52.爽やかな朝と嫌な予感
美味しそうなパンの香りはしない。
だからこれは夢だとカシアには分かっていた。
『分からない。分からないのよ』
悲痛に歪むエリーの顔。
次に出て来る言葉をカシアは知っている。
『三度よ。クロイの服に血が付いていたわ。それだけのことよ……けれど、おかしいでしょう?』
そうだとも、おかしい。
同意したくとも、カシアは声を発することが出来ない。
『クロイは誰かに怪我をさせるようなことをしないわ。私には分かるのよ』
短い付き合いでも、カシアもそうだと分かった。
『いつもの黒い服で、色は分かりにくかったわよ。でもあの香りは間違いないわ。だからあの血は……』
『もちろん見つけるたびに確認したわ。全身洗って見逃さないようにしたわよ。クロイの身体はどこにも何もなかったわ』
たとえ怪我をしたところで、クロイはすぐにポーションを使い治してしまうだろう。
魔法使いだ。あまり心配することもない。
エリーを励ます声も今のカシアには出せなかった。
『聞いたわ。何も教えてくれないのよ。あの子は変なところで頑固だから』
涙を浮かべたエリーが目のまえから消えると、カシアは闇の中にあった。
光がない。音がない。香りがない。温度も湿度もない。何にも触れられない。自分の生体反応すら感知しない。何の魔力もない。
何かを見ているか、それも分からない闇の中。
この場所に恐怖を感じずに居られるのも、カシアが夢を見ていると知っているから。
これは体験したものを繋ぎ合わせ創生した夢だ。
疲れているのか、カシアは最近同じ夢を繰り返し見ていた。
それだけエリーの発言を気にしているということだろうか。
闇は急に終わった。
瞼の向こうに光が溢れ、耳に届く無数の音に、爽やかな朝の香りが起床を急かして、毛布に包まれた心地好い温もりはまだ微睡みを求める、その葛藤の末にカシアが目を開けば、見慣れた天井が視界に入った。
不思議と全身に魔力と活力が満ちていて、前夜までの仕事の疲れは感じない。
ポーションを飲んだわけでもないのに、最近のカシアは心身ともに頗る調子が良かった。
今日も研究が一段と進む予感は、起き上がったカシアの身支度を急がせる。
いい朝だった。
雲一つない快晴の下、小鳥がよく囀っている。
いつもより気分良く魔塔に出勤したカシアが、さぁ今日も張り切って研究するぞというときだった。
面会希望の先触れが入ったのは。
それも二件。
重ならないように対処したいところだが、一人はまもなく到着するだろう。
ならば二件目を調整せねば──。
頭の中で今日の予定を調整しながら、カシアは顔も知らぬ騎士の存在を思い出していた。
通常王国内の諸機関では連絡に魔法が用いられているところ、第三騎士団は緊急時以外の連絡用としてあえて伝令役の騎士を置く。
先日と同じ騎士ならば、朝から大変な想いをしたのではないか。
カシアはよく知らぬ騎士を憂いたが、それも短い時間で終わり、他部門のこととしてすぐにカシアは割り切ることにした。
そもそもこちらから呼んだわけでもないし、カシアに騎士に対する責任はなかろう。
「動きがあったということでしょうか、カシア?」
「同日というのは気になりますね。こちらに関しては、よくぞここまで魔塔に接触してこなかったものだと思いますが」
魔法で二階の事務所から部屋まで届けられた書状をカシアが指で摘まみひらひらと揺らして見せれば、朝から珍しくカシアの部屋にいる上官は、貴族らしく微笑を浮かべて言った。
「おかしいことが続いておりますからね。直接お話を伺いたいと思っておりました。ちょうどいい機会ですから私も同席しましょう」
カシアの顔色が陰った。
せっかくのいい朝を過ごしてきたのに、唐突にとても嫌な予感がしたのだ。
「イース団長。今日は通例通り応接室を使いましょう」
魔塔にも面会用の部屋はある。
それも複数あった。
どの部屋も防音遮音の魔法が掛けられているから、盗聴の心配もない。
それなのに、上官は裏の意図なく笑顔で言った。
「内密なお話をするのに、この部屋以上に最適な場所はこの魔塔にはありません。そうでしょう、カシア?」
「私の部屋は、私個人の研究室なのですが?それにその条件ですと、イース団長のお部屋でも構わないということになりますね?」
カシアは自宅で朝食を済ませているのに、どうしてかここしばらくはカシアの部屋で朝食を取りたがる上官は、今朝も美しい所作でカシアが用意した朝食を食べ終えて、今は紅茶を優雅に味わっている最中だった。
そんな暇をしているはずの上官が、急に聴こえない振りをする。
しかしカシアは、その振りに乗ってやらなかった。
「イース団長。お部屋の片付けの進捗はいかがです?」
「朝から気にするところではありませんよ、カシア。それよりまだ面会まで時間はありますし、昨日の続きをしま──「頼もう!!!」」
魔塔の外から叫び声がした。
カシアははぁっと強めに息を吐いてから、上官に囁く。
「イース団長。どうせ今日も私の部屋をお使いでしょうから、それはいいです。今朝はお迎えして来てくださいませんか?」
「嫌ですよ、カシア。朝からエリスロース嬢と決闘したくはありません」
会えば戦いを挑まれる認識は持っていたのか。
カシアは上官を変に感心した目で見てしまったから。
「なんです、カシア?そのような顔をして?」
「エリスロース第三騎士団長とは、仲がよろしかったのだなぁと思いまして」
イースとフライアは、おそらく幼馴染と呼べる仲だ。
王太子と同年代の高位貴族家の子どもとして、一時期は王城に通っていたはずだから。
かつてカシアがそうであったように──。
カシアにはその頃にいい思い出がほとんど残されてはいないけれど。
この二人は違ったのかもしれない。
「何を言うのですか、カシア。彼女とは仲良くした記憶がありませんよ」
おや?とまた新たな気付きに、カシアは眉を上げていた。
イースはフライア・エリスロースという人に、まったく興味がないものと思っていたが。
もしや苦手なのだろうか?
それで関わらないようにあえて素っ気なく接してきた?
しかし今まで見てきたあの態度は、素のままのイースだったようにも思える。
カシアは答えが分からず、朝から美しい容姿を誇る上官を見詰めてしまった。
そういえば毎日シャワーを浴びるという目標だけは、達成している。
部屋はともかく、カシアはしばらく上官の汚らしい姿を見ていない。
以前クロイの魔道具を確認中に、毎日シャワーを浴びたくない気持ちが分かると同意していたことは気に掛かっているが。
また妙な魔法を生み出し、シャワーを避けていることはないだろうか?
カシアも魔法で身を綺麗に出来なくはないが、人間らしくいるためにシャワーを浴びる習慣は続けている。
上官にもその程度に人間らしい習慣を保持して欲しいところだが。
「カシアも幼少期に彼女と付き合っていれば分かりますよ。幼い頃のエリスロース嬢ときたら──」
バーンと扉が開き、「何故誰も迎えに出て来ない!」という声と共に、濃紺色の制服を着た女性騎士がそこに立っていた。
いや、だから。
他人の部屋を訪問する際には、ノックをして、返事を待って、それから……。
そもそも魔塔を案内役なく自由に歩くこともどうなのだ……。
本当に貴族令嬢だよな?
疑いの目でカシアはフライア・エリスロースを眺めるが、何を勘違いされたか、朝から豪快に笑われたのだった。
扉が壊れなかっただけ良しとすべきか。
「珍しく揃っているではないか!今朝はとてもいい朝だ!外は気持ちよく晴れているぞ!部屋に籠っていては勿体ない。どうだ、二人揃って私と手合せしてみないか!演習場に向かおうではないか!」
「「丁重にお断りします」」
奇跡的に魔術師団の団長と副団長の声が揃った。
本当に天変地異の前触れかもしれない。
読んでくださいまして、ありがとうございます♡




