54.王太子の侍従チェイス・グレートレス
魔塔にたびたび現れる王太子の侍従は、その名をチェイス・グレートレスという。
グレートレス侯爵家現当主の弟で、カシアよりは一つ年上の三十二歳、つまりイースやフライア、そしてチェイス・グレートレスの主君である王太子より四つ年上の男だった。
カシアはチェイス・グレートレスと幼い頃に知り合い、その素性はずっと以前から把握していた。
ただし特別親しくした記憶はない。むしろ当時は仲が悪かったと言えるだろうか。
カシアが悪く付き合っていたわけではなく、彼らがカシアをよく思わなかった過去がある。
今の彼らがカシアをどう思っているか。
当時出会った同年代の子どもたちと親密な付き合いを続けなかったカシアは、今となっては彼らの心の内を想像も出来ない。
ただひとつ、王太子の侍従としてチェイス・グレートレスが魔術師団に顔を出すようになったとき、カシアは意外だなという感想を持った。
チェイス・グレートレスが他の主君に仕えているものだとばかり思っていたからである。
チェイス・グレートレスは、約束した時間を少し過ぎてから、魔塔に現れた。
毎度この侍従は遅刻という程の時間ではない微々たる遅れを見せる。
それが今もこの男が幼少期から変わらぬ性格を保持している証明のように、カシアは受け止めてきた。
魔法で訪問の連絡を受けたカシアは、同じく魔法で部下に指示を出し、すると新人の魔術師が案内役をして、チェイス・グレートレスがカシアの部屋までやって来た。
『魔術師がこれほどいるのに歩かされるとは……』
毎回新人に対し同じ台詞を吐いているそうだが、無視していいとカシアはすべての部下に伝えている。
正式な命令なく他者のために無駄に魔力を消費する必要はないというのは、長く続く魔塔の教えであるからだ。
おそらく今日もそれで機嫌が悪いのだろう。
五階まで魔塔の中央階段を使い、額に汗を滲ませて、呼吸を乱して、侍従は口角を下げた状態でカシアの部屋に入ってきた。
王城務めの文官の中でも上位であることを示す上等な漆黒の制服に身を包んで、身のこなしも丁寧に美しく、立ち上がって出迎えたカシアを見れば、仕方がないように貴族らしい笑みを浮かべる。
そして通例通りの挨拶を交わしている途中で、チェイス・グレートレスは部屋の様子がいつもと異なることに気が付いた。
なるほど、察知する能力に優れていない男だったか。
その魔力が少ないことは以前から認知済みであるカシアは、チェイス・グレートレスが一般的な人間としても人の気配に疎いことを悟った。
王太子の侍従ともなれば、主君を守る程度の剣術や護身術を身に着けているだろうと思われたが、案外と身体を鍛えるようなことはして来なかったのかもしれない。
その証拠に、まだ息は乱れていたし、制服の上からでも分かるほどにひょろひょろと痩せた身体には、筋肉が付いているようには見えなかった。
「これはこれは……魔術師団長と第三騎士団長がお揃いで」
これはどういうことか?
説明を求め訴えてくるその視線を受け流して、カシアは微笑した。
「予定より前の打ち合わせが長引いておりまして。またこの後に打ち合わせを継続することになりましたので。エリスロース第三騎士団長には、うちの団長としばしこちらでお寛ぎいただいてお待ちいただくことになりました。侍従殿からご連絡をいただけたのも、今朝でしたから。予定の調整がどうしても難しく──」
「なんと……」
無礼な。
その言葉は呑み込んだ男の唇が、やけに乾燥していることに、カシアはここで気が付いた。
気にして見れば、汗が引いた肌は全体的にかさついていて、目の下には深いクマが出来ている。
艶のない灰色の髪も相まって、チェイス・グレートレスからはとても疲れた印象を受けた。
王太子の侍従という仕事は、それほどに忙しいのだろうか。
カシアの部屋の奥では、いつものテーブルで、いつもとは位置を変えて、向かい合う形で座ったイースとフライアが、優雅に紅茶を味わっているところで、いつものカシアならチェイス・グレートレスにも同じ紅茶を勧めていたかもしれない。
しかし今日のカシアは違った。
何事もなく終わるなら、カシアとしてはそれが一番良かったからだ。
もうそれは叶わないだろうことも、カシアは分かっているけれど。
無駄な抵抗ではないが、すべてを早く終わらせたくて。
今日のカシアは誰にも余計な世話を焼くつもりがない。
出来れば何事もなく早く帰ってくれないか。
だからカシアは、座るように告げることもなく言ったのだ。
「依頼書であれば、今ここで受け取ります。ご内密なお話が必要でしたら、隠蔽魔法を使いますので、あちらの二人についてはお気にならさず。こちらでお話しいただいて構いません。どうされます?」
いつもとはあまりに違うカシアの態度に、チェイス・グレートレスの保有する魔力が揺れた。
さて……どう出る?
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