序
鳴神鷹也は、荒い足取りで人気のない廊下を歩いていた。
(……あの、クソ親父)
鷹也の頭を占めるのは、焦燥と、苛立ちだ。
なんとかしなければならない。すくなくとも、自分にできる『何か』をしなくては。そんな焦りが、ここのところずっと鷹也を苦しめていた。
終業式を終え、父である学園長と今日こそは意味のある話し合いをしようという決意を持って、鷹也は学園長室に足を運んだ。しかしけっきょくのところ、完全に相手のペースに呑まれてしまった。
学園長室に入った鷹也に、学園長――鳴神誠一がかけた第一声はこうだった。
『助っ人が来るぞ。我ながら面白い一手だ。一か八かの大勝負ってところだな』
鷹也には誠一が何を言っているのかとっさには分からなかった。しかし、『助っ人』という言葉に反応する。
『それは、例の問題に対処できる人材が見つかったってことか?』
『ああ。多分な』
『…………』
鷹也は眉をひそめる。
現在直面している問題に対して学園の責任者たる男がなにか手を打ったというなら、鷹也としても歓迎したいところだ。しかし、ずいぶんと煮え切らない返事である。
『とにかく、助っ人が来る。お前が世話してやってくれ』
『世話? 案内でもしろってことか?』
『いや、それだけじゃない。学園生活の助けになって……あと、必要なら守ってやってくれ』
『は? ……俺に守られなきゃならないような助っ人なのか? だいたい、学園生活ってまさか……』
『二年に編入してくる』
『何言ってんだ……。来るのはプロじゃないのかよ。どういう奴だ』
『いや、プロの退魔師だ。異名持ちだぞ」
誠一はにやりと笑い、鷹也の動揺を楽しむように勿体つけた間の後に言った。
『……通称『悪食』、だそうだ』
脳内で『あくじき』が『悪食』に変換されるや、鷹也は思い切り眉をひそめた。
『異名ったって、悪名の方じゃねぇか! おい、どの筋からの紹介だよ。素性は確かなのか』
『詳しいことは本人に聞け。俺に聞かれても、正直なところよく知らん』
『ふざけんな責任者』
そこからいつものように口論が始まり、最後には鷹也のほうが『話にならん!』と言い捨てて部屋を出てきてしまった。
学園長室の無駄に重厚な扉を蹴りつけてやりたいという、子供じみた衝動をなんとかこらえたのは英断だ。鷹也の父親は、そんなことをされても萎縮するどころか『青い青い』と笑い飛ばしただろう。
鷹也自身は、高校三年にもなって自分が反抗期真っ只中にいるなど信じたくはない。だが、どうも父親とはそりがあわないのだ。
その父親が呼んだ助っ人とやらも、鷹也にしてみればどれだけ信用して良いものか疑わしい。
(悪食、ね……)
どう考えても、好意的には受け取れない異名である。
異名。通り名とも、通称とも言うが。つまるところ同業者の中で呼ばれる二つ名だ。
その退魔師の際立った特徴が、周囲の話題に登る中で定着したものである。特徴が何に由来しているのかは、能力や仕事への態度、本人の個性など様々だ。
一つ確かなことは、退魔師自身の知名度がなければ『異名』とされるほど周囲に定着しないということ。
そして、知名度には種類がある。力が強く、その仕事ぶりが良い意味で有名な場合もあれば、悪評で有名になる退魔師もいる。悪評とはいかないまでも、変人なら印象の悪い異名が付くこともあるだろう。
異名を持つ退魔師の場合、その単語の持つイメージがそのまま周囲からその退魔師への評価、イメージなのだ。
『悪食』という言葉から想起するのは、やはりグロテスクなイメージである。すくなくとも、好意的に捉えるのは難しい。
(……その世話を、押し付けられたわけだ)
鷹也が父親から厄介事を押し付けられるのは、なにもこれが初めてではない。だからこそ頭にくるのだが。
(今の俺にできることはその程度といえば、そうなんだろうが……)
自嘲的な思考が、鷹也の頭を冷やした。
無力感は、鷹也にとってもっとも大きな敵だった。飼いならさなければ、自分は本当に何もできない人間に成り下がる。
しばらく立ち止まってうつむいた鷹也は、一つ頭を振ってまた歩き出した。グズグズと思い悩むくらいならば、怒りにあかせてズカズカと前に進むほうがましだ。
下校時間を過ぎた校内は、静まり返っていた。
夕日に染まった校舎の中にも、校庭にも、鷹也以外の人影はない。
生徒会長を務める鷹也は学園長の息子ということもあって、一部教師から職員に近い扱いをされることがある。親族経営の色濃いこの学園のこと、教師たちもだいたい鷹也の小さな時分からの知り合いだ。つまり、鷹也を使うことに遠慮がない。
どこそこの鍵閉めをしてくれとか、校内に生徒が残っていないか確認するのを手伝ってくれとか、仕事の内容は様々。
そんな鷹也であるから、人気のない校舎の中にいるということ自体はそう珍しいことではない。それでもなお人気のない校舎に違和感を覚えるのは、昼間の賑わいを知っているからか。
(……本当に、それだけか?)
鷹也の脳裏にささやかな警鐘が鳴ったのは、何がきっかけだったのか。
すでに閉じられた生徒用の玄関ではなく、すぐ側にある職員が使う通用口から外に出る。
風はなかった。
そして、音もない。
空を飛ぶ鳥の姿も、声も、木々の葉擦れの音もなく。ただ、無音。
ありとあらゆるものが息を潜めているような、沈黙が広がっていた。
鷹也は第六感からの警告を無視する危険を知っている。
慎重にあたりを見回す鷹也の視界に、一つだけ動くものが映った。
とっさに身構えたが、まだ距離はある。
動いているのものは、小柄な人間のシルエットに見えた。
正門から玄関まで続く道の途中に、古い石碑が置かれている。影は、その石碑とそばに植えられた梅の木の間あたりに立っている。
石碑にはたしか、百人一首にも取られている和歌が彫られているのだが、どんな歌だったか思い出せるほど鷹也はその方面に詳しくはない。
近づけば、鷹也の目に相手の輪郭がはっきり映った。
少女である。
鷹也からはまだ顔は見えないが、この学園の制服である黒のセーラー服を着ている。
糊のきいた制服は新しいものなのだろう。少女の体格に対し、サイズが少し大きいように見えた。
いかにも新入生。この春からこの学園に入学する生徒だろうか。高校生にしてはずいぶんと小柄だが、つい最近まで中学生だったと考えればそれなりに納得がいく。
それにしても、三学期の終業式が終わった今日この日に学園に訪れるのは気が早いにも程がある。
相手が本当に人間なのかという疑心にかられていた鷹也だが、近づいてみるにどうやらそれは杞憂だと分かった。霊のように不確かな存在でもなければ、魔のように良からぬ存在とも思われない。
無闇に警戒してしまったのは、この黄昏時という時間帯のせいに違いない。太陽の恩恵が急速に薄れ、ただその名残が空気をぼんやりと赤く染める。境界の時。
この赤は警告色だと鷹也は思う。この境界の時間そのものへの、そして行く先に横たわる闇に備えろという警告の色だ。
それに対して、鷹也の疲弊した神経が過敏に反応したのかもしれない。
怪異に遭遇したのではないことが分かり、鷹也は肩の力を抜いた。しかしすぐに、それがけして安堵すべき事態でないことに気がつく。
(よりによってこんな時間に、一般人が……)
それはそれで、学園関係者として捨て置けないことだった。
この少女に我が身を守るすべがあるのかどうかは知らないが、見る限りではいかにも無防備な様子だ。体術に秀でた鷹也からしてみれば、隙がありすぎて逆に戸惑うくらいである。
なにより、これから夜が訪れるというのに彼女からは警戒心がまったく感じられない。
現在この学園では、すべての部活に対して放課後の校内活動禁止が言い渡されている。熱心な部活には校外に練習施設を用意してまで、夕方以降の学園への立ち入りを禁じているのにはもちろん理由があった。
危険だからだ。
「この時間、部外者の立ち入りは禁止されているはずだ」
突然声をかけた鷹也に、少女はかなり驚いたようだった。けれど素早く逃げるでもない。このあたりで鷹也は、はっきりと相手を素人と判じた。
少女はただ、戸惑っている。その間に鷹也は少女に近づいた。
鷹也には、自分の容姿があまり人好きするものではないという自覚がある。普通にしていても『怒っているのか』と聞かれる三白眼に加えて、やたらな長身。下級生の中には、鷹也の前に出るとそれだけで萎縮してしまう者もいる。
まして今対峙している相手は、ずいぶんと背の低い少女だ。自然、けっこうな急角度で相手を見下ろす形になる。
だが鷹也は、この場合はそれでいいだろうと結論づけた。
どこから入りこんだかは分からないが、不法侵入者が相手だ。
春から自分の通う高校を見てみたかったのかもしれないが、そんな甘い考えでこのような時間帯に学園に来られては困る。
(時間がない)と鷹也が焦るのは、夕焼け空が急速に暗くなりつつあるからだ。幸い校門まで――『外』まではここからならたいした距離ではない。慌てて逃げ帰るくらいに脅せば、もうこんなことも起こさないだろう。
「危険な場所と時間帯もろくに分からないのか」と、鷹也は攻撃的な口調を意識しつつ言った。
「危機管理能力がないなら、なおのことこんなところには来るな。その制服を着ながら見えない聞こえないなんてことはないだろうが……。それなら、大事に守られてきたんだろう」
「…………」
「好奇心で不用意に動いて死にたくなければ、軽率な行動は控えるべきだ。境界の時間は過ぎた。もうこの場所は、弱肉強食の世界だぞ」
「…………」
少女は鷹也の言葉を聞いてはいるようだが、反応が鈍い。
(まさか、怪異を目にしたことがないはずはないと思うが……)
すくなくともこの学園に入学が決まっているのならば、闇の世界と無縁に生きてこれたはずはないのだ。
しかしこれでも脅しが足りないというならば、言葉以上の手段を使うほかない。
(とっとと逃げろよ)
そう思いながら鷹也は、少女を睨みつけて『気』を放った。
無視できるような弱いものではない。擬似的な『殺気』だ。相手が手練であればそれが本気のものでないことなど簡単に見破ることができるだろうが、そうでなければ十分な脅しになるはずだった。
案の定、少女も緊張した様子で身構えた。
鷹也は相手がすぐにもきびすを返して逃げるものと思ったが、そうはならない。
「……弱肉強食、ですか……」
見た目に違わず幼い声がそう言った。
今更その言葉に反応するのかと呆れる鷹也の耳に次いで届いたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「都会って、怖いですね……」
その言葉に可笑しさを感じるよりも先に、鷹也は違和感を覚えた。
この時鷹也ははじめて、少女の視線がまっすぐ自分を見ていることに気がついたのだ。
今の今まで、鷹也は少女が俯いているものと思っていた。しかしそうではない。それは、二人の身長差ゆえに起こった錯覚だった。
少女の前髪は少し長い。そしてそのさらさらとした漆黒の帳のむこうから、大きな目がまっすぐに鷹也を見ていた。
そういえば先ほどのつぶやきも、大きな声ではないが震えてはいなかった。
彼女は、何も恐れていない。鷹也はそう理解した。
黄昏時の校舎も、夜の到来も、背の高い目付きの悪い男のことも、その男から放たれた殺気も。彼女を恐れさせるに至らない。
――それは果たして、彼女が鈍いからなのだろうか。
ありとあらゆるものが息を潜めているような、沈黙。
そう鷹也が称した違和感は、実のところまだ消えてはいなかった。
あたりは静かだ。異様なほど。少女の衣擦れの音さえ聞こえるほどに。
黒髪の少女は、そのちいさな掌を自分の顔の前で合わせた。仏壇の前で拝むような、そんな仕草である。
彼女のほのかに赤い唇から、鷹也は目をそらすことができなかった。正面を向いた彼女の、制服のリボンも赤だ。この赤は警告色。でも、それに気がついたところでもう遅い。
鷹也はすぐに、少女がしているのが仏前の合掌ではないと知ることになる。
彼女は、鷹也に向けて言った。
「……いただきます」
こんなボーイミーツガール
主人公は女の子の方です