厨房の熱気と、差し出されたたんぽぽ
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ピッ、ピッ、という無機質な電子音が、今日の私にはやけに遠く聞こえていた。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちでしょうか?」
口から出る接客用語は完全に自動化されていて、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
目の前を流れていく特売の豚肉、キャベツ、安売りの卵パック。
それらをスキャンしてカゴに移しながら、私の意識は金沢文庫駅前のスーパーから遠く離れ、あの薄暗い路地裏へと飛んでしまっていた。
『明日、バイト終わったらまたこの裏口に来いよ』
昨日、梶原くん――颯太くんが言った言葉が、何度も何度も脳内でリフレインしている。
まかないの余りを食べさせてくれる。
あの『トムの木』のオムライスを作っている厨房で。
「……お客さま、お待たせいたしました。合計で、千四百……っ」
金額を言いかけて、ハッとして言葉に詰まった。
千四百円。奇しくも、あの黒板に書かれていた『特製・たんぽぽオムライス』と同じ値段だった。
「お姉さん? どうしたの?」
「あ、も、申し訳ございません! 合計で千四百五十二円になります!」
慌てて頭を下げ、お釣りを渡す。危ない。完全に上の空だった。
レジの列が途切れ、ふう、と小さく息を吐き出した時、バックヤードへ繋がる鏡に映った自分の顔を見て、私はギョッとした。
(……私、ニヤニヤしてる?)
マスクの下で、口角がだらしなく上がっていた。
さらに言えば、さっきから無意識のうちに、鼻歌まで歌いそうになっていた自分に気がついた。
ウキウキしているのだ。隠しようもないほどに。
「うそでしょ……」
誰も見ていないことを確認して、両手で自分の頬をパンパンと叩く。
熱い。顔が火照っている。
期待しているのだ。
あんなに頑丈な南京錠をかけて、もう二度と見ないふりをしようと決めていた『憧れ』に手が届くかもしれないという事実に。
そして……あの、普段の気怠げな姿とはまるで違う、熱を帯びた瞳をした彼の横顔に会えることに。
(でも、本当に言っていいのかな……)
冷静な自分が、心の隅でブレーキをかける。
昨日のアレは、ただのからかいだったのかもしれない。
男子高校生の気まぐれで、ちょっとかっこつけて言ってみただけという可能性だってある。
私が本気にしてノコノコ裏口へ行ったら、「え? マジで来たの? 食い意地張ってんなー」なんて笑われるかもしれない。
もしそうだったら、私は恥ずかしさのあまり、そのまま金沢八景の海に身を投げてしまいたくなるだろう。
「……ううん、違う。梶原くんは、そんな意地悪な嘘をつく人じゃない」
あの時の彼の目は、真剣だった。私の見果てぬ夢を、絶対に笑わなかった。
時計の針が、ゆっくりと、けれど確実に午後七時半へと近づいていく。
一分が一時間のように長く感じられる。早く、早く時間が過ぎてほしい。
こんなにもアルバイトの終わりを心待ちにしたのは、働き始めてから初めてのことだった。
* * *
一方その頃。
老舗洋食屋『トムの木』の厨房は、夕食時のピークを迎え、戦場のような忙しさの中にあった。
「颯太! 2番テーブルのサラダ、まだか! ドレッシングの量が少ないぞ!」
「すみません! すぐ出します!」
マスターの怒号が飛び交う中、颯太は額の汗を拭う暇もなく、レタスとトマトを皿に盛り付けていた。
換気扇はフル稼働しているが、四つのコンロから立ち上る熱気と、油の匂いで厨房はサウナのように暑い。
普段なら、この緊張感と熱気の中で体を動かすのは嫌いじゃなかった。
むしろ、自分が少しずつ『料理人』の領域に足を踏み入れているという実感が湧いて、心地よいくらいだった。
だが、今日の颯太は違った。
(……やべぇ。火加減、少し強かったか)
ハンバーグの付け合わせのスパゲティを炒めるフライパン。
いつもなら手首の感覚だけで火通りを見極められるのに、今日はどうにもタイミングがズレる。
一瞬の気の緩み。
その隙を、マスターの鋭い目は絶対に見逃さなかった。
「颯太ぁ!!」
ガンッ! と、マスターがお玉でステンレスの調理台を叩く音が響いた。
「お前、今日は一体どうしたんだ! さっきから上の空じゃねえか!」
「っ、申し訳ありません!」
「パスタの端が少し焦げてるぞ! そんなもんをお客に出せるか! 作り直せ!」
「はい!」
急いでフライパンをシンクに置き、新しい麺を茹で直す。
マスターは厳しい顔で、颯太を睨みつけていた。
「料理ってのはな、心で作るもんだ。包丁の入れ方、火の入れ方一つに、作り手の精神状態が全部出る。
今日のお前みたいに、心がどこか別の場所に飛んでるヤツが作ったメシは、食えばすぐにわかるんだよ。……美味くねえんだ」
マスターの言葉は、ぐさりと颯太の胸に刺さった。
反論の余地もない。
まったくもってその通りだったからだ。
颯太の頭の中には、昨日の夜、路地裏で見せた富永楓菜の顔がこびりついて離れなかった。
『いつか、あんなオムライスを食べるのが、夢なんだ』
泣き出しそうな、それでいて何かを必死に堪えているような、切実な響き。
同じ教室にいる時は、いつも真面目で、隙がなくて、一人で何でもこなしてしまう優等生。
けれど昨日見た彼女は、年相応の、いや、もっと幼い子供のように無防備な顔をしていた。
(……なんで俺、あんなこと言っちまったんだろ)
まかないを食わせてやる。
そう口走った時、颯太自身も驚いていた。
普段の自分なら、他人の事情にそこまで深く首を突っ込むような真似はしない。
だが、あの看板を羨ましそうに見つめる彼女の横顔を見た瞬間、無性に腹が立ったのだ。
世の中の不公平さになのか、それとも、そんな顔をさせている何かに対してなのか。
気づけば「俺が食わせてやる」と、口が勝手に動いていた。
(……アイツ、本当に来るかな)
時計を見ると、午後七時を回ったところだった。
もし来てくれなかったらどうしよう、という不安と、来てしまったら今の自分の腕で彼女を満足させられるのか、というプレッシャー。
それが、今日の颯太のミスを誘発していた。
「……マスター、すみません。ちょっと、考え事してて」
「フン。まぁいい。ピークは越えたし、俺はこれから商店街の組合の集まりがある。今日はもう店を閉めるぞ」
マスターはエプロンを外し、コックコートの襟を正した。
「火の元と戸締まりはしっかりやっておけ。残ったメシは、まかないで好きに食って帰っていいからな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「……お前、今日は残って少し練習していくんだろ。昨日の夜も、卵何個も割ってオムレツの練習してたの、知ってんだぞ。あんまり使いすぎると給料から差し引くからな」
図星を突かれ、颯太は肩をビクッと跳ねさせた。
「誰に食わせるんだか知らねえがな」
マスターは店の裏口へ向かいながら、背中越しにポンと手を振った。
「焦るな。卵は生き物だ。優しく、だが迷わず一気に巻き上げろ。……それから、待たせてる相手がいるなら、最高の顔で出してやれ」
「っ……! はい!」
マスターが出て行った後、厨房にはシンクを流れる水の音だけが残った。
時計の針は、七時二十五分。
颯太は深く深呼吸をし、乱れた息を整えた。
フライパンを磨き上げ、コンロの火を一度落とす。冷蔵庫から、今日のために特別に分けておいてもらった一番良い卵を三個、そっと取り出した。
ボウル、ホイッパー、バター。
そして、じっくりと煮込まれたチキンライス。
すべての準備を整え、颯太は裏口の扉を開けて、外の冷たい空気を吸い込んだ。
路地裏の街灯の下。
ポケットに手を突っ込み、壁に寄りかかって待つ。
心臓が、柄にもなくバクバクと五月蝿い音を立てていた。
* * *
七時半ちょうど。
タイムカードを切るなり、私は裏口から飛び出した。
「富永さん、お疲れー! 今日なんか急いでるね?」というパートさんの声に、「はい、ちょっと用事があって! お疲れ様でした!」と元気よく返し、駅前の道を小走りで進む。
秋の夜風が頬を冷やしていくが、体の中はポカポカと温かかった。
商店街のアーケードを抜け、見慣れた路地裏へと曲がる。
その瞬間、私の足はピタリと止まった。
街灯の淡い光の下。
赤レンガの壁に寄りかかるようにして、梶原くんが立っていた。
白いシャツに、黒の長いエプロン姿。腕を組み、下を向いて足先で地面をコツコツと叩いている。
その横顔は、教室で見せる退屈そうなものではなく、どこか緊張しているように見えた。
私が足音を立てると、彼はハッとして顔を上げた。
「……来たか」
彼の低い声が、静かな路地裏に響く。
私は小さく息を整えながら、コクンと頷いた。
「う、うん。バイト終わったから……。あの、本当に良かったの? 迷惑じゃなかった?」
「迷惑なら呼んでねえよ。マスターもちょうど出かけたところだから、貸切だ」
梶原くんは壁から背中を離し、ふっと短く笑った。
その笑顔があまりにも自然で、大人びて見えて、私の心臓がドキンと大きな音を立てる。
「今から作るから、ちょっとここで待ってて。中に部外者入れると、保健所的にうるせえからさ」
「あ、うん。わかった」
梶原くんは勝手口の重い鉄扉を開け、中へ入っていく。
バタン、と扉が閉まるかと思ったが、彼は何かを思い出したように振り返り、扉の間に古雑誌を挟んで、十センチほど隙間を開けたままにしてくれた。
「……煙たかったら、離れてろよ」
それだけ言って、彼は厨房の奥へと消えていった。
私は扉の隙間から漏れ出す暖かなオレンジ色の光に吸い寄せられるように、そっと顔を近づけた。
隙間から覗く厨房は、まさに『プロの戦場』だった。
鈍く光るステンレスの調理台、床のタイル、壁に掛けられた無数のフライパンやレードル。
家庭の台所とはまったく違う、重厚で熱を帯びた空間。
その中央のコンロの前に、梶原くんが立っていた。
彼はエプロンの紐をギュッと結び直し、ボウルに卵を割り入れた。
片手でコンッ、と殻を割り、リズミカルに三つの卵を落としていく。
その無駄のない手つきに、私は思わず息を呑んだ。
カチャカチャカチャカチャッ!
ホイッパーで卵を溶きほぐす、軽快な音が響く。
空気を含ませるように、手首のスナップを利かせて力強く、しかし卵の繊維を壊さないように優しく。
次に彼が動かしたのは、業務用の巨大なガスコンロだった。
カチッ、ボッ! という音と共に、青く鋭い炎が立ち上がる。
梶原くんは鉄のフライパンを火にかけ、油を馴染ませると、そこに四角いバターの欠片を放り込んだ。
ジュワァァァッ……!
バターが溶け、泡立ち、甘く芳醇な香りが換気扇を通じて裏口まで届いてくる。
空腹の胃袋が、たまらずきゅうっと鳴った。
私は、扉の隙間から彼から目が離せなかった。
火の前に立つ梶原くんの顔は、真剣そのものだった。
オレンジ色の炎に照らされた横顔。前髪の隙間から覗く、獲物を狙うような鋭い目。
きつく結ばれた唇。
そして、フライパンの柄を握る腕の筋が、小刻みに動くたびに隆起する。
(すごい……)
教室では、机に突っ伏して寝ているか、面倒くさそうに窓の外を見ている彼。
そんな彼が、今はこんなにも熱く、ひたむきな顔で、フライパンと向き合っている。
私の『夢』を叶えるために、あの火傷だらけの手で、必死に卵を操っている。
ジュウウウウッ!
溶き卵がフライパンに流し込まれた瞬間、激しい音が弾けた。
そこからの彼の動きは、魔法のようだった。
左手でフライパンを前後に激しく振りながら、右手で菜箸を細かく動かし、卵をかき混ぜていく。
半熟の層が幾重にも重なり、ふわふわのクッションが形成されていく。
「…………っ」
梶原くんの口から、短く鋭い呼気が漏れた。
火からフライパンを浮かせ、柄をトントン、トントンとリズミカルに叩き始める。
すると、平らだった卵が、まるで生き物のようにくるくると丸まり、見事な紡錘形――ラグビーボールの形へと姿を変えていくではないか。
(テレビで見たのと同じだ……いや、それ以上かもしれない)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛くなった。
それは空腹のせいだけじゃない。
彼が料理に向き合う真剣な姿が、私のために汗を流してくれているその背中が、たまらなく愛おしく、かっこよく見えてしまったからだ。
ウキウキしていた自分が恥ずかしくなる。
これは遊びじゃない。彼は、真剣に私の願いと向き合ってくれているのだ。
カチャッ。
火が止められ、フライパンがコンロから離れた。
梶原くんは、あらかじめ用意してあったチキンライスの皿に向かって、フライパンを傾ける。
コロン、と。
黄金色に輝く、美しい紡錘形のオムレツが、チキンライスの上にふんわりと着地した。
「……よし」
小さく呟く彼の声が聞こえた。
仕上げに、小鍋で温めていた特製のデミグラスソースを、レードルでたっぷりと横に添える。
完成だ。
梶原くんが、皿を両手で持ち上げ、ふうっと一つ大きな息を吐いた。
そして、こちらに向かって歩き出す。
私は慌てて隙間から顔を離し、一歩後ろに下がった。
鼓動が早鐘のように打ち鳴らされている。
彼が近づいてくる足音が、私の心拍数とシンクロしているようだった。
ギィィ……。
重い鉄扉が、ゆっくりと大きく開かれた。
そこには、額に汗を浮かべ、少しだけ照れくさそうに微笑む彼が立っていた。
両手には、湯気とともにバターとデミグラスソースの暴力的なまでの香りを放つ、黄金の皿が握られている。
「……待たせたな」
梶原くんは、私を真っ直ぐに見つめ、あの低い声で言った。
「うちのまかない、『特製たんぽぽオムライス』だ。冷めないうちに、食ってくれ」
差し出されたその皿の上で、ぷるぷると震える柔らかな奇跡から、私はもう、目を逸らすことができなかった。
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