34.初体験
どくどくと心臓が激しく脈打っている。
恐怖ではなかった。
いいや、カシアは絶対に怖くなかったとまでは言わない。
けれどそれよりも興奮していた。
これが闇魔法──。
無音の暗闇の中に放り込まれたほんの一瞬の時間が、悠久の時の流れに身を置いたように感じた。
魔術師は常に人より多くのものを感知して生きている。
だから何も感知せずに済むその空間が、存外に心地好くて、カシアは見覚えのある部屋の中で立っていたとき、もう終わってしまったのだと酷くがっかりしたのである。
窓から陽が差し込みほどほどに明るい室内。パンの焼けた香り。遠く子どもたちの声。そこに混じる雑音。近くにも遠くにも様々に質の異なる無数の魔力。
当たり前にいつも側にあるそれらが急にうるさく感じて、カシアは今しばらく静寂の中に身を置いてみたいと願った。
そんな自分の落胆と願望に驚きながら──探した人はそこにおらず、どこか困ったような笑顔を見せてカシアを迎えたのはエリーである。
「驚いたでしょう?事前に伝えてから連れて来なさいと強く言っておいたのだけれど。クロイは出来ていたかしら?」
「確かに先日迎えに来てくださることはお伝えいただきました。エリーさんのおかげだったのですね」
「つまり今日は急に連れて来られたのね?クロイが悪かったと謝るわ。驚かせてごめんなさい」
カシアの部屋のいつものテーブルを囲んで、イースとフライアがまるでもうここが自室のような顔をして寛いで話していたのは、ほんの少し前のこと。
カシアとしても当然また声が掛かるか、本人が現れてから、運ばれるものだと思っていたのだが。
エリーが懸念していたように、それは突然だった。
気が付いたらカシアは闇の中にあって、そして気が付いたらカシアはエリーの家の中に立っていた。
共に運ばれたはずの二人もまた、もうすでに同じ部屋の中にいる。
闇の中ではまったく二人の存在も感じなかったから、カシアには同時か順にか運ばれ方も定められないけれど──。
同室にあり側に並び立つ二人の様子がとてもおかしい。
イースは無言で両眼からぼろぼろと涙を流した。
フライアは「おぉおぉぉ」とその口から大きくはないが不思議な音を漏らしている。
どちらもたった今経験したことに感動していると思っていいのだろうか?
団長職に就く人間は感動の仕方も独特なのだな、とカシアは新しく要らぬ知識を学んだ。
「エリーさんが謝ることはありませんよ。それよりこちらこそ申し訳ありません。様子のおかしいそちらの二人のことは、どうか気にしないでいただければと」
「……大丈夫なのよね?」
「……おそらくは。あぁ、危害を加えるということはさせませんので、ご安心ください」
「そんな心配はしていないわよ。まぁ、いいわ。座ってちょうだい、カシアさん。ちょうどパンが焼けたところなのよ。食べながら話しましょう」
「クロイ!クロイはどちらです?」
急に復活した上官が騒ぎ出した。
先にその頬を伝う涙の筋を拭いてくれとカシアは願った。
他人の家で上官はなんて顔を晒しているのだろう。
「私はクロイとパンを食べる約束をしているのですよ!エリーさん、クロイはこちらにいらっしゃらないのですか?」
「イース団長。まずはご挨拶を──失礼。私もまだでしたね。お久しぶりです、エリーさん。本日はまた突然に訪問することになりまして。こうして急に部屋の中へと訪れてしまい──」
「いいわよ、クロイがしたことだもの。イースさん、クロイと会うのは後にしてくれないかしら?今はクロイなしで話したいのよ」
「クロイとはあとで会えるのか!いやぁ、凄かった。是非とも感想を伝えたい!あぁ、すまない。急に邪魔をした。君とも一度会っていたな。改めて名乗ろう。フライア・エリスロースという。まぁ、そうだな……私のこともフライアと呼んでくれ」
貴族としての慣習があり、名をどう呼ばせるかでフライアが一瞬迷ったことを、同じく貴族であるからこそカシアは窺えた。
こちらも復活を果たしたようで良かったと、カシアはそうも思っていたが……。
「フライアさんね。私はエリーよ」
「エリー嬢だな。先日は君から多くの教えを頂いたこと、礼を言う。クロイからもよく話は聞いているぞ。あぁ、先日いただいたパンも君が焼いたと聞いた。美味しかった。それも礼を言う」
フライアはよく喋った。
まだ興奮しているのかもしれないと、カシアは感じる。
「貴族でないもの。ただエリーと呼んでいいわ」
「そうか、ならばエリー。これからよろしく頼む」
フライアが手を差し出したとき、エリーが一瞬眉を寄せたところを、カシアは見逃さなかった。
「えぇ、よろしく。フライアさん。イースさんもまずは座って。お茶も出すわ」
フライアとエリーが握手を交わし、その後全員が席に座ったところで、カシアは気が付いた。
「あ──用意しておいたものを部屋に置いてきてしまいました。クロイさん、もしよろしければ、私の部屋の──「クロイは聞いていないわよ」え?」
言葉を遮られて、カシアは自分が自然に何もない空間に向かって声を掛けていたことを知り驚き。
そしてエリーの顔を見て、表情を消してしまった。
感情の読めない瞳で、真直ぐにカシアを見詰めたエリーのその唇が動く。
「今この場所を、クロイは見ないし、聞かないわ。そういう約束なの──」
少しでも間違えてはならない時間が始まる。
カシアはエリーと視線を合わせながら、どうしてかそんなことを考えた。
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