月が綺麗ですね
「小野田さん」
デスクでパソコンと向き合っていた真知子は、自分を呼ぶ声で振り返る。
先輩社員の片桐歩美が、真知子を見下ろして立っている。腕組みをして、いかにも今から文句を言いそうな雰囲気だ。
「ちょっと来てくれる?」
真知子は片桐の眼をまっすぐ見つめる。
「火急の要件でしょうか?」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く・・・」
「違うんですね?」
片桐の眼が泳ぐ。
「先輩に対して何その態度!」
「今取り掛かっている仕事が終わり次第、私の方から片桐さんにお声がけ致します。それまで少々お待ちください」
「も、もういいわよ!せっかく忠告してあげようとしたのに!」
ふんっ!と去っていく片桐の背中を見ながら、真知子は首を傾げた。片桐は同僚や後輩の女性社員にマウントをとって優越感に浸るタイプの女だ。真知子は極力目立たず、地味子に徹していたため(徹しなくても自然体が地味だが)、入社してから今まで相手にもされなかったのだが、なぜ急に話しかけられたのだろうか。
「小野田さん・・・どうしたの?」
隣のデスクの森永ゆかりが心配そうに声をかけてきた。
「あっ、ごめんなさい。ぼーっとしてしまって」
「いやいや、そうじゃなくて。片桐さんをあんな風に軽くあしらえるなんて、小野田さんって、そういう人だったの?」
ゆかりは握った片手を顎に当て、じろじろと真知子を観察する。
「なんか、雰囲気も前と変わってるし・・・」
「え、そう?」
「そうよ、なんていうか、内側から輝いて存在を主張している感じ?」
真知子はビクッとして顔を両手で押さえる。
「私、今日、めめ、メイク、してきたの」
「・・・え、今までスッピンで来てたって事?」
「日焼け止めは塗ってて・・・」
「中学生か!・・・でも、それとこれとは別だと思うし」
2人でうーんと首をひねる。
「あ、でも、今まですっぴんだったのに突然メイクしてきたって事は、さてはなんかあったな〜?」
ゆかりはニヤニヤと笑う。それに対して目を泳がせる真知子も大概わかりやすい。
「今日ランチの時教えてよ。無理にとは言わないからさ」
「う、うん」
ゆかりと真知子は業務に戻る。しかし真知子は内心動揺していた。大樹と付き合ってはいるが、デートをしたこともなく、キスを交わしたこともない。手を繋いだのは一度だけ。これは・・・付き合っていることになるのか?
それなのに自分だけ何となく浮かれてメイクなんかしてしまった。初心者のメイクなんか、さぞかし滑稽だろう。いつもの癖で、頭の中でぐるぐる考えが巡る。
「・・・小野田さん、ダイエットでもしてるの?」
ランチの時間が来た。ゆかりに誘われて会社近くのカフェに行ったが、ミートドリアとアイスコーヒーを注文したゆかりに対して、真知子が注文したのはプリンのみ。
「ダイエットにしても何故プリンを選んだ?」
真知子は黙って首を振る。
「食欲がないの」
ゆかりは早速、真知子の取り調べを開始した。
「付き合ってる彼がいるのね?」
「一応・・・」
「彼の写真、よかったら見てもいい?」
「持ってないの・・・」
ゆかりは笑顔のまま固まった。
「・・・あ、彼と付き合い始めて何ヶ月くらい?」
「まだ1ヶ月も経ってないかも」
「あぁ、そういうことね。私なら付き合ってすぐにデートで写真撮っちゃうわ」
「まだデートにも行ってないの」
「・・・・・」
「あ、でもこの前一緒に買い物したかも」
「それデートじゃん。何買ったの?」
「オシャレな私服」
「おおぉお!もしかして彼に選んでもらった?」
「うん」
「おおおおおおお!」
ゆかりはミートドリアのスプーンを両手で握りしめる。
「手!手は繋いだの⁈」
「つ、繋いだかも」
そういえばあの買い物の時、大樹は真知子の左手をずっと握っていた。何で思い出せなかのだろう。
「やだー!小野田さん幸せじゃーん!」
恋っていいよねぇ〜と、うっとり呟いてスプーンをミートドリアに突き立てるゆかり。
「でも、なんか、私ばっかり浮かれちゃってるようで恥ずかしいかも」
真知子は目の前のプリンに手もつけない。
「え、小野田さんだけが彼を想っていて、彼はそうではないと?」
「うーん」
「それはないと思うけど」
真知子はミートドリアをがっつくゆかりを見る。
「そうかしら」
「そうよ。小野田さんに簡単に触れたり、甘い言葉を吐いてこないってことでしょ?なんかさー、正直に言うと、小野田さんって、ウブそうなのよね。うーんと、恋愛経験値が低そうで、優しくされたらすぐに恋に落ちちゃいそう。チョロそう、ていうか。ごめんね、言い方酷いね私」
と言いつつ、ドリアを食べ終えアイスコーヒーをすするゆかり。
「だから、小野田さんの彼は、小野田さんの事をすごく大切に想ってくれてると私は信じきれる」
真知子の心の中に、ゆかりの言葉がストンと落ちた。
「ありがとう。森永さん」
「どういたしまして。どうでもいいけど、サンドイッチか何か追加で注文しなさいよ。プリンじゃ夜までもたないよ?」
「うん」
何だか安心して、お腹が空いた真知子はゆかりの言う通りサンドイッチを注文した。
その夜、帰宅した真知子は、悩んだ末に大樹にLINEを送った。
「こんばんは、今日は満月ですね。綺麗に撮れたので写真を送ります。おやすみなさい」
送信。そして、本当は綺麗に撮れるまで何度も撮り直した満月の写真も送信する。
スマホを伏せると、ピロリンっとすぐに返事が来た。
「真知子さんこんばんは。月が綺麗ですね」
ピロリン
「もしよかったら、少し電話でお話ししませんか?」
緊張して、スマホを持つ真知子の手に力が入る。そして返信した。
「はい、よろこんで」
一瞬ののち、スマホのバイブが鳴った。
着信を待っていたのに、何を慌てたのか真知子はスマホを取り落とし、床に這いつくばって電話を取った。
「も、もしもし」
「真知子さん?・・・大丈夫ですか?」
「えっ?」
「何だか・・・変な態勢で電話してない?」
う、バレた。
「ちょっと、スマホを落としちゃって、拾ってるところなんです」
電話の向こうで大樹がふふっと笑う。
「緊張してる?」
真知子はいつものクセで唇を噛みながら立ち上がると、ベッドに座った。
「はい。慣れてないんです、こういうの」
開き直って言う。恋に関しては、真知子には伸び代しかないのだ。
「・・・もしかしてさっきのLINEも無意識?」
「え?」
「『月が綺麗ですね』」
「・・・・・」
少し考えて、意味を理解した真知子はカカカカと赤くなった。
「ち、違うんです、月の写真が・・・」
「真知子さん、月が綺麗ですね」
大樹は真面目な口調で真知子の話を遮る。
真知子は息を少し吸い込んで、目を閉じて言った。
「月はずっと前から綺麗だったと、今日気づいたんです、私」
「・・・・・」
「大樹さん?」
「ずるいです、真知子さん」
「えっ?」
「それも無意識なの?」
「あの・・・・」
「真知子さん、・・・・俺のこと、す、好きですか?」
真知子は、大樹が何かを言い澱み、台詞を噛むのを初めて聞いた。
そして、自分の唇がこんなに乾いてカラカラになっていることにも初めて気づいた。
同じ気持ちなんだわ。大樹さんも私も。今。
唇を舐めて、やけくその様に言い切る。
「はい。好きです。あなたのせいで、私、最近ずっと頭の中がぐちゃぐちゃで、ずっと悩みっぱなしなんですよ。どうしてくれるんです?」
「どういう、悩み?」
「自分ばっかりが大樹さんのことを好きなんじゃないかとか、初めて彼氏が出来て浮かれてメイクに挑戦したりして馬鹿みたいとか、それから・・・」
「も、もういいです、真知子さん」
大樹は「はあぁ〜」と、弱々しくため息をついた。
「大樹さん?」
「すみません、俺も同じようなことで悩んでいました」
「・・・どういう、悩み?」
「真知子さん、俺のアクセサリーは気に入ってくれているみたいだけど、俺のことは別にそんなに好きじゃないのかな、とか、毎日鏡を見るたび、こんな顔じゃ真知子さんと釣り合わないよな、とか、けれども真知子さんへの想いは止められなくて・・・はああぁぁ〜もう」
大樹はぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。ような音が電話の向こうからした。
「真知子さん、好きです。あなたのことを想うと、俺は何も手がつかなくなるくらいに」
その言葉を聞いて真知子は浮かれるどころか眉毛をハの字にした。
「私、大樹さんを困らせてるの?」
「・・・真知子さんは、俺の事で困ってないの?」
それを聞いて真知子は思わず叫んだ。
「こまってるわよ!さっきから言ってるでしょっ!」
スマホの向こうで大樹はふふっと笑った。
「じゃ、おあいこですね」
大樹の切り返しに真知子も思わず笑った。
「・・・今夜は、この辺で」
「はい・・・また電話してもいいですか?」
「いいんですけど・・・・私は、本人に会いたいんです・・・」
真知子は、かなり勇気を出して言った。
「・・・・・・・・・」
「・・・大樹さん?」
「・・・・次の、土曜日に」
「はい」
「新しく出来た水族館に、行きませんか?」
大樹の口調はゆっくりで、心なしか声が潤んでいるようだった。
真知子はそんな大樹のことを案じつつ、思ったままを言った。
「・・・・ええ、もちろん行きたいです。行きましょう」
「・・・・・・・」
「・・・た、大樹さん?」
「いえ、ごめんなさい。ちょっと・・・なんていうのかな。こんなこと、本当は真知子さんには言いたくないけれど・・・なんの下心もなく、なんの邪心もなく、ただ純粋に自分を慕ってもらえるのって・・・・・こんなに幸せなことなんですね・・・・」
真知子はスマホを持ったまま、どうしていいか分からなかった。ただ、このまま電話を切ってはいけない事だけは確かだった。
自分にできることがわからない。けれども、どうしてだかスマホの向こうで涙ぐんでいるようである彼を、どうにかして元気にしたかった。
そして、自分のそばには、いつも「イヒヒ」と笑って自分を元気つけてくれる友人がいたことを思い出した。
「大樹さん、ご存知かしら?」
真知子はいきなり気取った風に言う。
「・・・え?」
スマホの向こうの大樹は困惑気味だ。それに構わず真知子は続ける。
「よくって?大樹さん。人という字はね」
「・・・はい」
「人と人がまるで支えあっているようでしょう」
「・・・はあ」
「でもね、そんなのは嘘よ。本当は・・・」
「本当は?」
「長いほうが短いほうに寄りかかって楽をしているのよ。お分かりかしら?」
スマホの向こうで「ブフッ」と大樹が吹いた音がした。
「そ、それって、俺の発言とどう関係があるの?」
「関係なんて、ありはしないわ」
「ちょっと笑わせないでよ、ふふふっ、その貴族みたいな喋り方なんなの?」
「真知子様とお呼び!」
「あっははははははは!」
「・・・・元気出た?」
「出た。すごく出た」
「よかった」
「・・・ありがとう、真知子さん」
「いいえ。・・・水族館、楽しみね」
「うん・・・おやすみ」
「おやすみなさい」




