第九話 秘めた思い
アリスは、目の前の光景に呆然と立っていた。
視線の先には、湯気が立ち昇っている温かいお湯が入った青色の入れ物があった。壁には金属の筒状の物が連結されており、傍には白色の桶と椅子が置かれていた。
「あの、ここは一体?」
アリスは隣に立っている、ソウコウシャで一緒に乗っていた女性に声を掛けた。先程の斑模様の服とは異なり、緑色の半袖と黒色のハーフパンツを来ている。だが、アリスの目は女性ではなく、彼女が抱えている桶の中に入れてあった四角い物体、すまーとふぉんと呼ばれる物に話しかけていた。
≪ここは入浴所です。そこにいる安里三曹から指摘されまして、先ずはアリシェスタさんを入浴させる事にしました≫
すまーとふぉんから空閑が返答した。アンリと呼ばれた女性が、アリスに微笑みかける。
≪分からない事があれば、俺と安里三曹に遠慮なくお申し付けてください。自慢じゃないですけど、陸自の野外銭湯って色んな国から結構人気があるんですよ≫
空閑のはつらつとした声に、アリスは恐る恐る尋ねた。
「あ、あの、クガ様」
≪ん? どうされました?≫
「わたし……本当にここへ入っても良いのですか?」
≪? 当たり前じゃないですか。今なら他の隊員も来ませんし、一時間ぐらいなら入っていても大丈夫ですから≫
「い、いえ、そういう事では——」
≪ほらほら、早くしないと他の隊員達が来ちゃいますよ。おい、安里三曹。手伝ってやれ≫
空閑の命令を受け取った安里三曹がうきうきした表情で脱衣所へと押し込むと、恥ずかしがるアリスの服を脱がせていった。
◇
アリスがソウコウシャから降りて最初に目にしたのは、緑色の天幕がいくつも並んだ場所だった。至る所に斑模様の人がいて、全員が黒い杖を携えていた。
日が完全に落ちているにも関わらず、王都の照明魔導具よりも明るい光が敷地内を照らしていた。少し遠くの方に灰色の四角い建物が見える。
アリスが乗ってきたソウコウシャのような様々な荷馬車も見られた。近くには馬らしき動物の姿はなく、異様な雰囲気がそこに鎮座していた。
すると、赤い十字が描かれた荷馬車がやって来た。アリス達の前に止まると、その荷馬車に空閑が運ばれて、何処かへ走り去って行った。
他の斑模様の男達が別々に行動する中、アリスは安里三曹に連れられて、入浴場が設営されていた天幕へと案内されたのだった。
「温かい……」
ドレスを脱いで湯船に浸かったアリスは、思わず言葉を呟いた。
(……お風呂って、こんなに気持ちの良いものだったなんて)
アリスにとって入浴とは、これほどまでに心地良いものではなかった。王城の浴室では、お湯を出すための魔導具が備わっているものの、魔力が無い為に扱うことが出来なかった。侍女達もアリスが入浴する際には魔導具を止めていた為、これまで冷たい水で身体を洗っていた。
「フロル、気持ち良い?」
アリスが湯の入った桶でくつろいでいるフロルを尋ねた。
——ふむ、中々良いものだな。お風呂とやらは。
フロルは首を振りながら答えた。
アリスは、空閑にフロルもお風呂に入れたいと願った所、少し渋った声を出しながらも許可を出した。但し、他の隊員も後で入るから、浴槽には入れない事を条件とした。
(クガ様が、後で動物用の石鹼を用意してくれるから、久しぶりに毛を洗ってあげるね)
——うむ。アリス、よろしく頼む。
しばらくして、安里三曹から石鹼を受け取ったアリスは、しゃわーと呼ばれるお湯が出るホースのある場所に行き、椅子に座り込んでフロルの毛を泡立てていた。
「フロル、どう?」
——良いぞ。む、アリス、もう少し後ろを。かゆくて仕方がない。
「ふふっ、はいはい」
アリスはフロルの要望を聞きながら、金色の毛を綺麗にしていった。
(ねぇ、フロル……)
——何だ? アリス。
(クガ様達に魔力が無いって話……本当?)
——間違いない。あの者らから魔力の気配すら感じられない。
フロルに改めて言われ、アリスは複雑な心境になった。
空閑が自分と同じ魔力が無い人間と聞いて、アリスは嬉しかった。魔力が無い故に爪弾きをされ続けたアリスにとって、同じ境遇の人にようやく巡り会えたのだ。
しかし、空閑は『黒髪の悪魔』、ファルシオン王国や他の国々と戦争中の二ホン国という異界から来た人間だ。
その変えようがない事実が、アリスの心の奥をかき乱していた。
——あの男が魔物達を屠った杖。そして乗っていた荷馬車に、この風呂とやらにも魔力を感じぬ。人間達が言う『魔導具』とやらではない。
空閑がブラックドッグを倒した黒光りする杖。ここまで乗って来た鋼鉄の荷馬車に、今入っている湯船。これらが魔力を一切使かっていない事に、アリスは驚きを隠せなかった。
——あの者らが持つ力は未だ計り知れぬ。アリス、改めて言うが気をつけるのだぞ。
(うん、でも……)
フロルの指摘に、アリスは言葉を噤んだ。
空閑がブラックドッグから助けてくれた事。自分の事を優しくしてくれた事。名前を褒めてくれた事。
今までされてきたことのない優しさを、彼は自分にしてくれた。
(少しだけ……あの人の事を信じてもいいかな?)
——アリス……。
フロルは、洗う手を止めたアリスを見上げる。
(良いかな、フロル?)
フロルは短く嘆息をついた。
——好きにするが良い。
(……ありがとう、フロル)
アリスは、常に寄り添ってくれる唯一の友人に感謝を述べた。
「あっ、そろそろお湯をかけるね」
アリスがフロルの毛についた泡を流すため、しゃわーのノズルを手に取って栓を回した。
しかし、お湯が出できたのはしゃわーではなく下の蛇口。丁度フロルの真上にあった金属の筒からであった。
「クウゥ!?」
「ああっ! ごっ、ごめんなさい、フロル!」
頭部に大量のお湯を被り、暴れ回るフロル。悲鳴に似た声でひたすらに謝るアリス。何があったのかと慌てて飛び入り、飛散した泡で足を滑らした安里三曹。静かな浴場が、賑やかなに騒がしくなっていった。




