頂けると嬉しいですね。えぇ、そうですね。たとえば緑の魔石と、コナコナの花粉、あとは──確かに香りが強過ぎるかもしれませんね。ほのかに香るようにするには、たとえば反復の魔法陣を──」
「アバラン!遊びに来ているのではないぞ!話を続けたいなら、その子どもに状況の聞き取りを開始しろ!」
いくら待っても会話は終わらないと分かったのだろう。
今度はカシアが声を掛けるより先に、フライア・エリスロースが叫んでいた。
イースの視線と同時に、子どもが振り返る。
「嫌なやつ。仲間か?」
「いいえ、彼女は私の知らない人です」
子どもの問いに即答したイースに、フライア・エリスロースが怒鳴った。
「アバラン!貴様!ふざけているのか!魔術師団長として働け!!!!」
カシアは少し思った。
フライア・エリスロースがいれば、自分が怒鳴る役目を担うことはなく楽なのでは?と。
警戒はしていたが、少し気楽になったカシアは観察する。
子ども……少女の綺麗な薄紫の瞳がカシアを捉えた。
それは一瞬のことだった。
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