56.何事もなく終わるわけがなかった
「貧民街の調査、ご苦労であった。これよりは貧民街を綺麗にするため、貧民街の住人すべての身柄を確保せよとの仰せです。魔術師副団長、もう一度問いましょう。魔術師団では貧民街の人間を匿われてはおりませんな?」
カシアは浮かべていた微笑を、まるで張り付けた絵画のように崩さずに言った。
「殿下のお言葉、有難く頂戴いたしました。ところでそれは王太子殿下より魔術師団へのご下命ということでよろしいでしょうか?ならば正式に依頼書を提出頂きたい」
「なんと……魔術師副団長は、お立場がお分かりか?」
「魔術師団の副団長だから言っているのですよ。侍従殿もご存知のはずですが。魔術師団は緊急時以外に口頭連絡では動かない規定があります。魔術師を利用しようと近付く高貴なる方々が、過去あまりに多く、王家主導の元、正式な書面を残すよう取り決めた件について、まさか王太子殿下がご存知ないなんてことは──ありませんよね、侍従殿?」
「なんと……」
「最近は騎士団に書面無しでの依頼を通されていると聞いていましてね。魔術師団ではそのような依頼を受けることがないよう、部下には改めて周知したところだったのですよ。口頭でのご命令通りに魔法を行使しても、残る書面が無ければ魔術師が全責任を負うことになる。そのような危険な状態で、うちの魔術師たちに魔法を行使させることは出来ません。その辺りのこと、あなたも事情はよくよくお分かりでしょう、侍従殿?」
「なんと……浅はかな。殿下からの内密なご命令ですよ。緊急時と同等に扱えばよろしいのです」
「それを判断するのはこちらですよ、侍従殿。魔術師団は、侍従殿からただいまお聞きしました内容では、緊急の対応が必要とは考えません。規定通りに依頼書を発行してください。確認後に対応するか否かも含め、返答します」
王太子の侍従チェイス・グレートレスから笑顔が消えた。
「フォッシルの五男如きが」
それは大きな怒声ではなく、静かにゆるく落ち行く声だった。
「運良く魔術師団の副団長になれたからと、あまりに気が大きくなっているのではないか?これは偉大なる殿下のご命令ぞ。フォッシルの五男如きが、ここで私に意見する立場にあると、いつ気を違えた?」
ひやりと急に室温が冷えたように感じて、カシアは慌てて部屋の奥を見た。
「聞き捨てなりませんね。今、なんと仰いました?如き?」
発せられた冷たい声と共に、急激な勢いで室内によく知る魔力が溢れ、一段と部屋が冷えていく。
明らかに怒りを含んだそれに、動揺を示す者はカシアばかり。
「イース団長。落ち着いてください。私は気にしません」
「私が気にするのですよ、カシア。そこの。侍従でしたか?うちのカシアがなんですって?」
「私も気になるな、王太子殿下の侍従殿よ。フォッシル魔術師副団長には、私もよくよく世話になっていてな?」
フライアまでその身体から強く熱い魔力を漂わせ始めた。
奇しくもイースとフライアの二人の魔力が相殺し合い、部屋の温度が適温に戻っていったことは、カシアには幸いだった。
それでもカシアは願う。
いやいや、待ってくれ。
予定外なイースとフライアの言動に、読めないものは仕方がないと、部屋の隅の柱の方角を見てみれば。
クロイは柱の影からひょいと顔を出し、カシアに向かい深く頷いたのである。
いやいやいや、待ってくれ。
その頷きはなんだ?
世話焼きのカシアでも、クロイと以心伝心の仲になるには、相当な時間が必要になりそうだ。
目指すエリーのところははるか高い頂きで、遠く続く道のりが見えたカシアは、一人途方に暮れる。
「お答えいただけますか、侍従殿?」
「黙っていても分からぬぞ、侍従殿よ」
今にも魔法と魔剣で襲い掛かりそうな勢いで魔力を放ち続けるイースとフライアは、怒りの元に完全に意気投合していた。
もうカシアには、この場をどう収めるべきか、最適解は見えない。
クロイはまず観察したいと言ったから、適度に時間を稼ぐつもりだった。
無礼な態度に怒って部屋を出て行けば、それも良しと、少々小狡いことも考えたカシアへの罰だろうか。
結局詳しい事情は分からないにしても、王太子との揉め事ともなれば、カシアも素直に協力はし難かったのだ。
それでもクロイに協力すると言えたのは、大きな問題になる前にクロイが彼らの記憶を消すだろうと期待したからであって、カシアには貴族としての抵抗感がまだ残っている。
貴族の子は、王家に忠誠を誓うように育てられるものだ。
カシアは自分が高い忠誠心を持っていないことは自負していたが、今日のことで意外に自分が内なる忠義心を残していたことに驚いた。
それが──
「灰色の。嘘を吐いた。カシアはいいやつ」
クロイの声を聴いたとき、辛うじてカシアは立ち姿勢で貴族らしい笑みを保っていたが、心の中では頭を押さえて蹲りたい気持ちでいっぱいだった。
「なんと!」
侍従チェイス・グレートレスの、その大きくはない目が最大まで見開かれた。
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