2.不憫な男、魔術師団副団長カシア・フォッシル
大量の物のせいであるはずの窓も見えず、照明もなく、それでも昼間の陽光が注ぐように明るい室内は、この部屋の惨状を鮮明に映し出して、初めから良くないカシアの気分をより下げた。
「団長。仕事の依頼が入りましたから、出て来てください」
魔法の風で身を守っていても、最初の記憶がカシアの両腕に鳥肌を発生させた。
それでも逃げるわけにはいかないと、意を決してカシアは腐海へと足を踏み入れる。
腐海。
カシアは最初に訪問したときから、この部屋をそう称した。
常時物が多いこともあったが、主に漂う腐臭のせいだ。
特に綺麗好きでもないカシアにも、今すぐここから走り去り、シャワーを浴びたい衝動を与えてくる強く不快な悪臭は、一度嗅いだら到底忘れられるものではなくて。
どうして研究をしているだけで、こんな匂いを放つ部屋を創り出せるのだろう。
しかも本人は研究中にはまともに食事を取らない人間で、古い食事が積み重なっているわけでもない。
このカシアの疑問は何年経っても解決しないままだ。
カシアは容赦なく風の魔法を駆使し、まず自分の通り道を作った。
床からカシアの腰の高さまで積み重ねられた物々を、部屋の端の物溜まりの上へと移動して、また積み重ねていくだけの作業だ。
もっと若い頃にはこの部屋の物を整理整頓しようと考えたこともあったけれど、今ではカシアがそれを思い立つこともない。
無駄にしかならないからだ。
やがてカシアは奥の物溜まりの上に寝そべる人間らしき姿を見付けた。
「起きてください、団長。魔術師団イース・アバラン団長!仕事ですよ!起きなさい!」
どれだけ近くで怒鳴っても反応が返ってこないことを知っているカシアは、ここでも一切の迷いを見せず、眠る男に近付くと、その頬を決して優しくない力で叩いていった。
本能的に触れる面積を極小に、触れる時間を最短で済ませたいと思えば、カシアは指先で弾くようになって、パシパシパシパシと軽快な音が鳴る。
「……私は痛みを感じるのですよ、カシア?」
声に反応し手を止めたカシアは、素早く二歩下がって声の主から距離を取った。
寝転ぶ男の顔が横向きに変わって、ゆっくりと開く瞼の隙間から澄んだ青い瞳が現れると、それは確かにカシアを捉えたが、まだ焦点は合わないようだ。
「眠られているあなたの痛覚を疑ったことはありませんよ、イース団長。おはようございます」
「おはようございます、カシア。私にも痛みがあると分かっているのでしたら、出来れば優しく声を掛け、起こしていただきたかったものです」
「まだ寝ぼけているのですか?これくらいの刺激がなければ、あなたはいつまでも起きないでしょう」
「私だっていつかは起きます。それまで待つという選択肢は?」
「ありませんね。早く起きてください、団長。まだ叩かれたいのですか?」
はぁっと気怠く息を吐き、それでもなおイースは寝そべったままで言った。
「もう三月経ちましたか?時が過ぎるのは早いものです。しかし、カシア。起きたからには、私は忙しくなりました。よってあなたが私の代理となることをこの先永遠に許可しましょう」
カシアは距離を取ったまま、にっこりと微笑んだ。
「寝言は寝ているときにお願いします。あぁ、今は寝ないでくださいよ」
「私としましては、代理と言わず、カシアが団長になることが王国の最良だと思うのですが」
「いいえ、私に団長の代わりはとてもとても務まりません。団長にしか出来ない仕事がありますから、いますぐに起きて、シャワーを浴びて、お着替えをお願いします。今すぐにです」
カシアの口調が少しずつ荒くなっていく。
「シャワーは後でいいでしょう。納得していただけないのは残念ですが、では今日のところは団長として命じますから、すべてカシアにお任せということで──」
「イース団長!寝言はそこまでです!シャワーが後では私が良くありません!今のあなたの状態はこちらの目と鼻と精神にとてもよろしくない!さっさとその汚い身体を綺麗にしてきてください!その間にこの部屋は話せるように片付けておきますからね」
「風魔法を纏いながら、そんなに怒らなくても──。あぁ、駄目ですよ、カシア。その辺りは触らないでください。そちらもあまり触れられたくはありませんね。向こうは作り掛けの薬品が──あぁ、そちらに積んだ本を移動しましたね、カシア?そこには大事な──」
「イース・アバラン団長。この部屋を水浸しにしてもよろしいですか?」
低い声でそう言ったカシアの右手には、魔法で作った水球があった。
ようやくイースが身体を起こす。
「変わりませんねぇ、カシアは。お元気そうで何よりですが、水遊びはまたの機会にいたしましょう」
ぱちんと弾けて、カシアの手元の水球が消えた。カシアの意思はない。
尊敬の念を持ち上官を眺めたいカシアであったが……とにかく汚い。
脂なのか、使用した薬品か。
その起源は不明であるも、美形がべっとりと何かに濡れて絡まる白銀の髪を頭に下げて、やはり脂のようなもので不自然に光るその頬を指先でぽりぽりと掻いている様は、大変に大変に残念な姿だった。
イース・アバランは、一体何日シャワーを浴びていないのだろうか。
カシアは後悔するだけなので、疑問を抱いても、いつもその答えだけは予測しなかった。
「仕方がありませんねぇ。シャワーを浴びて来ましょうか」
「着替えもですよ!こちらに着替えてから戻って来てくださいね!」
すかさず布袋に入った清潔な魔術師団の制服を渡して、カシアは部屋の奥へと移動する上官を見送った。
ぷかりと急に身体を浮かべたイースは、座った姿勢の状態で、ゆるりゆるりと低空飛行し、物の山の上を移動していく。
これがどれだけ高度な魔法を使い実現されているのか、この状況で誰がそこに思い至ることが出来るだろう。
「本当に、残念な人だ」
イースの姿が見えなくなってから、先程イースがしたよりずっと大きく息を吐いて、カシアは一人愚痴る。
「だから管理官を雇えと言っているのに。希望する人間がどれだけいるか。あと少しでもまともに生きてくれたなら、私もこんな目には合わずに済むだろう。そもそも団長は──」
長く続けた愚痴の後、カシアは急に不安を覚える。
「意外にあっさり動いてくれて助かったな。今日は何も爆発しなかったし、実験にこの身が巻き込まれることもなく……だが」
かえって怖い。嫌な予感がする。
続いて抱いたその不吉な予感は、決して口に出さないようにして、カシアは引き続き風の魔法を使って床が見える面積を広げていった。
と言っても、ただ物を端へ端へと移動するだけのこと。
壊れ物があるかもしれないからと優しく移動する配慮もしつつ、はじめから壁際に存在していた物の塔はあっという間に高さを増していく。
そうしてやっと窓まで続く道が出来上がると、カシアはその窓を開け放って、今日一番の強い風を起こし、一気に室内の空気を外へと流した。
窓の下に広がる魔塔の中庭の一角には研究畑があって、常に団員の誰かがいるため、カシアは作った風が大空に抜けるように配慮することも忘れない。
カシアはそこで一切の魔法を止めた。
「今日もまた、匂いの発生源は分からず仕舞いか」
物を移動して換気をすれば、この部屋の腐臭は消えてしまう。
まさかイース本人からあの酷い匂いがしているのではあるまいか。
毎度そう思わなくもないカシアであったが、一度も確かめる気にはなれず。
自然な呼吸をしていれば、カシアの精神は落ち着いてきた。
室内を改めて見渡して、カシアは考える。
この惨状を世に知られたら、これまで以上に残念な男と囁かれることになるだろう。
今となっては泣くような娘もおらず、それは救いなのかもしれないが。
だからと言って、これまでに勝手に憧れ、勝手に泣いた女性たちは、はたして可哀想なのかどうか。それは三十歳を越えた今もカシアには分からない。
そしてまたカシアは魔法を使う。
物の山の中から見付けたテーブルと椅子を魔法で作った水の膜でさらりと拭うように掃除したのち、その水は窓の外で蒸発させて。
カシアは持ってきたものを風の魔法でテーブルに並べていった。
これには魔法を使う必要もなかったが、そこはカシアも魔術師。
身体を動かすよりも、ついつい魔法に頼ってしまう。それで身体が怠けないようにと日常に運動時間を組み込んでいるのだから、人間としておかしなことをしているなとカシアも思うことはあった。
だが人間として究極におかしな男の前では、カシア自身の問題など存在も霞むというもの。
カシアが完全にひと息ついた頃、奥から人の気配が戻った。
さすがに早過ぎると思ったが、今日のカシアはこれ以上小言を続ける気にはならない。
珍しく時間がなかったからだ。
読んでくださいましてありがとうございます♡




