涙のひとくちと、胸に灯る炎
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差し出された白い陶器の皿の上には、黄金色のラグビーボールが鎮座していた。
ぷるぷると小刻みに震えるオムレツ。
その端からは、ケチャップで赤く色づいたチキンライスがわずかに顔を覗かせ、周囲には深い琥珀色をした特製のデミグラスソースがたっぷりと海のように敷き詰められている。
立ち上る湯気からは、焦がしバターの濃厚な香りと、牛肉と野菜が溶け込んだソースの複雑で甘い匂いが絡み合って漂ってきた。
「……これ、本当に私が食べていいの?」
路地裏に無造作に置かれたビールケースをひっくり返した即席の椅子。
そこに腰を下ろした私は、手渡された銀色のスプーンを握りしめたまま、震える声で尋ねた。
エプロン姿の颯太くんは、腕を組んだまま壁に背中を預け、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「まかないの余りだって言ってんだろ。冷める前にさっさと食べちゃえよ」
「うん……いただきます」
スプーンの先端を、黄金色の表面にそっと沈める。
テレビで見たように、ナイフで真ん中からパカッと開くタイプではない。
でも、薄焼きの卵で包んだだけのものとも違う。
スプーン越しに伝わってくるのは、幾層にも重なった半熟卵の柔らかな弾力だった。
卵とチキンライス、そしてデミグラスソースを一緒にすくい上げ、ゆっくりと口に運ぶ。
――瞬間、脳の奥が痺れるような衝撃が走った。
最初に舌に触れたのは、デミグラスソースの深いコクと、わずかな苦味を伴った大人の甘さ。
そして、それを優しく包み込むような、バターの風味豊かな卵の甘み。
噛み締めると、鶏肉の旨味を吸い込んだチキンライスの酸味が絶妙なバランスで口いっぱいに広がり、三位一体となって喉の奥へと消えていく。
(……美味しい)
こんなに美味しいものを、私は今までの人生で食べたことがなかった。
スーパーの半額弁当の、冷たくて固いご飯じゃない。
私が家で作る、テフロンの剥げたフライパンで炒めた焦げ臭いスクランブルエッグでもない。
梶原くんが私のために、熱い火の前に立ち、汗を流して作ってくれた、出来立ての温かい料理。
一口、また一口とスプーンを動かす。
不思議だった。美味しいのに。こんなに幸せなはずなのに。
視界が、急にぐにゃりと歪み始めた。
チキンライスの温かさが食道を通って胃の奥に落ちていくたびに、ずっと昔に分厚い南京錠をかけて、心の海の底に沈めていたはずの記憶が、強引に引きずり出されていく。
『……そっか。美味しそうだね、楓菜。……ごめんね』
小学三年生の時。
テレビに映るオムライスをねだった私に向けられた、お母さんのひどく悲しそうな、申し訳なさそうな笑顔。
水仕事でひび割れた、真っ赤な指先。
あの日、私は決めたのだ。
もう二度と、自分のワガママでお母さんを悲しませてはいけないと。贅沢なんて望んではいけないと。
早く大人になって、自分で稼げるようになるまでは、こんな温かくて美味しいものを食べたいなんて、絶対に思ってはいけないのだと。
そうやって、ずっと、ずっと我慢してきたのに。
「……あれ?」
ポタッ。
スプーンを持つ私の手の甲に、丸い水滴が落ちた。
ぽたり、ぽたりと、水滴は次々に落ちていき、やがて視界が完全に涙の膜で覆い尽くされた。
呼吸がヒクッとひきつり、鼻の奥がツンと痛くなる。
一度堰を切ってしまった涙は、もうどうやっても止めることができなかった。
「っ……う、く……うぅ……っ」
「は……!? え、おいっ!?」
静かな路地裏に私のしゃくり上げる声が響いた瞬間、壁に寄りかかっていた颯太くんが弾かれたように飛び起きた。
「な、なんで泣いてんだよ!? え、焦げてたか!? 卵の殻でも入ってたか!?」
完全にパニックに陥った彼が、長い手足をバタバタさせて私の前にしゃがみ込む。
その顔には、先ほどまでのクールな面影は微塵もなく、ただただ本気で焦り、狼狽える男子高校生の素顔があった。
「……っ、わりぃ! やっぱり不味かったか!? マスターの足元にも及ばねえのは俺が一番わかってる! 火加減ミスって卵も固ぇし、形もいびつだし……っ、頼む、無理して飲み込まなくていいから今すぐスプーン置け!」
「ちが……うの……っ」
私は首を横に振り、ジャージの袖で乱暴に涙を拭った。
「すっごく、美味しい……っ。今まで生きてきた中で、一番、美味しいの……!」
「じゃあ、なんで……」
「……私、ずっと、我慢してたから……」
嗚咽を漏らしながら、私は途切れ途切れに話し始めた。
小学生の頃、テレビで見たオムライスに憧れたこと。
それをねだった時のお母さんの、傷ついたような顔。
二度とワガママは言わないと誓い、商業高校に入って簿記の資格を取り、早く就職してお母さんを助けるという目標だけで、感情に蓋をして生きてきたこと。
「千四百円のオムライスなんて、私にとっては、絶対に手を出してはいけない贅沢だった……っ。あの日からずっと、食べたいって思うことすら、自分に禁止してたのに……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙が、止まらない。
それは悲しいからではなく、心の底でずっと凍りついていた感情が、颯太くんの作った温かい料理の熱で、一気に溶かされてしまったからだった。
「梶原くんが、私のために作ってくれて……すっごく、温かくて……こんなに美味しいものが、本当に食べられる日が来るなんて、思ってなかったから……っ。嬉しくて、泣いてるの。ごめんなさい、変だよね……っ」
しゃくり上げながら必死に笑おうとする私を見て、颯太くんは目を見開いたまま、完全に言葉を失っていた。
その時、颯太くんの胸の内で、言葉にならない激しい感情が渦巻いていた。
彼は先ほどから、自分の作ったオムライスを心の中で酷評していた。
マスターの作る『たんぽぽオムライス』は、ナイフを入れた瞬間に花のように開く。だが自分の作ったものは、火が入りすぎてただのラグビーボールになってしまった。
客に出せるレベルではない、ただの失敗作。
そんな中途半端な料理を、彼女は「人生で一番美味しい」と言って、涙まで流して食べている。
(……ふざけんなよ)
颯太くんは、自分の不甲斐なさに猛烈に腹が立っていた。
彼女がどれほどの覚悟で、どれほどの孤独の中で自分の欲求を押し殺して生きてきたのか。
その重すぎるほどの切実な夢の封印を解く鍵が、自分のこんな、妥協と失敗の産物であっていいはずがない。
こんな出来損ないで、彼女を満足させてはいけない。こんなもので、彼女の何年分もの我慢を精算させてたまるか。
ギリッ、と。颯太くんが強く奥歯を噛み締める音がした。
「……食うな」
「え……?」
「もういい、泣きながらそんな失敗作を食べるな」
颯太くんはスプーンを持った私の手から、半ば強引に皿を取り上げた。
「か、梶原くん……? 私、本当に美味しいって――」
「違う。美味くねえんだよ、こんなモン」
私を見下ろす彼の瞳には、厨房でフライパンを振っていた時よりもさらに強い、静かだけれど確かな『炎』が灯っていた。
「火通りも甘い。形も悪い。……何より、ナイフを入れたらパカッと開くヤツじゃないだろ」
「それは……」
「お前がずっと我慢して、どうしても食べたかったのは、そういうヤツだろ。……俺が、こんな中途半端なモンでお前の夢を終わらせたのが、すっげえムカつくんだよ」
颯太くんの右手が、ギュッと強く握りしめられる。
その指先や手の甲には、特訓の跡である無数の小さな火傷や水ぶくれが赤く腫れ上がっているのが見えた。
「だから、今日はもう帰れ。……俺が絶対に、マスター直伝の本物の『ふわとろ』を作れるようになるまで待ってろ」
「梶原くん……」
「次は、絶対に完璧なヤツを作ってやる。その時は、泣かないで最高の顔で食べてくれ。……約束だ」
ぶっきらぼうだけれど、これ以上ないほど不器用で真っ直ぐな彼の言葉。
その熱に当てられて、私はこくりと、深く頷くことしかできなかった。
* * *
「……馬鹿野郎が。客の皿を途中で取り上げる料理人がどこにいる」
路地裏から少し離れた、商店街の電柱の影。
予定よりも早く組合の寄り合いから戻ってきていた『トムの木』のマスターは、呆れたように小さく息を吐いた。
すべて聞いていたし、見ていた。
出来損ないのまかないを出して、泣く女の子を見てパニックになる颯太。
そして、女の子の切実な身の上話を聞いて、己の未熟さに本気で怒り、本物の味を誓う姿を。
「……だがまぁ、目は良かったな」
マスターは、フッと短く笑った。
料理人にとって一番大切なのは、技術ではない。
『誰かのために、最高の一皿を作りたい』という、執念にも似た強烈な想いだ。
今日まで、颯太はただ「自分の店を持つための技術」としてオムレツを練習していた。
しかし今夜、あいつの心にははっきりと『食べてほしい客の顔』が刻み込まれた。
あの目をする奴は、絶対に腕が上がる。
マスターの長年の職人の勘が、そう告げていた。
「仕方ねえ。定休日の厨房、一回だけ貸してやるか」
マスターは足音を立てずに、ゆっくりと店の表側へと回っていった。
* * *
京浜急行線に揺られ、金沢文庫駅から少し離れた古いアパート。
サビの浮いた鉄階段を上り、203号室のドアを開ける。
時刻は夜の九時を回っていた。
「ただいまー」
「あ、楓菜。おかえりなさい。遅かったね、補習長かったの?」
狭いダイニングキッチンでは、工場のパートを終えたばかりのお母さんが、疲れた顔でエプロンを結び直しているところだった。
これからまた、夜のファミレスの裏方仕事へ行く準備だ。
テーブルの上には、ラップをかけられたスーパーの割引品の惣菜が置かれている。
「ごめんね楓菜。今日、帰るの遅くなっちゃって、残り物しか用意できなかった。適当に温めて食べてね」
申し訳なさそうに眉を下げるお母さん。
いつもの私なら、「ううん、全然大丈夫だよ! お母さんこそ無理しないでね」と、無理に明るく振る舞っていただろう。
お母さんに心配をかけないように、自分が少し寂しい思いをしていることなんて、絶対に悟られないように。
でも、今日の私は違った。
胃の奥には、まだ颯太くんが作ってくれたオムライスの温もりが残っている。
心の底にあった冷たくて重い南京錠は、すでに跡形もなく溶け去っていた。
「うん、ありがとう。……でもお母さん、私、お腹いっぱいだから明日の朝に食べるね」
「えっ? バイト先で何か食べたの?」
「うん。……ねえ、お母さん」
私は、テーブルの上に置かれた惣菜を冷蔵庫にしまいながら、お母さんの方を振り返った。
無理に作った笑顔じゃない。
心の底から自然に湧き上がる、自分でも驚くほど柔らかな微笑みだったと思う。
「私ね、今日、すっごくいいことがあったの」
「いいこと?」
「うん。……すごく美味しくて、すごく温かいものをもらったんだ。だから、もう全然、お腹空いてないよ」
きょとんとするお母さんに、私は「お仕事、気をつけて行ってらっしゃい!」と元気に手を振った。
少し不思議そうな顔をした後、お母さんもつられてふわりと笑い、「うん、行ってくるね」とドアを開けた。
狭い部屋に一人残された私は、自分の胸にそっと手を当てた。
トクン、トクンと、確かな鼓動を感じる。
『次は、絶対に完璧なヤツを作ってやる。その時は、泣かないで最高の顔で食べてくれ』
彼の不器用な誓いが、耳の奥で何度も蘇る。
明日、学校で彼に会ったら、どんな顔をして挨拶をしよう。
教室では今まで、まともに言葉を交わしたことすらなかったけれど。これからはきっと、ただのクラスメイトのままじゃいられない。
思い切って、明日は私から声をかけてみようか。
「おはよう」と笑いかけて、もし彼が勉強に困っていたら、私が得意な簿記を教えるよって提案してみようか。
それとも、学校へ行く前に駅前のドラッグストアに寄って、あの火傷だらけだった手に貼るための絆創膏を、買っていこうか。
秋の夜風が、少しだけ開いた窓の隙間から部屋の中へと吹き込んでくる。
私の心の中には今、オムライスへの憧れよりもずっと温かくて、ずっと確かな『新しい風』が吹き始めていた。
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