電卓の音と、火傷だらけの指先
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翌朝。
いつもより少しだけ早く家を出た私は、金沢文庫駅前のドラッグストアに立ち寄った。
バイト代の入った財布を開き、少しだけ悩んでから、一番水に強くて剥がれにくい、少し高価な絆創膏の箱をレジへ持っていく。
秋の高く澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、学校への坂道を上る。
心臓が、トクトクと少しだけ早いリズムを刻んでいた。
教室の扉を開けると、まだ生徒は疎らだった。
一番後ろの窓際の席。
梶原くん――颯太くんは、すでに登校していて、いつものように頬杖をつきながらぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。
今までなら、そのまま自分の席に向かって、ただのクラスメイトとして一日を終えていたはずだ。
けれど今の私には、彼と交わした秘密の約束がある。
オムライスの温もりを知っている。
私は小さく深呼吸をしてから、彼に向かって真っ直ぐに歩き出した。
「……おはよう、梶原くん」
声をかけると、颯太くんはビクッと肩を揺らし、驚いたようにこちらを振り向いた。
「あ……、おはよう。富永」
「昨日、遅くまでごめんね。その……すごく、美味しかったよ」
周りに聞こえないような小さな声で伝えると、颯太くんはバツが悪そうに視線を逸らし、耳の端を少しだけ赤くした。
「だから、不味かっただろ、あんなの。……次は絶対に、泣かないくらい美味しいやつを作ってやるから。待っててって言っただろ」
「ふふ、うん。待ってる。……あのね、これ」
私は背中に隠していた絆創膏の箱を、彼の机の上にそっと置いた。
「これ……?」
「昨日、手、いっぱい火傷してたから。水仕事が多いだろうし、普通のやつより防水の方がいいかなって思って」
颯太くんは机の上の箱と、私の顔を交互に見つめた。
それから、照れ隠しのように前髪をガシガシと掻き回す。
「……わりぃ。気を使わせたな」
「ううん。私の方こそ、気を使わせちゃってごめんなさい」
「謝るなよ。……サンキュ」
彼が少しだけ口角を上げて笑ってくれた瞬間、私の胸の奥に、ふわりと温かい風が吹き抜けた。
その日から、教室での私たちの距離は劇的に変わった。
これまで全く接点のなかった私たちが言葉を交わすようになったことは、クラスの中で少しだけ不思議がられたけれど、私たちはそんなこと気にも留めなかった。
昼休みや放課後、颯太くんはよく、難しい顔をしてノートを睨みつけるようになった。
金沢商業高校の二年生にとって、最大の関門とも言える『原価計算』の授業だ。
「……っあー、くそっ! なんでここで材料消費価格差異が出てくんだよ! 意味わかんねえ!」
「梶原くん、そこは予定価格と実際価格のズレを計算するから、先にこっちの公式を当てはめないとダメだよ」
放課後の教室。
頭を抱える彼の隣の席に座り、私はシャーペンで図を書きながら教えるのが、アルバイトのない日の日課になっていた。
不器用な彼は、料理だけでなく勉強に対しても真っ直ぐだった。
わからないところは誤魔化さず、納得がいくまで私に質問してきた。
「富永、お前本当にすげえな。なんでこんな複雑な数字のパズルがスラスラ解けるんだよ」
「毎日やってれば慣れるよ。それに私、簿記の資格を取るのは絶対に譲れない目標だから」
「……早く就職して、お母さんを助けるため、だったか」
颯太くんが、電卓を叩く手を止めて私を見た。
昨日の夜、路地裏で泣きながら打ち明けた私の身の上話を、彼は真剣な目できちんと受け止めてくれていた。
「うん。……梶原くんは? 料理人になりたいなら、普通科に行ってから調理師学校とか、そういう道もあったんじゃないの?」
「俺さ、将来自分の洋食店を出したいんだよ」
颯太くんは、窓の外の遠くの空を見つめながら静かに口を開いた。
「ただ美味しいものを作るだけじゃ、店は続かない。材料の原価を計算して、利益を出して、税金を払う。
料理の腕だけじゃなくて、経営の基礎とか金銭感覚を高校生のうちに叩き込んでおきたかったんだ。
だから、金商に来た」
彼の言葉には、夢に対する確固たる覚悟があった。
ただ漠然と憧れているだけじゃない。
地に足をつけて、現実的な努力を積み重ねている。
そのひたむきさに、私は心から尊敬の念を抱いた。
「梶原くんのお店、きっと素敵なお店になるね」
「……お前が計算のやり方教えてくれなきゃ、赤字で一ヶ月で潰れるかもしれねえけどな」
「もう、しっかりしてよ店長さん」
冗談を言い合って、二人で小さく笑い合う。
電卓を叩く彼の指先には、私がプレゼントした防水の絆創膏が、いくつも貼られていた。
それを見るたびに、胸の奥がキュンと甘く締め付けられる。
あの火傷は、私の見果てぬ夢のために負ってくれた名誉の負傷なのだと知っているから。
* * *
それから一週間。
颯太くんの手の傷は、治るどころか日に日に増えていっているようだった。
絆創膏の数が増え、時には小さな水ぶくれができていることもあった。
授業中も、時折疲れたようにうとうとしていることが増えた。
(……無理、してるのかな)
心配になって、ある日の放課後、彼に尋ねてみた。
「梶原くん、その手……。オムライスの練習、してるの?」
彼は少しだけビクッとして、絆創膏だらけの手を机の下に隠した。
「……マスターが、まかないの時間に6個までなら卵を使っていいって言ってくれてるから。
あと、家でも濡れたタオルを丸めて、フライパンを振る練習をしてる。
それなら卵を無駄にしないからな」
「でも、そんなに手首や指を痛めるまでやらなくても……。
私、急いでないし、梶原くんが作ってくれるなら、いつだって嬉しいから」
私がそう言うと、颯太くんは真剣な眼差しで私を真っ直ぐに見つめ返した。
「ダメだ。俺が急いでるんだよ」
「え……」
「お前の夢を、あんな中途半端な失敗作で終わらせてしまったのが、自分でも腹が立って仕方ないんだ。
絶対に、パカッと開く本物のオムライスを完成させて、お前に一番美味しいって言わせてみせる。
……だから、もうちょっとだけ待っててくれ」
熱を帯びた彼の言葉に、私は何も言い返せなくなってしまった。
彼の不器用な優しさと、料理人としてのプライド。
その両方が、私のために燃え上がってくれている。
それが嬉しくて、申し訳なくて、愛おしかった。
* * *
その週末。
私がスーパーのアルバイトを終えて、いつものように商店街の路地を通りかかった時のことだった。
今日は颯太くんはお休みの日だと聞いていたので、そのまま通り過ぎようとした私の背中に、渋い声が降ってきた。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかい」
振り返ると、『トムの木』の勝手口の前に、コックコートを着た恰幅の良い初老の男性が立っていた。
口元に蓄えた立派な髭と、鋭い眼光。間違いない、あの怒号を響かせていた『トムの木』のマスターだ。
「あ、はい……」
「あんた、颯太の同級生の子だろ? 富永、と言ったかな」
「は、はい! あの、いつも梶原くんがお世話になっております……!」
私が緊張して直立不動で頭を下げると、マスターは呆れたようにふっと笑った。
「なんだ、親御さんみたいな挨拶だな。……立ち話もなんだ、ちょっとだけ裏へ来なさい」
言われるがままに、私は勝手口の横の小さなスペースへ足を踏み入れた。
マスターは缶コーヒーを片手に、私をじっと見下ろした。
「あいつ、最近毎日、まかないの時間は自分のご飯も食べずに、ひたすらフライパンを振ってるよ」
「え……」
「まかない用の卵が尽きたら、自分のお小遣いで安い卵をスーパーから買ってきて、俺に『厨房を使わせてください』って頭を下げてきやがる。
手首にシップを貼って、指に火傷を作りながら、何百回とオムレツを巻いてるんだ」
知らなかった。家でタオルの練習をしているとは聞いていたけれど、まさか自分のお金で卵を買い込んでまで、厨房で猛特訓をしているなんて。
「……あいつ、お嬢ちゃんに中途半端な料理を出して、泣かせたのがよっぽど悔しかったらしいな」
マスターの言葉に、私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
あの日の路地裏での出来事を、どうやらマスターに見られてしまっていたのだ。
「す、すみません! 私が変なワガママを言ってしまったせいで、梶原くんにも、お店にもご迷惑を……」
「謝ることはないさ」
マスターは缶コーヒーをグビッと飲み干し、夜空を見上げてふっと息を吐いた。
「料理人にとって一番大事なのは、器用さじゃない。
『この人に喜んでほしい、笑顔になってほしい』っていう、執念みたいな想いがあるかどうかだ。
あいつは今まで、自分の店を持つための『技術』としてオムレツを練習してた。
でも今は違う。……はっきりと、お嬢ちゃんっていう『お客さん』のためにフライパンを振ってる」
マスターの温かい視線が、私に向けられた。
「来週の月曜、うちは定休日だ。あいつがどうしてもって言うから、一日だけ厨房を貸してやることにしてある。
あいつなりに、納得のいく『たんぽぽオムライス』が完成したらしい。月曜の夜、食べに来てやってくれ」
「完成……!」
「ああ。……それじゃあな」
マスターはそれだけ言い残し、コックコートを揺らして店の中へと戻っていった。
週明けの月曜日。
お昼休みの教室で、私は自分から颯太くんの席へと向かった。
「梶原くん、マスターから聞いたよ。今日、お店の厨房貸してもらえるって」
「っ、あのオッサン、余計なこと言いやがって……」
颯太くんはバツが悪そうに頭を掻いた後、真剣な顔つきになって私を見た。
「今日の夜七時半、お前のスーパーのバイトが終わった後でいい。店の鍵借りてるから、表の入り口から入ってきていいぞ」
「うん、行くね。すっごく楽しみにしてる」
「……あとな」
颯太くんが、少しだけ言い淀むように視線を落とし、それから決意したように言葉を紡いだ。
「お前のお母さん、夜のファミレスのパート、月曜日は休みだってこの前言ってなかったか?」
「え? うん、月曜だけはお母さんもお休みだけど……」
「ならさ、よかったら、お母さんも呼んであげてくれないか」
思いもよらない提案に、私は目を瞬かせた。
「あのさ。……お前がずっとオムライス我慢してたのって、お母さんに苦労かけたくなかったからだろ」
「え……」
「だったら、お前が一人で美味いもん食っても、心のどっかで『お母さんに申し訳ない』って引きずっちまう気がしてさ」
「梶原くん……」
「お前の夢を本当に叶えるなら、お母さんにも、一緒に笑ってもらわねえと意味ねえだろ。……二人分、最高に美味いやつ作るからさ。だから、お母さんも一緒に連れてこいよ」
彼の不器用で、けれどどこまでも温かく誠実な言葉。
私の夢だけでなく、私を育ててくれたお母さんのこと、そして過去の悲しかった記憶まで全部救おうとしてくれている。
その優しさに触れ、私の目からはまた、ポロリと涙が溢れそうになった。
「ありがとう……っ。お母さんも、絶対に喜ぶと思う」
「おう。……定休日の貸切だから、遠慮はいらねえからな」
そして、月曜日の夜。
七時半にアルバイトを終えた私は、家から駆けつけてくれたお母さんと駅前で合流した。
「楓菜、お友達がご飯を作ってくれるって本当? 私までお邪魔していいのかしら……しかも、こんな立派な洋食屋さんで……」
少し遠慮がちに言うお母さんの手を引き、私は『トムの木』の扉の前に立つ。
ずっと憧れていた、けれど高くて入れなかったお店。
深呼吸を一つして、私は木製の重いドアを開けた。
「……いらっしゃいませ」
静かな店内のカウンターの奥。
白いコックコートを見事に着こなし、少し緊張した面持ちで出迎えてくれた彼の姿が、そこにはあった。
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