(最終話):世界で一番やわらかな奇跡
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月曜日の夜七時半。
定休日であるはずの老舗洋食店『トムの木』の窓には、今日だけは温かなオレンジ色の明かりが灯っていた。
「……本当に、私までお邪魔してよかったのかしら。なんだか緊張するわ」
私の隣で、よそ行きのブラウスに身を包んだお母さんが、そわそわと落ち着かない様子でエントランスの煉瓦を見つめていた。
無理もないと思う。
普段の私たちは、スーパーの特売日や、百円引きの惣菜シールばかりを気にしている生活だ。
こんな立派な、アンティーク調のランプが下がるような洋食店の入り口に立つことなど、これまで一度だってなかったのだから。
「大丈夫だよ、お母さん。梶原くんが、どうしてもお母さんにも食べてほしいって言ってくれたんだから」
私はお母さんの手を引き、深呼吸を一つして、木製の重いドアをゆっくりと押し開けた。
カラン、コロン。
澄んだベルの音が、静まり返った店内に響き渡る。
普段はたくさんのお客さんで賑わっているであろう客席には誰もおらず、まるでこの空間だけが世界から切り取られてしまったかのようだった。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥の厨房から、低く、少しだけ緊張を孕んだ声がした。
そこに立っていたのは、真っ白で糊の効いたコックコートを見事に着こなし、腰に黒いサロンエプロンを巻いた颯太くんだった。
学校で見せる、気怠げで無造作なクラスメイトの姿はそこにはない。
そこにいるのは、一人の立派な『料理人』だった。
「梶原くん……っ。今日は、本当にありがとう」
「……おう。よく来たな。お母さんも、はじめまして。梶原颯太です」
「はじめまして、楓菜の母です。今日は娘のために、そして私までご招待いただいて……本当にありがとうございます」
お母さんが深く頭を下げると、颯太くんは耳の端を真っ赤にして、「い、いえ! そんな、頭上げてください」と慌てて手を振った。
その不器用な反応に、私とお母さんは顔を見合わせて小さく笑った。
「そこのカウンター席に座って。今、すぐ作るから」
颯太くんに促され、私たちはお店の特等席――厨房が目の前で見渡せるカウンターの中央に腰を下ろした。
カチッ、ボッ。
青く鋭い炎が、業務用のコンロに立ち上がる。
颯太くんの表情から、先ほどの高校生らしい照れが消え、職人のそれへと切り替わった。
ボウルに卵が割り入れられ、ホイッパーでリズミカルに溶きほぐされる。
熱したフライパンにバターが落とされ、ジュワァァッという激しい音と共に、店内に暴力的なほどに芳醇な香りが充満し始めた。
「すごい……」
お母さんが、息を呑んで颯太くんの手元を見つめていた。
私も、彼から目が離せなかった。
左手でフライパンを前後に揺らし、右手で菜箸を細かく動かす。
そして、火からフライパンを浮かせ、トントンと柄を叩きながら、卵を美しいラグビーボールの形へと巻き上げていく。
その指先や手首には、私がプレゼントした防水の絆創膏がいくつも貼られていた。
私の夢を叶えるために、彼が自分自身の身を削って、何百回、何千回とフライパンを振ってくれた証だった。
「……お待たせしました。『特製・たんぽぽオムライス』です」
コトリ、コトリと。
私とお母さんの目の前に、真っ白な陶器の皿が置かれた。
チキンライスの上に鎮座する、黄金色のオムレツ。
それは、呼吸をするようにぷるぷると小刻みに震えていた。
艶やかな琥珀色のデミグラスソースが、まるで絵画のように美しく周囲を彩っている。
「……熱いうちに、真ん中からナイフを入れてみてください」
颯太くんの声に促され、私は震える手で銀色のナイフを握った。
隣では、お母さんも同じようにナイフを持っている。
小学三年生のあの日。
古ぼけたテレビの前で見た、鮮やかな黄色い夢。
南京錠をかけて、心の底に沈めて、もう一生見ることはないと思っていた光景が、今、私の目の前にある。
すーっ。
黄金色の表面に、ナイフの刃を滑らせる。
わずかな切れ込みを入れた瞬間だった。
パカッ、と。
内側に閉じ込められていた半熟の卵が、まるで春の訪れを告げるたんぽぽの花が咲くように、とろり、と左右に花開いた。
半熟の柔らかな卵がチキンライスを優しく包み込み、中から熱い湯気と、焦がしバターの濃厚な香りが立ち上る。
「わぁっ……!」
「すごい、本当に花が開いたみたい……!」
私とお母さんの歓声が、店内に響いた。
夢じゃない。
あの日見た魔法が、私の目の前で現実になっている。
「……どうぞ、食べてみてください」
颯太くんの静かな声に頷き、私はスプーンで卵とライス、そしてソースをすくい上げ、ゆっくりと口に運んだ。
――美味しい。
いや、そんな簡単な言葉では片付けられない。
ふわふわでとろけるような卵の甘み、チキンライスの絶妙な酸味、そしてデミグラスソースの奥深いコク。
それらが口の中で一つに溶け合い、じんわりと心臓の奥まで温めていく。
この前の路地裏で作ってくれた失敗作だと言ってたオムライスだって、私にとっては人生で一番美味しかった。
けれど、今日のオムライスは、あの時の何十倍も、何百倍も、優しくて、完璧だった。
「美味しい……っ。すっごく、美味しい……っ!」
気づけば、私の目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
悲しくないのに、嬉しくて、胸がいっぱいで、涙が止まらない。
隣を見ると、お母さんもスプーンを持ったまま、ポロポロと涙を流していた。
「お母さん……?」
「楓菜……ごめんね。ごめんなさいね」
お母さんは、涙を拭いながら、震える声で私に言った。
「あの時……あなたがテレビを見て、これが食べたいって言った時。私、本当に不甲斐なくて……この子に、あんな小さなワガママ一つ叶えてあげられないのかって、情けなかったの」
「お母さん、そんなこと……」
「ずっと我慢させてきたわね。お母さんを気遣って、贅沢したいなんて一度も言わずに、アルバイトと勉強ばかり頑張らせてしまって……本当に、ごめんなさい」
お母さんの告白に、私は首を横に大きく振った。
「ううん。私、お母さんの娘でよかった。お母さんが一生懸命育ててくれたから、今の私があるんだよ。
……それに、こうやって今日、お母さんと一緒に最高のオムライスを食べられたから……もう、何も我慢してないよ」
何年もの間、私たち親子の間に見えない棘のように刺さっていた過去の痛みが、颯太くんの作ってくれたオムライスによって、完全に浄化されていくのを感じた。
カウンターの奥では、颯太くんが腕を組み、壁に寄りかかりながら、どこかホッとしたような、限りなく優しい顔で私たちを見守ってくれていた。
* * *
「……本当に、ごちそうさまでした。一生の思い出になるくらい、美味しかったです」
空っぽになったピカピカの皿の前で、お母さんが颯太くんに向かって深くお辞儀をした。
「いえ……お口に合ったなら、よかったです」
颯太くんは照れくさそうに首の後ろを掻いている。
その時、お母さんがふと、私と颯太くんの顔を交互に見つめ、ふわりと柔らかく悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「私、明日のパートが早いから、少し先に帰ってお風呂を沸かしておくわね」
「えっ? お母さん、一緒に帰らないの?」
「楓菜は、こんなに美味しいご飯をご馳走になったんだから、ちゃんとお皿洗いや片付けを手伝ってから帰っておいで。いいわね?」
お母さんは私にウィンクをしてから、「颯太くん、うちの娘をよろしくお願いしますね」と一言残し、足早に店のドアを開けて出て行ってしまった。
カランコロン、というベルの音が遠ざかり、店内には私と颯太くんの二人だけが取り残された。
「あ、あの……ごめんね、お母さん急に」
「いや、いいよ。……じゃあ、お言葉に甘えて皿洗いだけ手伝ってもらうわ」
私たちはカウンターを片付け、厨房の奥にある広いシンクの前に並んで立った。
静まり返った店内に、水が流れる音だけが心地よく響く。
隣に立つ颯太くんの肩が触れそうなほど近く、石鹸の香りと、ほんのりとしたバターの匂いが混ざって私の鼻腔をくすぐった。
「梶原くん」
「ん?」
スポンジで皿をこすりながら、私はずっと伝えたかった言葉を口にした。
「今日、本当にありがとう。オムライス、世界で一番美味しかった。
それに……お母さんのあんな嬉しそうな笑顔、久しぶりに見た」
私がそう言うと、颯太くんはピタリとスポンジを動かす手を止めた。
彼は水道の蛇口をキュッとひねり、水の音を止める。
静寂が下りた厨房で、彼は濡れた手をタオルで拭き、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「……そっか」
颯太くんは、自分の手の甲にある火傷の跡をじっと見つめ、それから真っ直ぐに私の瞳を捉えた。
「俺さ。お前が美味しそうに食べてくれて、お前のお母さんがあんな風に笑ってくれて……。
今日初めて、心の底から『料理人を目指してよかった』って思えたんだ」
「梶原くん……」
「ただ美味しいものを作るだけじゃダメなんだ。料理って、誰かの心を温めたり、傷を治したりできるんだって、お前たち親子の顔を見て、はっきりわかった」
彼の真剣な言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
彼は、私の夢を叶えてくれただけじゃない。私とお母さんの過去を救い、そして彼自身も、料理人としての大きな一歩を踏み出したのだ。
「なぁ、富永」
颯太くんの声が、一段と低く、熱を帯びた。
彼は一歩だけ私に近づき、真剣な目で見つめながら言った。
「俺が将来、自分の店を持ったらさ。……店の経理は、絶対にお前にやってほしい」
「えっ……」
「他のヤツじゃダメだ。お前が俺の店の帳簿をつけて、俺がお前に一番美味い飯を作る。
……ずっと、俺の作ったご飯を食べててほしい」
それは。
将来の洋食店の経営の話のようでいて、これ以上ないほどの、不器用で真っ直ぐな『告白』だった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
顔に一気に熱が集まり、またしても瞳の奥がツンと熱くなった。
今日だけで、一体何度泣きそうになれば気が済むのだろう。
「……私で、いいの?」
「お前がいいんだよ」
断言する彼の言葉に、私は堪えきれずにポロリと涙を零しながら、けれどこれ以上ないほどの満面の笑顔で頷いた。
「わかった。私、絶対に日商簿記一級まで取る。梶原くんのお店が絶対に赤字にならないように、私がずっと計算してあげる」
「おう。頼むわ」
颯太くんは照れ隠しのように前髪を掻き上げると、ふっと優しく、とても大人びた表情で笑った。
* * *
店の片付けを終えて外に出ると、すっかり夜は更けていた。
ガチャン、と店の鍵を閉める颯太くんの隣で、私は夜空を見上げた。
横浜市金沢区。
海の方角から吹き抜けてきた秋の夜風が、私たちの間を通り抜けていく。
私の名前にある『風』と、彼の名前にある『風』。
あの日、路地裏で交わした些細な共通点から始まった私たちの関係は、オムライスという魔法を通じて、かけがえのないものへと変わった。
「帰るか」
「うん」
歩き出した彼に並んで、私も一歩を踏み出す。
揺れる彼の指先が、歩くたびに私の手の甲をかすめていく。
私は小さく深呼吸をして、ほんの少しの勇気を出して、その大きな手に自分の指をそっと滑り込ませた。
彼は驚いたように一瞬だけ足を止め、それから嬉しそうに、私の手を優しく握り返してくれた。
いつか、この街で彼が開く洋食店。
そこの看板メニューは、きっと世界で一番美味しい『たんぽぽオムライス』になるはずだ。
その日まで、そしてその先もずっと。私は彼の手が作る温かい奇跡のそばで、生きていくのだ。
最終話までご覧いただきありがとうございました!
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