第8場 名もなき想い
季節は夏になっていた。
大道寺の片付けも進み、以前仏様がおられた場所にはキリスト様の掛け軸がかかっている
その前には演台が置かれ、十字架が置いてある。燭台は仏様用のそれだ。
「何とか、お祈りが出来るようにはなりました。」トーレス神父が辺りを見渡して安堵のため息をもらす。
「…なんというか、不思議な空間ですな。
これぞ和洋折衷。」アンジロウが言う。
「それも全て千鶴殿のおかげですね。
ありがとうございます。」
「私は大した事はしておりません。
神父様に言われ、似たようなものを探しただけです。皆様、暑かったでしょう?
父上に内緒で削氷を用意しました。私が用意したわけではないのですが。是非、食べて見て下さい。」
そこへ父 清孝が現れる。
「私に内緒とは…何をこっそり食べようとしている。」
「けずりひ、とはなんですか?」ミゲルが尋ねる。
「氷を削ったものに蜜をかけて食べるのです。」千鶴が答える。
「お前、削氷などどこで手に入れたのだ?」
「斎藤様が持って来て下さいました。暑い中
片付けが大変だろうから、皆様でと。」
「うぬぬ、斎藤のやつ、なかなかやるの。」
清孝が感心したように言う。
「斎藤様の狙いは別にありますから。」
アンジロウが訳知り顔で言う。
「狙いとは…?」清孝が不思議そうにアンジロウを見る。アンジロウは目配せで千鶴を指した。「なんとっ…」
アンジロウと清孝のやり取りを聞きながら
ミゲルは千鶴の様子をじっと見ていた。
何故か胸がチリリと痛んだ。
「さあ、どうぞ。」
初めて見る削氷をおっかなびっくり口に運ぶ。
「なんとっ…冷たくて美味しいではないか」
清孝が目を丸くする。
「まこと、口の中で溶けますね。」
アンジロウが続ける。
ミゲルの口の端に蜜がついているのを見つけ、千鶴は思わず手ぬぐいを伸ばした。
「ミゲル様、口に…」
ミゲルは顔を真っ赤にして小声で
「ありがとうござい…ました」と呟く。
千鶴の顔も赤くなり「私、なんて事
すみません。」と謝る。
「ところで、ザビエル様はいったん豊後国へ行かれるとか。皆様はどうされるのですか?」清孝が尋ねる。
「えっ。」千鶴がびっくりした顔でミゲルを見る。
「私は残ってこちらの布教活動を任されています。」トーレスが答える。
「私はザビエル様の護衛ですから、聞いてみないとわかりません。」
「行かれるかもしれないのですか?」千鶴が
ミゲルに尋ねる。
「はい…。」
2人の間に沈黙が流れる。
「あー、コホン。私には聞いてくださらないのですか?」アンジロウがニヤニヤしながら言う。
「あ。あ、アンジロウ様は?」
「私はザビエル様と共に参ります。」
「すぐに帰って来ますよ。そんなに残念そうな顔をされなくても。」
アンジロウがふざけて言う。
「ほう…」
思う事があるのか、清孝は千鶴の様子を黙って見ていた。
夕刻、大道寺にて。
「ザビエル様、豊後国への同行についてですが…」
「良いですよ。」
ザビエルはにっこりと微笑んだ。
「は?」
何が良いのか分からず、ミゲルは思わず顔を上げた。
「気になっているのでしょう?千鶴殿のことが。」
「えっ?いえ、私は……」
珍しく言葉に詰まる。
ザビエルは楽しそうに笑った。
「まあ良いでしょう。ジャポンに来てから、あなたは随分変わりました。」
「……」
「笑うようになった。何より楽しそうです。特に千鶴殿といる時は。」
ミゲルは返す言葉がなかった。
「ミゲル。あなたはここに残りなさい。」
「……はっ。」
清孝の館へ続く道を、ミゲルはほとんど駆けるように進んだ。
なぜ急いでいるのか、自分でも分からない。
ただ、一刻も早く伝えたかった。
館に着くと勢いよく障子を開ける。
「千鶴殿!」
突然の声に千鶴は目を丸くした。
「ミゲル様?」
息を切らせたミゲルは、しばらく言葉が出てこない。
「どうなされたのです?」
「私は……」
呼吸を整えながら言う。
「私は豊後国へは参りません。」
千鶴は一瞬きょとんとした。
だが次の瞬間、
ほっとしたように微笑んだ。
「そうなのですね。」
その笑顔を見た瞬間、
ミゲルの胸の奥が温かくなる。
なぜ嬉しいのか。
その理由はまだ分からない。
「では!」
それだけ言うと、照れ隠しのように踵を返して駆け出した。
「ミゲル様?」
呼び止める千鶴の声を背中に聞きながら。




