26.気付けなかった異変
上官の冷たい声を無視すべきではなかった。
カシアがそう気付くまで、それほどに時間は掛からなかった。
「つまり、先日見た黒猫は魔法以外の物理攻撃の対策をしておらず、今回の灰色の猫ではそれを採用したので、エリスロース第三騎士団長にその効果を試して欲しかったということですね」
カシアが語る隣で、クロイはにこにこと笑っていた。
誰が見ても機嫌が良く、こんなに笑顔が見られる女性だったのかとカシアだって驚いている。
どうしてだろう?──カシアは疑問を抱きながら、クロイの足りない発言に言葉を足して状況を整理していった。
「ところがエリスロース第三騎士団長の剣捌きはあまりに早く、灰色の猫が防御機能を起動する前に切られてしまった。次の試作品作成のため、エリスロース第三騎士団長に本気の剣捌きを見せて欲しいとお願いしていたのですね?先日は背中を向けていて、よく見られなかったということでしたか」
「ふむ、おかげで状況は理解した。すまなかったな、クロイ。はじめはもう少し手加減しておけば良かった」
「いい。改良する」
「あぁ、次を楽しみにしているぞ。この私の本気の剣も後で見せてやろう」
「フライア。いいやつ」
「そうとも。私はとてもいいやつだ。仲良くしてくれ」
にこにこと笑いながら、パンを食べ、ソースたっぷりの肉を口に運び、果実水を飲み、またパンを食べ、今度はスープに手を出して、頷いたり、笑ったり、短い言葉を出しながら。
どの瞬間もクロイはとても楽しそうに見えていた。
本当に何故?──カシアはいつまで話していても分からなかった。
「フォッシル魔術師副団長もすまなかったな。床の修理代は払うからうちに回してくれ」
「いいですよ。今回は私個人の予算内で処理しておきます」
「それはならん。貴殿が他に使う予定の予算であろう?」
「部屋の修繕費は毎年多めに確保しているので大丈夫ですよ。私も時々していますからね」
「なに?フォッシル魔術師副団長でも床を壊すことがあるのか?」
「時々です」
軽快な笑い声が飛ぶ。
フライア・エリスロースの態度まで、今までとはどこか変わったように感じるカシアだった。
何故なのか──カシアは疑問を重ねる。
「カシア。これもっと」
「おかわりですね。すぐに頼みますが、届くまで時間は掛かります。ゆっくり食べましょうね。果実水もおかわりはありますよ。次は違う果実にしてみますか?」
「あぁ、いいな。私も貰ってもいいか、フォッシル魔術師副団長?」
前から横から女性たちに話し掛けられて、カシアは忙しかった。
一体何故──カシアはさらに疑問を足す。
懐かれてしまった気がする。
特にクロイ。
食事を与えたことが良かったのだろうか。
しかし食べものならば、先日イースが手土産として菓子を渡していたはず。
甘い菓子はお気に召さなかったのだろうか。
「カシア。このパンも」
「こちらも美味しそうですね。有難く頂きます──これもとても美味しいですね」
カシアが横からパンを勧められるのはもう三度目。
どうしてかクロイは、カシアの前の席に座る二人にはパンを勧めないのである。
「イース団長もいかがです?エリーさんのパンは本当に美味しいですよ?」
カシアも気は使っていて、クロイにおすすめされたあとは、上官にも声を掛けているのだが。
イース・アバランは、カシアの前で萎れていた。
席に戻っては来たものの、イースはもう食事をする気分にはなれないようだ。
がっくりと肩を落とし、俯いて、それでも時々は顔を上げてクロイを見詰めている。
クロイに向けるその視線はちょっとどうかなとカシアは思っていたが、これをもっと深刻に受け止めておけば良かったと、カシアはまもなく後悔することになる。
カシアの声掛けを無視するイースは放置され、女性たちの会話は進んだ。
「しかしクロイはよく食べるな。まさか普段から満足に食べられぬような苦しい生活をしているわけではあるまいな?」
クロイが首を振ってから笑顔で言った。
「エリーのパン」
「うむ。このパンは本当に美味しいな。店を開けば人気になろう」
「エリーの夢」
「むっ。エリー嬢はパン屋を開く夢があるのか。その夢が叶ったら私にも教えてくれ。是非とも通いたい」
「魔道具売る」
「パン屋で魔道具も売るのか?」
「薬草茶も」
「面白い店になりそうだな……そんな店はありか、フォッシル魔術師副団長?」
「面白いとは思いますが……クロイさん、そのお店では接客に出られるのですか?」
カシアの問いに、はっとしたのはフライアだった。
クロイは頷き、そして笑った。
「カシア。魔法出して」
んん?魔法?
さすがに分からなくて、カシアは問う。
「私の魔法にも、何か確認したいことがありましたか?」
クロイが首を振ってから、また笑顔で言った。
「カシアの魔力、欲しい!」
「駄目です!!!」
その大きな声には、クロイも多少驚いたようである。
前に座るイースを見詰めしばし固まっていたが、やがて横を向き、カシアに聞いた。
「カシアの魔力、欲しい」
「駄目ですよ!駄目です!」
「カシア、答える」
「そうですね……目的を聞いてから決めてもよろしいですか?」
カシアが上官を無視してしまったのは、ここでまた全員が話し出せば、カシアにはこの場を収拾出来る気がしなかったからで、本当に上官を苦しめる意図はなかったのだ。
「擬態」
「擬態……つまり……」
カシアはクロイが伝えたいことを大分理解出来るようになっていた。
しかし今回は少しの考える時間が必要になる。
そうしてカシアが頭を悩ませている間に、イースが言った。
「そういうことでしたか。いえ、そういうことでしたら。なおさら私の魔力でよろしいでしょう、クロイ?」
イースに先を越されてしまったが、もうカシアも大体の予測を立てて、クロイの答えを待っていた。
クロイがイースではなくカシアと言った意味に……複雑な気持ちを抱いていたせいで、ここでもカシアは上官の異変に気付けなかったのだ。
「イース、いい。カシアの魔力、欲しい」
「そんなっ……」
ぶぉんと、実際に音がしたわけではないけれど。
カシアの全身に音が聴こえたように共鳴するほど室内の空気ががらりと変わったのは、そのときだった。
カシアだけではなく、フライアもまた慌ててイースを見ている。
イースの全身からゆらゆらと魔力が立ち昇っていた。
「どうして……どうしてですか?私はずっとクロイに会いたくて、苦しくて、どうにかなりそうだったのですよ?それなのにクロイは、どうして私ではなく、エリスロース嬢やカシアとばかり。私だけが……私だけが会いたかったということですか?私だけがこんなにも苦しくて……」
異変を直に感じていながらカシアが遅れを取った理由は、天才魔術師イース・アバランに今さらそのようなことが起きるわけがないと信じていたからだった。
おそらくイースの隣の席にいたフライア・エリスローズも、同じ考えを持ち、すぐには動かなかったのだろう。
カシアとフライアが同時に立ち上がったときには、もうクロイはテーブルに乗り上げていた。
小柄な彼女では、テーブル越しに前に座るイースにはいくら伸ばしても手が届かなかったからだ。
「イース。めっ!」
その掛け声がまた、カシア、フライアから焦りを奪い、またしても立った二人は遅れを取った。
しかしその気の抜ける掛け声は、上官をも正気に戻す力があったようだ。
「……申し訳ありません。私は部屋に戻ります」
そう声を絞り出し転移しようとしたイースの身体から、急激に大量の魔力が溢れる。
しかしカシアがまずいと思った次の瞬間には、その膨大な魔力が消えていた。
クロイは器用にもどの皿も踏まないようにしてテーブルに膝を突くと、イースの両手を掴んでいる。
もう大丈夫だと、カシアは分かって席に座った。
フライアも同じようにしていた。
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