29.秘密の夜と目覚めのあとで ☆
「一人だったのか?」
歪む眉に、細められた瞳に、これほど惹き付けられたことがイースはない。
イースは真直ぐに淡い紫色の瞳を見詰め返して、忘れられない記憶を自分の意思で呼び起こしていった。
「私のように強過ぎる魔力を持つ者は、幼いうちに強制的に訓練し、魔力を制御出来るようにするのです」
光もない。音もない。香りもない。
水も食事も与えられず、なのに渇きも空腹も感じなかった。
毛布も絨毯もなく、床が冷たいかどうかも分からない。
イースはある期間、五感を封じられた密室の中で過ごした。
壁に床に天井に防御魔法が何重にも掛けられた部屋だった。
幼子を強制的にパニック状態に陥らせ、魔力を暴走させて、制御をその身に覚えさせる。
あの部屋を無事に出て来られる子どもが稀であることを知ったのは、イースがその部屋を出てしばらく成長したあとのことだった。
イースもはたして無事に出て来られたと言っていいのか。
それはイース自身にも今も分からないこと。
人々は生きているだけ幸運だと口を揃え言うだろう。
その強い魔力を保持し、なお生きられる、神に恵まれし強運を、何故喜ばぬのかと憤る者もある。
そうは言われても、当事者であるイースに理解は難しかった。
あの部屋を出たあとの自分がもう以前の自分とは変わってしまったことを、イースは誰より知っているし、あの部屋に入る前の自分にはもう戻れないことも分かっていた。
それははたして幸運だろうか?
以前と違い、周囲は優しく変化して、積極的に声を掛け、近付いてくるようになる。
イースはそれを喜べなかった。
もう二度と人間とは分かり合えない気がした。
それからというもの、イースは魔法に没頭した。
気が付けば魔術師になって、魔術師団に所属して、団長にまでなっていた。
そこに思想はなかった。
何のためにそうしたか、イースは理解していないし、理解しようとも思わない。
ただ魔法だけはイースの人生において、ずっと側にあったから──。
「五感奪う。私と同じ」
そのクロイの言葉を聞いたとき。
身体ごと飛び上がらんばかりに、イースの胸は跳ねた。
それはイースが自然に胸を手で押さえてしまうくらいの衝撃だった。
胸を押さえながら、イースは一気に目のまえが広く開けたように感じた。
室内に灯る魔法のランプに変化は生じていないのに、イースの目には急に世界が明るくなったように映る。
キラキラと……今日は残滓すらイースの目に映さないというのに。
あの場所で見た美しい魔力の無数の欠片が、今まさにクロイの周囲に舞って輝いているように思えた。
「クロイの魔法と同じですか?」
イースの喉から出て来たのは、また震える声だった。
それを今の興奮しているイースは、気に留めることも出来ない。
「とても不評。皆、はじめては泣く。次も泣く。次は色々。そのうち叫ぶ。怒る」
単調な声色に不機嫌さが滲んだ。
イースは声を上げて笑った。
目尻から水分が出て来たのは、愉快だからだと信じている。
「今度私を運んでくださいませんか?」
「泣かないか?」
「ないとは言い切れませんね。嬉しくて泣くことがあるかもしれません」
暗闇が、無音が、無臭が、何も感じない空間が、流れのない時間が。
イースの中で素晴らしいものへと変わるだろう。
イースはその予感に踊る心を止められない。
別の方向に魔力を暴走させてしまうのではないかと、自身で心配するくらいに全身に巡る魔力が喜びに震えていた──。
「イース、変なやつ」
「変なやつはお嫌いですか?」
クロイがふるふると首を振れば。
イースはこの世から嫌なものが一つ残らず消えた気がした。
恐れるものもなくなれば、自信も溢れる。
イースは図々しくも、カシアの部屋を好きに使いはじめた。
クロイを誘い、昼間過ごした隣室に戻って、棚から皿やカップを取り出し、食品庫を漁って、飲み物も調達、クロイと共に夜食を取りながら、楽しく話した。
昼間に残したパンがまだテーブルに置いてあったのは、カシアからの気遣いとして受け取り、二人で分けた。
二脚の椅子を近付けて、隣に並べば、イースの中で前日の昼間の記憶すら塗り替わっていく。
「焼き立てが一番」
「えぇ、昼間は食べられなくて申し訳なかったです。ですが、ほら。温かくなりましたよ」
「いい魔法!」
喜んでパンにかぶり付くクロイを見ているだけで、危うくイースはお腹をいっぱいに満たしてしまうところだったけれど。
今度こそ共にパンを食べ、美味しいと告げれば、クロイはとても嬉しそうな笑顔を見せた。
あぁ、なんだ。そうだったのか。
思い至ればイースの心に平穏が訪れる。
「とても美味しかったので、エリーさんにまた食べたいと伝えてくださいますか?」
「エリー、寝てる」
イースはここでひとつ学んだ。
クロイ相手に言葉選びを間違えると、二人きりの素敵な時間がたちまち終わるという事実である。
だから念には念を入れて、しつこいまでに同じ意味の言葉を口にした。
「お戻りになられてから、それからエリーさんが起きているときで構いません。私からのお礼はあとでお伝えくださいますか?とても美味しかったこと、それからよろしければまたクロイと一緒に二人でいただきたいと思っていること。お代も払いますよと。次にクロイがエリーさんとお会いするときに、お伝えください」
「気に入ったか!」
「えぇとても気に入りました。またクロイと共に食べたいです」
やがてすべてのパンを食べ終えてしまったとき。
クロイが帰ってしまうような気がして、イースの心は急速に寂しくなっていった。
それが顔に出ていたのだろうか。
「私がいる。イース。平気。怖がらない」
左手に重なったその手がとても温かくて、たった今抱いたはずの寂しい気持ちも、イースは思い出せなくなる。
人生には巻き戻らないものがあるということを、イースはその経験からよく知っているから。
「もう少し甘えていてもいいでしょうか、クロイ?このまま手を繋いでいてくださいますか?また同じようになっても、あなたがこの手で救ってくださると、分かっておきたいのです」
クロイに甘える快楽の湯水にもう両足を浸けてしまったこの瞬間に、イースは自分が溺れる未来を見た。
それから二人は手を繋いだまま、長く話した。
それは夜が明けようという頃まで続いたはず。
日の出からしばらくしてカシアの部屋のベッドで目覚めたとき、イースはクロイと二人で過ごした時間を夢だとは思わなかった。
隣室に移動すると部屋は何もなかったように片付いていて、テーブルの上に置いてあったパンだけが消えていた。
クロイがどうして去っていったか。
自分がいつベッドに移動して眠りに落ちたか。
イースはどうしても思い出せないが、満ち足りた心はすべてが現実だったと説明する。
窓を開けた。
まだ朝焼け残る空は、今日がいい天気になる予感を告げる。
鳥の鳴く声に耳を澄ませて、目を閉じたイースは、冷えて澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
「おはようございます、クロイ。おかげさまで素晴らしい朝になりました」
伝えたい相手にこの声が届いていることを、イースは信じた。
読んでくださいまして、ありがとうございます♡




