40.その想いに名を付けるなら
「笑いごとかよ、キィト兄。いつもクロイに同じことを言われてんじゃねぇか。それって何にも変わってねぇってことじゃねぇのかよ!」
「前よりは上手くなったと思うぞー。そうだよなー、クロイ?」
「少し」
「ははは。ほらなー、少しは良くなってるんだよー」
「だから笑ってんじゃねぇよ、キィト兄!クロイに飲ませるのは、今度こそ成功してからにしてくれよな!クロイ、大丈夫か?──おかわりだな?任せろ、俺が美味い茶を淹れてやるぜ!」
ぴょんと跳ねて、一瞬だけカシアの目に少年の頭が映った。
それから少年は家を回るようにして裏手へと走り去る。
その駆けていく小さな背にのんびりとした声が掛けられた。
「あー、ライー。俺の分も頼むぞー」
「ライ、聞いていない。言うか?」
「あー、いいよー。クロイの分を少し貰うなー。それは出来たかー?」
聞いている方の気が抜けるくらいに、ゆったりのんびり話す男だった。
「見るか?」
「んー、俺は怒られたくはないなー」
「問題ない。私はすごい」
「クロイがそう言うときは、だいたい失敗──ん?」
今度はクロイの頭がひょこりと草から伸びた。
振り返ったクロイの淡い紫色の瞳が、カシアたちを捉える。
男も合わせて振り返っていた。
なのに男の手は、まだクロイの頭を撫で回している。
若い男だった。
カシアは彼を成人前後と予測した。
「話、終わったか?」
カシアはここで安堵出来た。
エリーの希望を何でも叶えてしまうクロイが、エリーの最も悲しむことをするとは思えなかったからだ。
きっと上手くいく。
カシアには珍しく楽観的な思考に満たされ、カシアは人知れず息を吐いていた。
そのときである。
さーっと急に前へと駆け出し、道から外れ、草むらを掻き分けてクロイの元へと向かったイースが、カシアが唖然としている間に、クロイの前に立つと、草の中に沈んでしまった。
声だけがカシアの耳に届くようになる。
生体反応で上官がクロイの前で跪いていることには気付いていたが、カシアはあえて気付いた瞬間からイースの何もかもを読まないようにと意識を遠くへ外した。
魔法で耳も塞いでしまおうか。カシアは考えたが、前回訪問時には上官のせいで予期せぬことが起こって少々魔法を使ってしまったものの、この場所ではまだ勝手に魔法を使っては良くないような気がして、それは控えた。
そうこうしているうち、嫌でもカシアの耳に上官の声が届いてしまう。
「お久しぶりですね、クロイ。とてもお会いしたかったです」
悲しいかな、読まないと決めても感知してしまうのが魔術師というもの。
見ないと決めた個体に対し、ここまで近付くまで反応を示さなかったクロイが、魔法使いとして異質なのである。
カシアはいくら遠くに意識を飛ばしても、上官の動きを察知せずに済ますことは出来なかった。
イースの手がクロイの手を取ったとき、カシアは目を瞠る。
何をしているんですか、イース団長?
それがカシアの心の内にある叫び声で終われたのは、クロイが驚いた反応も、嫌悪する反応も、見せなかったから。
そしてもうひとつ──クロイに向けて揺れたイースの魔力が、尊敬や崇拝とは異なり、その想いを抱いた多くの者が示す揺れ方と、とてもよく一致していることに気付いたから。
カシアの動揺は大きく、声を発する力を奪った。
イース団長は──。
事実に近付き、カシアは息を呑む。
「まだ怖いか?」
「えぇ、恥ずかしながらそうなのです。ですからどうか、今日もクロイの美しいこのお手をお借りしたい」
カシアには上官が何を言っているかは分からなかったが、クロイの手を取る上官の心が幸せに満ちていることはその魔力からよく理解した。
しかしここでイースの魔力に局所的な変化が起こる。
クロイではない方向に一部が伸びて、それもクロイに向けているそれとは異なる形で、大きく揺れ始めたのだ。
この揺れ方もまた、カシアは多くの者から見てきた。
魔力量が桁違いに多くとも変わらないものがある。
それをカシアは、今はじめて学ぶことになった。
心配したカシアが若い男を見てみれば、男はイースが登場してもなお、クロイの頭を撫で続けていて、イースの威圧的な魔力に恐怖している様子もない。
ここまで落ち着いていられるのは、やはりクロイが隣にいるからだろうか。
「迎えに来たのですよ、クロイ。クロイとお話しがしたく、エリーさんが家でお待ちです。ご一緒にお戻りいただけますか?」
「運ぶか?」
「それはとても魅力的なお誘いですが。今は二人で共に歩いて向かいませんか?」
イースがクロイの魔法を断ったとき。
カシアはもうイースが、クロイに抱く感情がそれであることを否定出来なくなった。
変人の魔術師団長は、恋に落ちている──。
しかし二人でとは?
完全にこの場にいるカシアとフライアの存在を消した上官に、カシアは渋い顔を向けてしまった。
隣ではフライアもまた、呆れた様子で腰に手を当てて、「なぁ、フォッシル副団長よ。ここは私が怒った方がいいと思うか?」などとカシアに向け囁いている。
先日の暴走を間近で見ていれば、様子のおかしなイース・アバランには、積極的に関わりたくなかったのかもしれない。
そうならば、カシアも同意だ。
カシアはこの場は何もせず戻ろうと提案し、フライアと共に来た道を歩き出した。
カシアの背では、男が「へー」と感心するような声を出していたが。
側にいるイースにも挨拶をする気はないようで、「クロイー、またあとでなー」と伝えると、少年が消えた方に歩いて行った。
歩き方ものんびりした男だった。
離れて少しすると、元気な叫び声がカシアの耳に届く。
「クロイ!茶が要らねぇならそう言っていけよな!おい、キィト兄!勝手に飲むなよ!クロイが飲まないなら俺が自分で飲もうと思ってたのによ!あぁ、クロイ!着替えないと──エリーがするか。はぁぁ。ったく。キィト兄もクロイも、もう大人なのに、なんでこんなに手が掛かるんだよ?だから俺は出て行けねぇんだって」
朗らかな笑い声が聴こえて、また怒鳴る少年の声もだんだんと小さくなっていき、やがてカシアたちの耳には石造りの家の側からは何の音も届かなくなっていた。
高い位置から、広場とそれを囲い建つ家々を眺めれば。
結界に守られたこの場所の美しさは一層と際立ち、それは並んで歩くフライアが「美しい」と声に漏らすほどで。
誰もここを去ることはない。
その想いと共に、カシアは別の想いを抱く。
この場所を守るべきではなかろうか。
たとえこの地が、王領でもある王都の一地域だとして──。
カシアは眼下に広がる幻想世界のように美しい一帯を、どうにかして守りたいと願った。
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